第四二話
この島より東には海しかない。
ゆえにここは王国で最も早く太陽が昇る海岸なのだ。
この先に島はない。そのはずなのに波際には時折、不可思議なものが届けられる。
それは人の手が加えられたものであったり、見たこともない木の実であったり、あるいは人であったり、届くものは様々だ。
島民はそれらを神々からのおくりものとして大切に、時には恐れをもって受け入れる。
水平線を太陽が彩る。久方ぶりに見る曇りのない空に、少女は頬をほころばせた。
近頃は雨続きでなかなか晴れ間を見ることがなかったのだ。恵みの雨は喜ばしいが、やはり幼子がいる身としては家屋の中に閉じ込められる長雨はつらい。子にとっては尚更つらいだろう。
腕に抱いていた幼子を砂浜におろす。
一人で歩くということを覚えた娘は、生来の活発さで好奇心のままに動き回るため、ふだんは気が気ではないのだが、なぜか彼女は海辺ではおとなしい。つたない足取りでとてとてと波際まで歩み寄ると、打ち寄せては引く波をじっと眺めている。
その後ろ姿を気にかけながら、少女は背後を振り返った。
「よもや再びお会いすることが叶うとは思っておりませんでした。まるで夢のようです」
「そうですか」
青年の声色は平坦で感情が読み取れない。
しかし少女はそれでも気にしない。神使とはそういうものかと受け止め、再び海の果てを眺める。
「あの娘は、きみの子なのですよね?」
「はい。無事に生まれ、あのように健やかに育っているのも神々と、我が姫のご加護のおかげと思っております。本当に有難いことです」
「……姫の」
「はい。王都にいらっしゃったのであれば、なぜ姫様はあのように悪し様に言われておられるのか、その理由をご存知ではありませんか? 聞けば東の城でも、今は姫様の名を口にすることさえ憚られているとか。あの城こそ姫様のお指図により生き残ったようなものでしょうに」
この国は長きにわたり旱や不作、そして疫病に悩まされていた。
姫が備蓄を命じたのは、東の地に着任してすぐのこと。
当時姫はまだ齢十歳を過ぎて間もなかった。その命令を軽んじる者もいたそうだが、彼女は己に背く者を厳しく処罰し、備蓄を蓄え城の壁を強固なものにしていった。
結果、東の城は長きにわたる厄災の時代を耐え抜くことができた。
この島も例外ではない。王国の最東端という重要な位置にありながら、荒波に囲まれた絶海の孤島であるため容易に舟を渡すこともできず、必然救援の手は遅れがちになる。そのため姫は旱に強い作物や木の実を他の島から移植していた。
それなのに耳にする噂は、姫を悪し様に罵るものばかり。
姫の恩恵を受けているこの島の人々でさえ、魔の女王チマジムと呼ばれるようになった姫を畏れ、粛清されたとの知らせを受けた時には、安堵に胸を撫で下ろしていた。
恩知らずと声高に非難できれば、どれほどよかっただろう。
けれど島を出ること禁じられた身では、それもできなかった。
小さな島だ。島人は全員が顔見知りであるといっても過言ではない。
そのような集落の中で諍いを起こせば、この先きっと生きづらくなる。
娘にとって身寄りは母である自分だけだ。そのことが憤る気持ちに歯止めをかけた。
今ここで敵を作るわけにはいかない。
あの娘は姫が授けてくれた、誰よりも特別な娘なのだから、姫が選んだこの島で、立派に育て上げなくては。
「わたくしが姫様にお仕えしていた時間はさほど長くはありません。ですが……、たしかに厳しい御方でしたけれど、あのお優しい姫様が魔の女王チマジムなどと呼ばれ、民草に恐れられるような非道なふるまいをなさるとは、どうしても思えないのです」
「でもそれが事実だ」
それまで沈黙を保っていたもう一人の青年がおもむろに告げた。
かつて東の城で会いまみえたことがある。神と呼ばれていた方の青年だ。
「魔の女王チマジムは私利私欲の限りを尽くし、民を虐げ、気に入らない者は処刑して魔物に喰わせた。王国史上稀に見る残虐非道な王だった。それが事実で、他はない。べつにそれでいいじゃないか。今の王様はちょっと頼りないけど皆に慕われてるし、月神女カーヤカーナも人気者だし、問題ないだろ」
「ですが!」
感情的になって叫んでしまってから、はっと気づく。
相手は神だ。
――だが、神だから何だというのだろう。主を侮辱されて黙っていられるわけがない。
けれど黙らなくては。
視界の隅に娘の姿が過ぎる。あの娘のことを第一に思うならば、神に背くなどとんでもない失態だろう。
「……いえ、何でもありません。声を荒げてしまい申し訳ございません」
悔しい。悔しい。悔しい。でも黙るしかない。
どうして誰も知らないのだろう。
あの姫がどれほど民を、国を愛しんでいたか。
大切なものを守るためなら、己を犠牲にすることさえ厭わなかった、あの強さと優しさを。
こちらを睥睨する神の目は昏く、冷たい。
その様子に畏怖を抱くよりも強く違和感を覚えた。
何かがおかしい。
こんな目をする青年だっただろうか。
姫が東の城へ連れて来た神は、もっと気さくで、朗らかだったと記憶している。
数年を経て、彼もまた変わってしまったのかもしれないと思うと、悲しかった。
波打ち際にいた娘がおもむろに立ち上がる。
足元に打ち寄せては引く貝殻に魅入られたようだ。前のめりに追いかけて手に掴もうとしている。見るからに危うい。
「マツリカ!」
隣で青年の体がびくりと震えた。
「それ以上海へ近づいてはいけませんよ! こちらへいらっしゃいな」
「……今、なんて」
「はい?」
駆け寄り、娘を腕に抱き上げる。追いかけていた貝殻を手に握らせてやると、声をあげて笑った。
「今、その娘のことを、マツリカって?」
「はい。我が姫が名付けてくださいました。マツリカの花のように多くの人々に愛されるようにと。姫の真名なのだそうです」
ぽたり、と涙が頬を伝う。
青年は泣いていた。
「神よ、どうなされたのですか? あの、わたくし、何かいけないことを申し上げましたでしょうか?」
「なんだよ、……あの大嘘つき」
涙声でそう悪態をつく。
青年の涙はなかなか止まらない。顔を伏せ、ついにはしゃがみこんでしまった。
どうしよう。
途方に暮れて神使を見やると、彼は苦笑していた。どうしようもない、とでも言うように。
「姫の真名を受け取ったのはいつのことですか?」
「新しい王が即位なさった頃のことです。ある日突然、使者様がいらして、姫様からのお言葉を伝えてくださり、わたくしと娘の生活ぶりを数日ご覧になった後、やはり突然姿を消してしまわれて」
「もしかしてその女性は魔物に乗っていたり……」
乗っていた。猫のようにしなやかな体躯で、海を越えてゆく大きな魔物に。
皆まで聞かずとも分かったらしい。そのとおりだと告げるより早く神使は顎に手を添え、目を閉じてしまった。
「マヤーもクムイも、一言相談してくれたらよかったのに、と僕でも思いますよ。大丈夫です。裏切られたような気分になっているのはきみだけではありません。大丈夫です。きみから聞いた僕らの関係性からすると、そう思うのは必然です。大丈夫です」
うるさいな、というようなことを神は呟いたようだが、くぐもっていてそれ以上はよくわからなかった。
もしや神は、姫を想い、泣いてくれているのだろうか。
――嬉しい。
感無量だ。涙を堪えていると、娘が不思議そうにまたたいた。
娘は何を感じ取ったのか、貝殻を大事そうに手とお腹の間ではさみこむと、空いた方の手で頬を撫でてくれる。砂がついていて、ざらざらする。それがおかしくて、また涙腺がゆるんだ。
「神よ。どうかこの子を、……マツリカを、抱いてやってくれませんか?」
神はなかなか動かない。
待ってみてもやっぱり動かない。
しかし拒絶の気配もない。
膝を折って距離を縮める。顔を覆う手を無理やりつかみ、娘の手に触れさせる。
そのやわらかさに驚いたのだろう。神は顔を上げ、目を丸くして娘を見た。
泣き濡れて真っ赤になった双眸に娘が映る。
震える手は、けれど娘を渡すと、しっかりと彼女を抱き上げた。
人見知りしない娘は泣いている神の頬を撫でる。するとますます溢れてくる涙を不思議そうに眺め、また撫でる。その繰り返しだ。
どうして姫の真名がそれほどまでに神の心を震わせるのか。
その理由は知らない。ただそこには大切な時間があったのだろうと推察するばかりだ。
涙と砂にまみれた顔を袖でぬぐうと神は立ち上がった。
「マツリカ、何か困ったことがあればすぐに俺を呼べよ。今度は……今度こそきっと、守ってやるからさ」
海の果てから生まれたばかりの太陽が世界を照らす。
姫のいないこの国で、それでも生きていくのだ。




