第三六話
夜が明ける。
それなのにアガリエ――女王は一向に見つからない。
どこにいるんだよ。
ゼンは焦りを覚えていた。夜半に城内に侵入してからこちら、ずっと探し回っているのに未だ見つからないのだ。一体どこへ行ってしまったのか。
しかも都合が悪いことに、女王を見失ったのは何もゼンだけではないらしかった。
女王の寝所に近づこうとゼンが屋根の上を駆けていた時、すでに御殿では女官たちが主君の不在に気づき、慌てふためていた。
おかしい。そう感じて身を潜め観察していると、やがてセイシュと呼ばれる老人がやって来た。
女官いわく、明け方になっても起きてこない女王を不審に思い、室内を覗いたところ、女王の姿はすでになかったそうだ。
折しも先王の誘拐事件があった直後で、周囲の警備を厳しくしたばかりらしい。そもそも昨夜は女王が寝所に入ってから今朝まで、不審者の目撃情報などは一切なく、寝所の外はいたって平穏だった。
それなのに室内にいるはずの女王がいない。
老人はその話を聞くなり女官たちに緘口令を敷き、決して口外するなときつく言い含めた。捜索を命じられた隊士たちが忙しなく駆けてゆく。
どういうことだろう。
彼らの反応からするに、女王は寝所で寝ているはずだったのだ。出入りをした様子もない。だと言うのに忽然と姿を消してしまった。
用意周到な彼女のことだ。寝所に抜け道を作っていても驚かない。
けれどこの騒動はなんとすれば良いのか。
事前に抜け道を用意するくらいなら、騒ぎにならないように仕組むこともできただろう。
そうしなかったのは、あえて騒ぎ立てることを選んだのか、もしくは彼女にとって何か不測の事態が起きたのか。
――それとも。
すべてを放り出して逃げた、のだろうか。
あのアガリエが?
ありえない。
それなのに咽喉が、いやもっと下の、胸の裏あたりが妙にくるしくて、つらい。
「また俺から逃げるつもりなのかな……」
きっとゼンは、それが一番嫌なのだ。だから不安で仕方がない。
この期に及んでアガリエが逃げるなどありえない。そんなことはわかっている。誰より理解しているつもりだ。
アガリエがいない。そのことに御殿中が動揺している。
それはつまりアガリエがそう望んでいるということだ。
彼女はもうここに戻るつもりがないのかもしれない。騒ぎになったところで困らないから、何の策も施さずに姿を消した。
また、誰の手助けも借りずに、独りで。
どうして、たすけて欲しいと言わないのか。
アガリエはいつだって独りで決めて実行に移してしまう。ゼンのことを利用するだけ利用して、でも決して頼ってはくれない。
伸ばした手を振り払われて、けれど諦めずに再び伸ばそうと決意することは、こんなにも難しいのに。
それでも彼女はきっと、ひどくあっさりと拒むのだろう。
駄目だ。俺が諦めたら、本当にここで終わりになってしまう。
アガリエに望まれたからじゃない。
望まれていなくても、助けたいから助ける。
それがマナ使いの本分から外れていることだとしてもかまわない。もう彼女の願いが何かなんて、どうでもいい。ただ彼女を放ってはおけない。
御殿にいないのなら、もう一度斎場を探して回ろう。
斎場もまた蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。隊士や守人、神女が総出で先王を探している。どうやら緘口令は功を奏していないらしく、女王までもが行方不明になったと聞き、泣き崩れる者の姿も幾度か見かけた。
これでは表に知れ渡るのも時間の問題だろう。そうなる前に見つけ出し、事態を収拾したい。
ゼンは顔見知りに会いませんようにと願いながら、斎場の廊下を歩き回った。
けれど月神女の御殿やふたりで暮らした屋敷、拝所、どこにも女王の姿は見当たらない。
地上にいないとなると、……地下、かな。
顎に指をそえて思考にふけっていたその時、背後から呼び止められた。
「あなた、そこで何をしているの?」
振り返ると、そこにいたのは神女だった。幸い顔見知りではなさそうだ。
「守人は皆、表に集えと命令が出ていますよ。どうやら宴に出席されている方々に、我が君の不在が知れ渡ってしまったようで、一体何事かと騒ぎになっているそうよ」
「ああ、予想してたより早かったなー」
「予想?」
「こちらの話です。ではさっそく表へ行ってきますね」
「お待ちなさい。あなた……」
神女の言葉が唐突に途切れる。
寒い。
その悪寒をゼンも察知した。
神女を背にかばい、周囲の様子を窺う。何かがおかしい。けれど一体何がおかしいのか。
今日も今日とて王国は晴れだ。
それなのに空が暗い。
「太陽が闇に喰われてゆく……」
立ちくらみを起こしたのか、神女がその場に膝をつく。そんな彼女を気遣ってやる余裕もない。
ゼンは庭先へ飛び降り空を見上げた。
太陽は静かに、けれど着実に影に覆われてゆく。
人々も異変に気づいたらしい。斎場から、いや、至る所から悲鳴にも近い叫び声が響いていた。彼らにとって太陽は神だ。その絶望たるや計り知れないものがある。
太陽が闇に飲まれる。
地上に届く日差しの力が薄れ、しだいに影が占める部分が大きくなっていく。寒い。まだ夜が明けたばかりだというのに周囲は薄暗く、肌寒い。
ここ数日の寒さは、これが原因だったのか。
ゼンは呆然とその場に立ち尽くしていた。
脳裏に過ぎるのは、星を眺める彼女の横顔。
思えば出逢った日の夜も、彼女はひとり夜空を見上げていた。神女は星の動きを読み、そこから神威を読み解くというが、はたしてそれだけだったのだろうか。
彼女は星ではなく、天の動きを詠もうとしていたのかもしれない。
「神がお怒りなのだわ」
低く呟かれたその声にゼンは我に返る。
神女の目は瞬きも忘れ、はらはらと涙を流し続けていた。
「やはり月神女が王になるなど、許されるはずがないことだったのだわ。太陽の神のお怒りを鎮めるためにも、早く、一刻も早く、魔の女王チマジムを葬らなくては!」
「……なにを、言って」
呼び止める間もない。神女はゆらりと立ち上がると、驚くほどの速さで廊下を駆けだした。
――何が、起きているんだ?
この現象の名を、ゼンは知っている。
数年、あるいは数十年や数百年に一度起きる現象で、それは王国の繁栄や衰退に関わらず、その時を迎えれば否応なしに起こるものだ。
アガリエの所為じゃない。
「太陽の神がお怒りなのだ!」
アガリエが悪いわけじゃない。
「魔の女王チマジムを探し出せ!」
それなのに人々の憎悪は止まらない。太陽の神を崇拝するその気持ちの分だけ、太陽を失うかもしれないという恐怖心は彼らの狂気を煽った。
「魔の女王チマジムを殺せ!」
*
宴に集う者たちを捕らえることは容易かった。
捕縛劇が終息に向かいつつある宴の会場。床に散らばる酒器の破片を手に取り、タキはその臭いを嗅ぐ。かすかに、だが確かに幻覚作用のある薬の匂いがする。
立ち上がる背に、先王が声をかける。
「タキ。この者が姉上のクムイだ」
「……ええと、牢の鍵を開けたという?」
そしてそんなクムイを捕らえているのは、その牢に囚われていた武人たちだ。
タキたちは彼らが引き起こした暴動に巻き込まれ、事態を収拾すべく動いたに過ぎない。
したがってどちらかと言えば首謀者は彼らなのだが、先王がいる手前、どうにもこちらが首謀者のような立ち位置になってしまっている。
指示されるまま、クムイはおとなしくその場に両膝をつく。
タキもその真正面に座した。
「牢から開放する見返りとして、宴に集う者たちを捕縛せよと命じたとか。無法者たちに、よくもまあそのような口約束をしたものですね」
クムイは何も応えない。
だが無視をしているのとも違う。タキの目をしっかりと見据え、己の意思で口を閉ざしている。
「女王の命令ですか? それともきみは女王を裏切ったのですか?」
「……」
「我が君は、女王を助けたいそうなのですが」
「……」
「このままだとそうもいかないようです。すでに無法者たちが斎場へ侵入し、女王を火炙りにしろと息巻いています。彼らが本懐を遂げる前に、我々で女王の身柄を確保しなくては彼女の命が危うい。そうは思いませんか? ……思っていなさそうですね」
脅してみてもクムイの表情は変わらない。
けれど抵抗する様子も見せない。
「もしや女王はわざと不正を働く者ばかりを傍に召し上げていたのでは? ここでこうして一網打尽にするために」
「……戯けたことを」
クムイに反応があった。
おや、とタキは目を瞬く。
「そういえば酒には薬が仕込まれていました。あれは女王の命だとしたら……」
「笑止。私の手の者が動いたのだ。女王の非道な行いは目に余る。だが女王は宴では酒に口をつけなかった。一口でも飲めば仕留めることができたであろうに」
「なるほど、きみも女王を殺そうとした刺客であったと。それで女王の居場所は?」
「知らぬ。そちらの言った通り、私は女王に忠誠心を疑われ、逃げた。女王とは寝所で会ったのが最後だ」
ふいにクムイがはじかれたように空を見上げた。
冷たい風が吹き、地上に降り注ぐ陽光が失われてゆく。
太陽が欠けている。
その事実を人々はうまく受け止めることができず、誰もが空を見上げて呆然と立ち尽くしていた。
そうしている間にも、ゆるやかな曲線を描く暗闇が太陽の一部を飲み込んでゆく。
クムイが叫んだ。
「魔の女王チマジムの存在が太陽神ティダヌカンを脅かしているのだ! 魔の女王チマジムに火を放て! さもなくばこの国は永久の闇に覆われるであろう!」
それは、まるで呪詛。
「魔の女王チマジムを殺せ!」
*
その光景をイリは戦場で見上げていた。
すでに太陽の大半が闇に飲まれている。残された陽光はまるで三日月のようだ。
くすんだ青空に浮かぶ月のような太陽。
その姿を表すのに畏怖という言葉しかイリは思い浮かばない。異様な光景だった。
傍らに座っていたマヤーの巨体が、のそりと動き出した。
珍しい。シシが前線に出てからは、彼の代わりのように四六時中イリの傍にいて、周囲にいる者全てを威嚇していたというのに、一体どうしたというのか。
腰元に押し付けられた頭を撫でてやる。
「イリ。俺さ、ちょっと、行ってくるよ」
ゼンのような物言い。
けれど彼は今、王城にいるはずだ。
慌てて周囲を見回すが、やはり彼の姿はない。空耳か。
するとマヤーのその咽喉がうなった。――いや、喋った。
「イリ。俺だよ、俺」
「……まあ、驚いた。そなた喋ることができたの?」
マヤーは得意げに目を細める。
「俺さ、約束してるんだ。だからそろそろ行くよ」
「誰との約束?」
「それは、言えない。誰にも言わないでって、わかったよって、約束したから」
「……そう。きっと大事な約束なのね。わたくしは大丈夫よ。シシの部下たちもいるし、わたくしの役目は敵の目を惹きつけて、できるだけ王都から引き離すことだもの。逃げきってみせるわ。だからマヤーも無事でいてね」
「イリも一緒に行くか?」
ふわふわの首に抱きつき、その思いの丈だけ腕に力を込めた。
できることなら一緒に行きたい。
皆が集う城へ、――心配ばかりかける困った妹の傍へ。彼女を想う人たちがいる場所へ。
けれどそれはできない。
太陽が闇に飲まれようと、天が落ちようとも、イリはここにいる。
それが与えられた役目だからだ。
どれほどつらくても、イリがここにいることで救えるものがあると知っているから。
イリを信じて戦う者たちを裏切るわけにはいかない。
どれほど妹が大切でも、彼女のことだけを想って泣くことができた幼い日々はすでに遠い。
大切なのに。
どうして大切にすることができないのか。
妹に声をかけ、外へ連れ出したのはイリだ。
一緒に外で遊びたかった。
イリの大切なものを一緒に見て、触れて、その想いを共有したかった。笑っていて欲しかった。
だから傍にいたくて、西へ向かえと王命が下された日は泣いて泣いて嫌がった。
妹はと言えばあっさりと納得し、東へ向かう準備をしていたが、それでもイリは嫌だった。
傍にいて、ずっとずっと傍にいて、妹が笑うその横顔を見つめていたかった。
それだけのことがどうしてできないのか、イリは今でもわからない。
どうか。
――どうか、と心から祈る。
幸せが、あの子の傍にありますように。
マヤーはゆらりと尾を振ると、イリの腕の中からしなやかに抜け出した。
向かう先は王城だ。
交わした約束を果たすために。




