第三九話
どこで道を違えたのだろう。
それともすべての道がここへ繋がっていて、辿り着くべくして辿り着いたのか。
「どうでしょう。正しさだけを求めるのであれば、悪政を敷き、民を虐げた魔の女王であるわたくしは、火に炙られ殺されるべきなのでしょうけれど」
それは嫌だ。だったら正しさなどいらない。
生きていてほしい。
どれほどつらくても、苦しくても、生きてさえいればきっと――。
「牢に繋がれ、誰に会うこともなく、ただ老いて朽ち果てるのを独り待てと仰るの?」
果たしてそれを生きていると言えるのかと彼女は問う。それは否というより他の返答を許さない詰問だった。
後手に回るとはまさにこのことだ。
すべては次代の月神女と目されていたアガリエが、突然王城を訪れたことが契機となっていた。
そして彼女の隣に神たる青年がいたことが、時機を待っていた者たちを焚きつけた。
王位継承にまつわる騒動は起きるべくして起きたものだ。それを止めることが叶わなかったとしても、せめて亡き王母の暴走を抑えることができていれば、このような事態にはならなかったのではないだろうか。
皆で少年王を支え、国を立て直していれば、あるいは。
「義母上がいなければ、当初の計画通り、わたくしは悪名高い月神女となるべく、今よりさらに悪事に手を染めていたことでしょう。父の代から続く腐敗は根深く、自らその極致に至らなくてはすべてを把握することさえ難しく、いつか誰かが道連れにしなくてはならないほど強大なものだったのです。わたくしに選ぶことができたのは、玉座に座す弟君の隣にいるのが義母上か、……イリかということだけです。わたくしとしてはイリを玉座に近づけたくはなかったのですけれど。イリには政の喧騒とは程遠い場所で、心の赴くままに過ごしていてもらえたら、それで」
ああ、そうか。
不意に気づいた。
アガリエは己の命よりも、イリの方が大切なのだ。
月神女であることも女王であることも、彼女にとってはさほど重要なことではない。
地位や名誉よりも大切なもの。
それは双子の姉の行く末が幸せであるかどうか。
もしもアガリエの身に何かあれば、次代の月神女に選ばれるのは姉であるイリなのだろう。王位継承権がある王子にばかり気を取られていたが、思えば月神女になる資格を有する王家の子女の数も少ない。アガリエほどではないにしろ、イリもまた西という重要な地を任せるに足る神女だ。
月神女ともなれば必然、玉座に近づく。
あの心優しいイリが不正を見過ごせるはずもない。彼女が月神女になったなら、傷つき苦しみながらも立ち向かっていくはずだ。
アガリエが本当に嫌なのは、きっとイリが悲しむことなのだ。
ゆえに、アガリエこそを助けたいと望むゼンの心は、彼女には届かない。
イリが泣くことのない世であること。
それがアガリエの、本当の願い。
けれどいかにマナ使いであろうと、完璧な世を作ることはできない。
だからアガリエは願わなかった。
己の願いは己で叶えるべく十年来の計画を遂行し、願うかわりにゼンを神と偽り利用した。
腕に抱く少女の体はこんなにも小さく、頼りない。
いっそこのまま二人で逃げてしまおうか。
このまま歩を進めればいずれ地上に辿り着く。民の不満を一心に受け止めて、アガリエは死ぬつもりだ。そうなる前にどこか遠くへ逃げてしまえば。
「わたくしがそれを許すとでも?」
思わない。
だからこそ彼女の体はこんなにも弱っている。
逃げたところで先は永くない。いくら注いでも零れ落ちていくマナがそれを物語っている。
彼女の体はもう限界なのだ。おそらくは毒に侵されている。
だったらせめて彼女の願いを叶えてやるべきだ。
目頭が熱い。
胸の奥も熱い。
大切なのに、大切だからこそ、他の選択肢を選べないことがあるなんて、知らなかった。
「わたくしにくちづけてみますか?」
以前、くちづけることで彼女からマナを奪い、気絶させてしまったことがある。そのことを揶揄しているのだと気づき、苦笑した。
額に、目元に、唇に、そっとくちづける。
冷たい頬がくすぐったい、と笑う。
「わたくしのマナ使いがゼン様で、心からよかったと思います」
*
ゼンがアガリエをつれて地上に戻る頃には、太陽はすでに薄暗い闇に覆いつくされていたが、微かだが光を取り戻す気配も見えた。暗がりの向こうに薄っすらと、けれど確かに光が広がっていく。
しかし混乱を極める地上で、そのことに気づく者は少ない。
前庭では敵味方入り乱れた戦闘が繰り広げられていた。
御殿に本陣を構えているのは女王派だろう。ならば敵対しているのは、ゼンと共に地下道から城へ侵入した西の者たちのはずだ。首尾よく同朋を城内へ引き入れることに成功したと見える。
ゼンはアガリエを抱き抱えたまま正門の赤屋根の上に降り立つ。ここなら矢も届かない。
アガリエを腕から下ろす。すでに一人で立つ力さえ残されていない彼女は、屋根の上に座り込んだ。
「ゼン!」
名を呼ばれるも、相棒の姿を見つけるのにしばし時間を要した。
タキの姿は門から少し離れた場所にあった。
傍らには紫をまとう少年――見覚えがあると思ったら、それは先王だった。
地下の鍾乳洞で別れた折、タキは気になる気配があると言っていたが、あれは先王のことだったのか。
姉と弟の視線が重なる。
周囲が止めるのも聞かず、少年は叫ぶ。
「姉上、どうかこの騒乱をお鎮めください!」
「そう願うのならば、そなたが刀を引けば良いではないか。謀反を起こしたのはわたくしではなく、そなたであろう。騒乱の原因はそなただ」
姉の冷ややかな指摘に少年は柳眉を寄せたが、引かなかった。
「姉上の配下の者は大方捕らえました。城が落ちるのも時間の問題。もう充分です。あとは私に任せて、姉上は前線を退いてください」
「馬鹿馬鹿しい。わたくしに王位を譲ったのはそなただぞ。つい昨日……いや、太陽が再び昇ろうとしているからすでに一昨日のことか。たった三日で心変わりしたとでも言うのか。それが事実なら随分と短慮なことだ」
「どうとでも仰ってください。私は引きません。タキ、姉上を捕らえよ」
「僕がですか?」
「ゼン様と戦えるのは、そなたしかおらぬであろう。必ずだぞ、必ず姉上を生きたまま私の元へお連れせよ!」
渋るタキを少年は地団太を踏みそうな勢いで急かす。
ゼンもアガリエに背を押された。
「行ってください。わたくしは大丈夫ですから」
「……大丈夫って、何が大丈夫なんだよ」
喧騒の中、弟の耳に届くよう声を張ることさえ本当はつらいはずなのに。
アガリエの指を握りしめる。
「タキ様と戦わせることになってしまい、本当に申し訳なく思いますが、ゼン様に守っていただけるなんて、わたくし……」
冷たい指先がぎゅっとゼンの手を握り返す。
「心が躍ります」
「……馬鹿だな、本当に」
離れがたい。だがタキは待ってくれない。
アガリエの指を、放す。
心と体が乖離しそうなほどつらいのに、指は驚くほど呆気なく離れた。痛みを伴う息苦しさを後に残して。
ゼンを警戒しているのか、門の周囲には不自然な人の輪ができていた。武器を手にした誰もがその照準をゼンに合わせている。
どうやら先王の配下は、女王とともに現れたゼンを敵とみなしているようだ。神と崇めもてはやされていた頃が懐かしまれる。
地上に降りる。
目の前に立つのは相棒だ。いつもふらりとどこかへ行っては、それでも必ずゼンを見つけてくれる。誰より頼りになる相棒で、今までも、きっとこれからだって彼の言うとおりに動いていれば道を間違うことはない。
積み重ねてきたこれまでの歳月の中で、それが嫌というほどわかっているのに、どうして自分たちは今、対峙しているのだろう。
思うことは同じらしい。
タキは不思議そうに首を傾げる。
「僕の依頼主は、彼女を助けたいと願っているのですが……」
「そんなの俺だって助けたいよ」
「では何故、きみは僕と戦おうとしているのですか?」
「……命を守るだけじゃ、アガリエは満足してくれないから。邪魔だてしようものなら俺だって蹴り飛ばされるよ」
その時、誰かが叫んだ。
「魔物だ!」
――魔物?
その異質な気配に惹きつけられるようにゼンは空を振り仰ぐ。
ぼたり。
赤瓦の上に飛び散る鮮血、力なく垂れた手に刻み込まれた紋様が見る間に赤に飲み込まれてゆく。
胸元に刺さる牙がさらに深く食い込むと、
肉の奥で、骨が折れる音が、した。




