第三七話
屋根から屋根へと飛び移りたゼンは、ふと足を止める。
眼下の拝所にも神女たちが集っていた。膝をつき、一心不乱に祈っている。どこの拝所も似たようなものだ。
けれどゼンはアガリエが同朋たちと肩を並べて祈っている姿をほとんど見たことがない。出逢った時も背後に神女は控えていたが、アガリエだけが前に出て祈りを捧げていた。城にいた時もそうだ。拝所の奥へ進むのは、いつも彼女だけだった。
もしかして王族の子女だけが出入りする拝所がある?
イリが言っていたではないか。城の地下に広がる鍾乳洞は秘匿とされていると。おそらく地下へ繋がる道があるのは、一介の神女たちでは自由に出入りできないような、特別な拝所だけだ。
どこだろう。
人気がない場所、斎場の奥。ゼンたちが城へ侵入するために使った拝所には人の気配がなかった。別の、けれど似通った立地にある場所だろう。
塀や屋根の上を走り、斎場の中を探し回る。
そうするうちに人が寄りつかない場所がいくつかあることに気づいた。
やはり神女でさえ気やすく立ち入ることができない場所があるようだ。
そのうちの一つに目が留まる。
鬱蒼と茂る木々と石壁に囲まれた場所。いつだったかアガリエが祈りを捧げていた拝所ではなかっただろうか。
地上に降り立ち、石壁の奥へと進む。
外の喧騒が嘘のようにそこは静かだ。
石畳の先、やつれた木々の陰にその磐座はあった。神の依り代となるべきその石の背後に見えるのは、石造りの古びた井戸だ。
井戸の縁に立って中を見下ろす。
かつては水を湛えていたのであろうその井戸も今は枯れている。よほど深いのか、陽光が途絶えた先はどうなっているのかわからない。底があるのか、はたまたどこかへ抜ける道が隠されているのか。
よし。ここからなら――。
「あのう、もしやゼン様ではなくて?」
不意に声が響いた。
周囲に視線を走らせる。
そうして薄暗がりの中、木立の間に浮かぶ白い仮面を見つけて、息が止まりそうなほど驚いた。
「んなっ、なんだよ、おまえは!」
「決して怪しいものではございませんわ。どうか落ち着いてくださいまし」
「これが落ち着いてられるか!」
なにせ仮面が浮いているのだ。
すると不思議そうに小首を傾げていた仮面は、ああ、と何かに気づいたらしくキョロキョロと周囲を見やる。
さらに驚くことに、木立から細い腕がにょきっと飛び出してきた。
悲鳴を飲み込んだ自分を褒めてやりたい。――いや、正直なところ驚きすぎて悲鳴どころではなかった。
ばきばきと大層な音を立てて仮面は木立から抜け出てきた。
どうやら仮面が浮いていたのではなく、仮面つまりは顔だけを木立から出してこちらを監視していたらしい。なんて人騒がせな。
白い仮面の持ち主は、その身に神女の衣装をまとっていた。元は上質な仕立てのようだが、随分と薄汚れている。彼女ははだけた裾をいそいそと正してゼンに向き合う。
「外は騒がしくなる一方ですし、ゼン様はなかなかいらっしゃいませんし、もしやトウジュ様の見立てが間違っていたのではと、案じていたところでしたのよ。無事お会いできてよろしゅうございましたわ」
「トウジュって……?」
「あら、これは失礼を。先王の奥方様でございますわ。つい以前の呼び名を使ってしまいますの。新しい呼び名はどうしても慣れなくて。このことは内緒にしておいてくださると、とても嬉しいですわ」
仮面の娘はどうやら先王の縁者らしい。
だが怪しすぎる。
本人は怪しくないというものの、その仮面姿でどうしてそう言い切れるのか不明だ。
しかも周囲は暗く、仮面の白さだけが一際目立ち、得も言われぬ雰囲気を醸している。ふくよかな仮面の輪郭に反して、華奢な体躯が不釣り合いで違和感を覚える。何より柔和な目元が怖い。
「いやですわ、そのように警戒さなさって。わたくしは見かけほど怖くありませんのよ」
「いやいや、怖いから。何なんだよ、その仮面は!」
「福をもたらすと伝えられている来訪神の仮面ですのよ。神事の際に使用されるような、由緒ある仮面なのですって。本来なら高位の神女しか扱うことができないような代物なのですけれど、特別にと仰って、我が君が下賜してくださいましたの」
「そういうことじゃなくて!」
「だって仮面をしていないと、我が君はわたくしをお傍に置いてくださらないのですもの。それにゼン様も、わたくしの顔はお嫌いではないかと」
「は? 俺はべつに顔に好き嫌いは……」
娘の細い指がおもむろに飾り紐をほどく。
白い仮面の向こうに、焦がれていた面差しがあった。
「アガリエ――」
無意識のうちについて出た名前に驚いて、慌てて口をふさぐ。
「違う。似てるけど、アガリエでも、イリでもないな。誰だ?」
「わたくしは先王が妃のひとりカジュリと申します。やはり似ておりまして?」
「うん。でも違うのも、すぐにわかる。……すごく似てるけど」
「そのお言葉を聞き安堵いたしました。元々は我が君に命じられてつけていた仮面ですけれど、今となってはこれがなくてはおちおち出歩くこともできませんの。ほら、この顔でしょう。義姉上様と見間違われてしまい、崇められたり恨まれたり、いろいろと厄介なことになってしまって。さあ、ゼン様もこちらをおつけになって。誰かに呼び止められたら、己はカジュリだと言い張ってくださいまし」
手渡されたのは、彼女のそれとよく似た仮面だった。
「どうして俺が……」
「あら。アガリエ様にお会いになりたいのでは?」
「アガリエの居場所を知ってるのか?」
「ええ。トウジュ様の推察が間違っていなければ、のお話ですけれど。ですがトウジュ様はアガリエ様の直弟子ですから、どなたよりもアガリエ様のお考えをお分かりかと存じます」
なかなか仮面をつけないゼンに痺れを切らしたのか、カジュリはゼンの手から仮面を奪い取ると、そのまま背後に回り、屈むように促した。
素直に従うと、すぐさま顔を仮面が覆った。
目が描かれた部分に小さな穴がある。覗き込むと、思ったよりも視野が狭いことがわかった。後頭部で飾り紐を結い終えたカジュリが、もう大丈夫だと肩を叩いてくれるが、踏み出す一歩がひどく重い。周囲が薄暗いこともあって、足元さえ覚束なくなってしまった。
ただでさえ慣れない衣装だというのに、加えてこの仮面。なかなかの苦行だ。
それでも行かなくては。
「よろしくて? 今からわたくしが申し伝えることを、一言一句もらすことなく覚えてくださいまし」
仮面に戸惑いながらもゼンは大きく頷いた。
「……」
「ん? どうした?」
「いえ、かように早くお信じいただけるとは思っていなかったものですから、いろいろとご説明さしあげる準備をしておりましたの。トウジュ様も、ゼン様はアガリエ様のご指南を受けておられるはずゆえ、きっとすぐには我らを信じてくださらないであろう、と仰られて、とても案じておいででしたのよ。わたくしが先王の妃であるということも、わたくしの言葉以外確たる証拠もないと言うのに」
それなのに仮面に驚かれはしたものの、ゼンから疑いのまなざしを向けられることがないので、拍子抜けしたということか。
ふっと肩の力が抜けた。
懐かしい。もう随分と昔の話のように思える。
「ああ、……そうだな。何度も言われたっけな。すぐに相手を信じるな、周囲すべてが敵だと思えって。でもさ、きみが俺に害意がないことくらい、すぐにわかるよ。それでどうやって疑えって言うのか、俺にはやっぱりわからない」
「あら。でもこれからわたくしがお教えすることが偽りやもしれませんよ? わたくしに害意はないとしても、悪いやつらに人質を捕られていて、仕方なく嘘をつくことはあるかも?」
「うーん。だとしたら、俺がしっかり騙されないと、人質に危険が及ぶかもしれないだろ。大丈夫。俺は強いから、きっと無事に帰って来れる。安心して騙していいよ」
カジュリの仮面が小刻みに揺れる。
いや、肩が震えている。笑っているのだ。
「さすがはゼン様。義姉上様が伴侶としてお選びになられた理由が、わたくしにも少し、わかるような気がいたします」
「そう?」
「守るべき家も後ろ盾もなく、信じることを恐れない。それはわたくし達にとってはとても難しいことですもの。平民の出で、親兄弟のいない私でさえ難しいわ。誘惑の声はとても魅力的で、その声の通りにしていれば、望むものがすべて手に入るような気がしてしまう。私がトウジュ様を追いやって王妃の座についても、幸せになどなれるはずがないというのに、人は願うことをやめられない。本当に哀れな生き物です」
「でもきみは、そのトウジュ様の願いを叶えるためにここにいるんだろ?」
「ええ。トウジュ様はずっと悩んでおいででした。姉と慕うアガリエ様の言いつけに逆らうことを。それでも決意なさったのですから、わたくしはそれを叶えてさしあげたいのです。ですからどうか必ずアガリエ様とお会いになってくださいましね」
仮面の向こうに嘘偽りのない笑みが見えた気がした。
そうして彼女が告げた言葉は意外な、けれどなるほどと納得してしまうものだった――。




