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シュレーディンガーの猫の殺意

【問題】


 ミクロの世界を扱う量子の世界では、マクロの世界では起こり得ないことが起きます。量子の世界においては、粒子が、観測されていない時と観測されている時とではふるまいを変えるのです。

 確率解釈という考え方では、このことを「重なり合い」で説明します。すなわち、観測される前の粒子は様々な状態が「重なり合った状態」であり、観測されることによって粒子はいずれかの状態に収束されると考えるのです。


 この確率解釈の考え方に異論を唱えたのがシュレーディンガーでした。シュレーディンガーは「重なり合い」のおかしさを指摘するために、以下の思考実験(「シュレーディンガーの猫」)を行ったのです。


《シュレーディンガーの猫》

 箱の中に1時間以内に50%の確率で崩壊する放射性原子があったとする。確率解釈の考え方にしたがって考えると、1時間後の箱の中には、放射性原子が崩壊していない状態と崩壊した状態が50%ずつ重なり合った状態が存在することになる。

 この箱の中に、猫と、原子が崩壊した場合に致死量の青酸ガスを出す装置を入れる。

 そうすると、1時間後の箱の中には、生きている状態の猫と死んでいる状態の猫が50%ずつ存在することになる。

 そして、観測されることによって、猫の状態は、生きている状態か死んでいる状態かのいずれかに収束することになる。



 シュレーディンガーは、この思考実験により、「生きているが死んでいる猫」なんてありえず、ゆえに確率解釈はおかしい、ということを論証しようとしたのです。


 シュレーディンガーの論証は成功しているでしょうか。


挿絵(By みてみん)




「皆様、見てください。これから私シュレーディンガーが、『シュレーディンガーの猫』を実演してみせます」


 最新論文で披露した「シュレーディンガーの猫」に対する学会の反応がイマイチだったので、シュレーディンガーは、ついに学会員の前でそれ実演することにしたのだ。



 今、シュレーディンガーの目の前には、世界中から集まった学者たちがいる。


 確率解釈を声高に唱え続ける「憎き」ウィグナーもその中にいる。



「ここに細長い箱があります。箱は不透明な材質で作られており、蓋を開けない限り、中の様子を知ることはできません。つまり、蓋を開けない限り、中の様子は観測されないのです」


 シュレーディンガーは長方形の箱を掲げ、蓋となっている面を除き、他には穴が空いていないことを学会員たちに見せつけた。まるで手品師のようだ、と我ながら少し笑えてくる。



「ここに小さな氷が一つあります。これはただの氷ではありません。この中には1粒の放射性原子が閉じ込められているのです。この放射性原子は、1時間以内に50%の確率で崩壊しますが、50%の確率で崩壊しない性質を持っています。この氷を箱の中に入れます」


 シュレーディンガーは、放射性原子入りの氷を箱の中に投げ入れた。



「この箱の中に、この装置を入れます。これは、原子の崩壊を感知し、青酸ガスを放出する装置です。原子が崩壊した場合、猫1匹を優に殺すことができる量の青酸ガスが出されます」


 この装置は、昨日シュレーディンガーが徹夜して完成させたものだった。これも箱の中に投げ入れる。



「そして、ここにいるのは猫です。三毛猫です」


 シュレーディンガーは、今度は両前脚を掴み、猫を高く掲げた。

 ふっくらと太った猫が「にゃー」と気怠そうに鳴き声を上げた。



「気の毒ですが、この猫にも実験に協力してもらいます」



 シュレーディンガーは、猫を箱の中に入れた。

 太っているために贅肉が突っ掛かり詰め込むのは大変だったが、太っているために猫はあまり激しく暴れることはなかったので、作業は比較的スムーズに進んだ。



「そして、最後に蓋を閉じます。これによって、猫は観測不可能な状態となります」


 シュレーディンガーが蓋を閉じ、金具を留める。


 これにて無事「シュレーディンガーの猫」が完成した。



「量子力学における確率解釈を唱えている方々によれば、1時間後のこの箱の中には、生きている状態の猫と死んでいる状態の猫が50%ずつ存在することになるはずです。本当でしょうか? それでは1時間、いや、氷が溶けるまでの時間も含めて1時間30分待ってみましょう」





 1時間30分後、シュレーディンガーは再び学者たちの前に立った。



「1時間30分が経ちました。確率解釈によれば、蓋を開けてしまうと猫の状態は生きているか死んでいるかのどちらかの状態に収斂されます。他方、蓋を開ける前には、『生きているが死んでいる猫』が入っていることになります。果たして本当でしょうか」


 シュレーディンガーは、外側から箱をトントンと叩いた。



「にゃー」


 箱の中から、少しくぐもった先ほどの猫の鳴き声が聞こえた。



「皆様、これが世にも珍しい『生きているが死んでいる猫』の鳴き声です!! どうですか!!?? すごいでしょ!!??」


 シュレーディンガーは、確率解釈論者たち、特にウィグナーをバカにすべく、身振り手振りも使って大袈裟に表現した。



「私にはこれが50%の確率で生き延びることのできた普通の猫の鳴き声に聞こえるのですが、私の目の前にいる誰かさんにとっては、これは『生きているが死んでいる猫』の鳴き声なのです。なんて素晴らしいことでしょう!!」


 シュレーディンガーは、ウィグナーに目を合わせる。

 少なくともシュレーディンガーの目には、彼が悔しげな表情をしているように見えた。



「『生きているが死んでいる猫』はあまりにも貴重なので、このまま箱に入れた状態でしばらく私の家で保管しておくことにします。興味のある方は、いつでも見に来てください。学会員であれば誰でもウェルカムです」






 学会員の前でシュレーディンガーの猫を実演した4日後、シュレーディンガーは早速そのことを後悔していた。


 「シュレーディンガーの猫」は一般市民の間であらぬ形で広まってしまったのだ。



「おい、あっち見ろよ! ねこゾンビ野郎がいるぞ!!」


「本当だ!! ねこゾーンビ! ねこゾーンビ!」


 街を歩いていると、子どもたちがシュレーディンガーを指差し、嘲笑の的とした。



 さらに、広場にある掲示板には、


「シュレーディンガーあたおかすぎワロタ」


「学者なのに矛盾し過ぎてて草」


といったシュレーディンガーに対する誹謗中傷の書き込みが溢れていた。


 世間の人々は、昨日のシュレーディンガーの行動や発言の一部のみを切り取り、シュレーディンガーがまるで「生きているが死んでいる猫」の存在を信じている者かのように誤解していたのである。


 実際にはむしろ逆だというのに。



 しかも、シュレーディンガーにとって何より悔しかったのは、肝心のウィグナーの反応である。



 記者からのインタビューで「シュレーディンガーの猫」の感想を聞かれたウィグナーは、


「ただの動物虐待にしか見えなかった」


と一言述べただけだったのだ。


 あろうことか「シュレーディンガーの猫」の本意はウィグナーにも届いていなかったのである。


 



 腐った生卵を投げつけられる洗礼なども受けつつ、帰宅したシュレーディンガーは、ソファーの上で考えた。



 一般市民に関してはもうどうでもよい。彼らには学者の高尚な議論を理解する素養がないから、彼らに何を言っても無駄である。



 しかし、ウィグナーのあの態度はどうしても許せない。



 一体どうすればウィグナーに確率解釈のおかしさが伝わるのだろうか。


 そして、彼に自らの過ちを認めさせ、シュレーディンガーの前にひざまづかせることができるのだろうか。



――閃いた。



 シュレーディンガーは立ち上がり、自宅の研究スペースへと向かうと、再び「例の装置」作りに取り掛かった。






 「シュレーディンガーの猫」が実演された1週間後、翌日の講義の準備を終えたウィグナーは、いつもどおりの時間に帰宅した。



 鍵を開け、ドアを開けると、広い玄関で妻がうつ伏せに倒れていた。



「おい!! 大丈夫か!!」


 ウィグナーが慌てて駆け寄り、妻を抱き上げたが、妻は完全に冷たくなっており、脈ももうなかった。



 悲しみに暮れるウィグナーの目に、ふと、普段家にはないものが目に入る。



 それは床に置かれた「例の装置」だった。






 シュレーディンガーは、時計を確認する。



 今頃、50%の確率で、ウィグナーが妻を殺している・・・・・・・ことだろう。



 シュレーディンガーは、ウィグナーとその妻が不在にしている間を狙い、ウィグナー宅に侵入し、「原子が崩壊した場合に青酸カリを出す装置」を仕掛けた。それと同時に「1粒の放射性原子が閉じ込められた氷」を置いておいた。この放射性原子は、「シュレーディンガーの猫」同様に50%の確率で崩壊するものである。



 もしウィグナーの妻が死んでしまった場合、一見するとシュレーディンガーによる殺人のようだが、ウィグナーをはじめとする確率解釈論者から見れば、そうではない。



 確率解釈論者の考えによれば、ウィグナーが家のドアを開けるまでは、ウィグナーの妻は「生きているが死んでいる状態」であり、ウィグナーが家のドアを開けることによって、ウィグナーの妻の状態は生か死に収束するのである。

 すなわち、ウィグナーの妻が死亡した場合、その死はウィグナーが観測した、すなわち、ウィグナーがドアを開けたことによってもたらされた死だということだ。



 ウィグナーが自らの考え方に固執するのであれば、ウィグナー自身が妻殺しの犯人ということになってしまう。


 ウィグナーが選べる道は2つに1つ。


 妻殺しの犯人の地位を甘んじて受けるか、自らの学説を撤回するかのいずれかなのである。



 いずれに転んでも実に愉快なシチュエーションであるが、シュレーディンガー的により望ましいのは後者だった。すなわち、刑罰を恐れたウィグナーが学者のプライドを捨て、自らの学説を撤回するパターンである。


 もしそうなれば、シュレーディンガーが殺人犯として捕まることになるが、それはもう構わない。このまま「猫ゾンビ野郎」とバカにされて生きるよりも、殺人犯として一定期間服役していた方がマシである。





 1時間後、自宅のドアが激しく叩かれた。


 ドアを開けると、そこには警官がいた。



「エルヴァン・シュレーディンガー、あなたを殺人の容疑で逮捕します」



 シュレーディンガーは声を出して笑う。



「あはははははは。なんと愉快なんだ。ウィグナーの奴、まさか1時間足らずで自分の学説を撤回するとはな。あははははははは」


 警官は首を傾げる。



「学説? 一体何の話ですか?」


「あのバカげた学説だよ。『生きているが死んでいる状態』を認める確率解釈のことだ」


「ん? それはシュレーディンガーさんの学説ですよね?」


 警官は市民と同じ誤解をしていた。



「違う。それはウィグナーの学説だ。そして、ウィグナーのそのふざけた学説によれば、ウィグナーの妻を殺したのはウィグナーとなるはずなんだ。しかし、ウィグナーは殺人の容疑を晴らすべく、あっけなく自らの学説の過ちを認めたんだ」


「え? 最初からウィグナーさんに殺人の容疑なんてかかってないですが……」


「ん? ウィグナーはそんなあっという間に自分の学説を捨てたのか?」


「いや、というか、たしかにウィグナーさんは『重なり合い』がどうだこうだとかよく分からないことを言っていたのですが、警察には全く理解できなかったので、シンプルに装置についた指紋だけを手掛かりにシュレーディンガーさんを逮捕することになったんです」



 なんということだ!!! ウィグナーは自らの学説の過ちを認めず、かつ、シュレーディンガーが逮捕されてしまうという最悪の展開ではないか!!!



「ちょっと待て!! そんなのダメだ!!! 絶対に認めないぞ!!!」


「何を認めないんですか?」



 シュレーディンガーは、警官を部屋に招くと、ウィグナーと自分の学説の対立について丁寧に説明した。



「なんか分かったような分からないような話なのですが、つまり、生きている事実と死んでいる事実が『重なり合う』と考えた場合には、ウィグナーさんが犯人であって、シュレーディンガーさんは犯人じゃないということですか?」


「そういうことだ」


「じゃあ、警察である僕はどうすればいいんですか?」


「もう一度そのあたりの話をウィグナーに聞いてきてくれ」


「面倒臭いですね……」


 警官は頭を抱え、しばらく考え込んだ。



 そのとき、シュレーディンガーの部屋に置かれたあるものが、警官の目に入った。



「シュレーディンガーさん、もしかして、あれって『シュレーディンガーの猫』ですか?」


「そうだが」


 警官が指差す先には、シュレーディンガーが学会員の前で作ってみせた「シュレーディンガーの猫」が置かれていた。



「シュレーディンガーさんが作って以降、この箱って開けられてないんですよね?」


「そうだが」



 シュレーディンガーは、学会員の前で宣伝したとおり、学会員に公開するために「シュレーディンガーの猫」をそのままの状態で保管していたのである。結局、誰一人としてシュレーディンガーの家にそれを見に来た者はいなかったが。



「じゃあ、今、僕がこの箱の中身を確認して、万が一死んだ猫が出てくれば、シュレーディンガーさんは犯人じゃないということになるんじゃないですか?」


「どういう意味だ?」


「だって、シュレーディンガーさんが学会員の前で披露したときには、箱を叩くと猫の鳴き声がしたんですよね? とすると、あのときの猫の状態は、生きている、もしくは、『生きているが死んでいる』のどちらかなんです。あのときの猫の状態が生きている状態、すなわち『重なり合い』を認めないとすれば、蓋を開けても状態は変わらず、当然に今も猫は生きていることになります。他方、仮にあのときの猫が『生きているが死んでいる』状態だったとすれば、今蓋を開ける、すなわち、観測することによって、猫は生きているか死んでいるかのいずれかの状態に収束するので、50%の確率で死んでいる猫が出てくることになります。今蓋を開けて死んだ猫が出るパターンというのは、あのときの猫が『生きているが死んでいる』状態のパターンしかありえないのです。ですので、仮に死んだ猫が出てくれば、それは観測前に『重なり合い』があったことを裏付けることになるんです」


「なるほど」


「じゃあ、早速開けてみますね!!」


 警官は器用に金具を外し、蓋を開け、箱の中の猫の様子を確認した。



「……死んでます」



 それはシュレーディンガーにとって、あまりにも大きな衝撃であった。シュレーディンガーの考えに反し、「生きているが死んでいる猫」は実在したということなのである。



「ということで、これでシュレーディンガーさんは犯人ではないということが明らかになりました。疑って申し訳ありませんでした」



 警官は被っていた帽子を外して深くお辞儀すると、シュレーディンガーの家を辞去した。



――そんな。ありえない。「生きているが死んでいる猫」なんて、絶対にありえない。



 シュレーディンガーは、おそるおそる箱の中身を覗く。




 そこには1週間餌を与えられなかったためにひどく痩せこけてしまった猫の死骸が入っていた。



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― 新着の感想 ―
[一言] ほかに猫の図の書き方なかったん?って5分くらい笑ってしまった 面白いです
[良い点] ねこゾンビの罵倒がセンス良い [気になる点] 仮定を実現させてる発明が天才すぎて気になって頭がいっぱいになってしまった [一言] オチでただの動物虐待の話にしか思えなくなった
[一言] 確かにシュレディンさん、世間一般だと「よくわかんないコト言ってる支持派」扱いされてますよね。 「憎き」ウィグナーw 捻りが効いていておもしろかったです。
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