第十二話
「マヤー! 駄目だって、絶対に駄目だ!」
足の汚れなどすっかり忘れていた。
ゼンは慌てて部屋に上がると、アガリエの腰を抱き上げてマヤーから引き離した。悲鳴ひとつあげない彼女に腹立たしさが増す。
「あら、旦那様。お早いお戻りですこと」
「ごめん。本当にごめん! 勝手にいなくなったことは謝るから許して! マヤーを悪の道に引き込まないでくれ!」
「ゼン様。さすがにそれは失礼というものではありませんか。わたくしはただマヤーと仲直りをしただけです」
ゼンの視線の先にあったのは、ほとんど寝台しかない部屋で、寝台ではなくマヤーの背に優雅に腰かけて、その毛を梳いているアガリエの姿だった。
姿は大きくなろうとも分類としては猫科であろうマヤーは、嬉しそうに喉を鳴らしていた。ともすれば心から打ち解けなければ見せない腹部もさらけだしてしまいそうなほどの喜びようだった。
なんたる絶望的な状況か。
「どうやってマヤーを懐柔したんだよ?」
「ですから仲直りをしただけです。新鮮な魚はたんとあげましたけども」
それはつまり、ゼンが第二王子にした、マヤーは魚を好むという話から出た懐柔案ということか。
マヤーは鼻先をアガリエの腰にすりよせ、もっともっとと毛繕いをねだる。アガリエは優しい手つきでその鼻を撫でた。
まずい。これは非常にまずい。
ここまで懐いてしまうと、もうゼンがどう言おうと、マヤーはアガリエを警戒することなどしないだろう。
何しろ毒に苦しんだマヤー本人が納得してアガリエを許したのだから。
ゼンでさえまだわだかまっているというのに。
「あああああああ、やっぱり傍を離れるんじゃなかった!」
「何がそれほど不満なのですか? 腹に一物抱えたまま一緒にいるほうが不健全かと思い、改善のために尽力したのですけれど」
「それはそうなんだけど!」
「それよりも、なぜゼン様はオル兄上のところになど行かれたのですか?」
「えっ、オル? オルのところになんて行ってないけど」
イリとの約束があるので嘘をついた。
我ながらそつなく演じたと思ったのに、アガリエはすっと目元を険しくした。
「オル兄上の着物を着て、何を白々しく仰っているのですか」
すっかり失念していた。
いや、そもそもどうしてこれがオルの着物だとわかったのか。
驚愕をゼンの表情から読み取ったらしい。アガリエはあっさりと嘘を見抜いたわけを教えてくれた。
「紫は王族の色だと申し上げましたよね? とはいえ今お召しの着物は王子のものにしては糸の種類は少なく意匠も簡素です。現王族の男子でそのようなものを好むとすれば、それはオル兄上くらいでございましょう。二の兄上はどちらかといえば煌びやかなものがお好きですし、三や四の弟君に至ってはまだ幼いので着丈が違います」
背中を冷や汗が滝のごとく流れた。その緊張は腕に抱いたままのアガリエに直に伝わっているだろう。これはもう言い訳のしようがない。
気まずい沈黙。
ゼンは嘘を認め、潔く謝った。
「イリと偶然会ったんだよ。なんでも見合いをしろって急かす神女のおば様方から逃げてたらしくてさ。二人でその辺をこそこそ逃げ回ってたらこんな時間に……」
「でしたらもっと長く二人で濃密な時を過ごしていればよろしかったのに。そうすればわたくしももっとマヤーと親睦を深めることができたでしょうし」
「いやもう本当にごめんなさい。嘘ついたことも、急にいなくなって心配かけたことも、深く反省してる」
アガリエを抱きしめる腕に力を込め、彼女の肩に押しつけるようにして頭を下げ続ける。
そうして不意に気づいた。
彼女はいつもの神女装束ではなく、鮮やかな薄紅に色とりどりの草花が描かれた着物に袖を通していた。鼻腔をくすぐるのは芳しい匂い。その元を探れば、結い上げた髪に挿した珊瑚のかんざしの傍らに、マツリカの白い花があった。
「どうしたの? やけに可愛い恰好してるじゃんか」
「夫のために着飾るのは、妻たる者の役目のひとつです。いかがですか?」
「うん。すごく可愛い。似合ってるよ。……けど」
「けど?」
アガリエの手の甲には見慣れたものとは違う紋様が刻まれていた。
――いや、紋様が増えていた。
その事実に知らず頬がゆがむ。
彼女の手を取り、そっと触れた。
「これ刻むのって痛いんだよな?」
「……たいした痛みではありません。それにこの紋様は神の嫁であるという証。とても栄誉なことです」
「でも痛いんだろ?」
「ゼン様が気にされることでは」
「痛いって言っていいんだってば」
問い詰めると、アガリエからすっと表情が消えた。
「わたくしが泣いて痛いと申し上げれば、ゼン様は満足ですか?」
「違う。アガリエが本当に思ってることを知りたいだけ。どうしてアガリエはこんな時まで嘘つくんだよ。べつに痛いって言ったっていいじゃないか。俺しかいないし、俺はアガリエが泣いたってわがまま言ったって困らないのに」
「それなのにマヤーには触ってほしくないのですか?」
「うん。それはそれ、これはこれだ。他の人を巻き込むのはやめて、迷惑をかけるのは俺にだけにしてくれるかな。俺だったらいつでもいいからさ」
アガリエの肩から力が抜ける。握った手はそのままに、その重みに任せて二人で寝台に座り込んだ。
ゼンの膝の間で俯き、視線を下げた彼女がぽつりとつぶやいた。
「では今宵こそ、わたくしと契りを結んでください」
「……着飾ってるのは俺を誘惑するため? それで? 仮にその願いを俺が聞き届けて、アガリエが次代の月神女になって、その後はどうするつもりなんだ?」
「日嗣の君に王位を継いでいただきます」
「それは第二王子のこと? それともオル?」
ぴくりとアガリエの頬が震えた。
「実はオルに会った時、変だなって思ったんだよな。オルの屋敷にいた娘が、オルは畑の方にいるって言うから探したけどいなくて。でも会えた時、オルは畑にいたって言ってた」
「では別の畑にいたのでしょう」
「違う。持ってた薬草は畑には生えないやつだった。あれは岩陰に自生するような類の草だ。ってことは、何かのために岩陰に行って、でもそれをオルは隠したってことになる、とは考えられない?」
「……ゼン様は、実は薬草にお詳しいのですね」
「まあ、そこそこね」
隠すつもりはなかった。ただ打ち明ける機会がなかっただけだ。
しかしそのおかげでオルの嘘に気づくことができた。彼は畑で作業をしていたことを印象づけたかったのだろうが、それが裏目に出たのだ。
「オル兄上に会っていた相手が、わたくしだとでも?」
「んー、それは違うかな。オルのところへ行く門は一ヶ所。通れば警備の隊士たちの記憶にも記録にも残るだろ。岩陰でこそこそ会うようなやつがするとは思えない。だとしたら俺みたいに門じゃないところを越えて会いに行ったことになるから、アガリエにはちょっと無理かな。それにその頃アガリエはこれを彫ってたんだろうし」
アガリエの手にある紋様は、彼女が日中、彫り師と共にいたことを示す何よりも堅実な証拠だ。
「わたくしが動かずとも、配下をやるくらいのことはできたでしょう」
「なんだよ、アガリエは二の兄上より、オル兄上の方が次代の王にふさわしいと思ってるのか?」
「まさか。オル兄上はとうの昔に王位継承権を放棄されていますもの。玉座に就くことなどありえません」
「ふうん。そういうもんか」
形式ばったその言葉に、ゼンはようやく思い出した。
この屋敷は見張られているのだ。今この瞬間も聞き耳を立てている者がどこかにいるかもしれないのに、用心深いアガリエが本心を吐露するはずもない。
さてどうしたものか。
今朝行ったばかりの墓所にまた参るのは、妙案だが、怪しすぎてかえって目立つ気がする。では別の案を考えなくてはいけない。
アガリエの両手を握り、うーん、と唸る。
「あのさアガリエ。どっか行きたいところない?」
「……人気がないような場所、ですか?」
「うん、そう。ふたりきりになれるような場所。どこでも俺とマヤーが連れていってあげるからさ」
アガリエはしばらく逡巡した後、ひとつの地名を告げた。
「城の外になりますが、東の方角に大きな森があって、そこには神女しか立ち入ることを許されていない神域があります。人の足では半日かかりますが……」
「よし、そこにしよう。ほら乗って乗って」
マヤーはアガリエによほど懐いたらしい。自ら望んで彼女を背に迎えると、意気揚々と戸外に向かって歩き出した。
ゼンが草履を履いたところで水桶を手にした女官が戻ってくる。桶を取り落とさんばかりに驚愕している彼女を見て、そこでようやく足を洗っていないことを思い出すが後の祭りだ。汚れたゼンの足により、すでに寝室は物取りでも入ったかのような惨状だった。
「あー、せっかく用意してくれたのにごめん。っていうか、結局部屋を汚しちゃって本当にごめん。帰ってきたら掃除するから、今は見逃して!」
案の定、彼女や庭に控えていた護衛から悲鳴があがったが、マヤーの足を止めるものはない。必ず帰るから後を頼む、と言い捨ててゼンたちは王城を飛び出した。
二度目だからか、アガリエは慣れたもので、風に流されないように背を低くして、マヤーの背中の毛をしっかりと握りしめていた。ゼンはそんな彼女を背後から抱え込むようにして跨る。
マヤーは軽快に走る。毒に弱っていた姿が嘘のようだ。
城を守るために造られた堅固な石垣を飛び越え、急斜面の草原を下ると、鬱蒼と茂る森を躊躇いなく駆け抜ける。城の騒ぎなどすでに彼方のできごとだ。
王国は今日も晴れだった。
太陽はすでに傾き、人と魔の判別さえ難しい刻限が近づきつつあるというのに、空には雲一つない。西では旱続きというのも想像に容易い。
風に掻き消されないよう声を張る。
「西は不作が続いてるんだって?」
アガリエは頷いた。
「もうずっと旱が続いていて、どれほど雨乞いをしても、いずれの神にも聞き届けてはいただけません。ゼン様の知己に雨の神や、雨を呼ぶことができる魔物はいらっしゃいませんか?」
「雨かあ。難しいな」
「……ゼン様は存外人望がないのですね」
「いやいやいや! あのな、雨の神なんて、きっとタキでも知らないと思うぞ。アガリエたちは区別がついてないみたいだけど、マナ使いと神は全然違う存在なの。俺たちだって神は近寄りがたいし、怖いよ。神は何を考えてるかわかんないことも多いし」
「そういうものですか」
「だってさ、そもそもずっと雨を降らせないってことが、意味わかんないだろ? 天に、地に、森に、海に、万物に神は宿ってる。そこに住む者にしてみれば、雨は適度に降ったほうが良いに決まってるし、土地は豊かであるに越したことはないし、森や海はいつだって恵みが多いほうが良いわけだろう。でも神はそうしない。その理由は俺にもわからないから、どう機嫌を取ればいいのかも、そもそも機嫌が取れるものなのかもわからない」
なるほど、とアガリエは神妙な顔で頷いた。
「神は人とは考え方が違うし、俺たちマナ使いとも違う。まあ、でもだからこそ関わるとおもしろいんだけどね」
「ゼン様はいつも前向きですね。そういうところがイリと似ていると感じることがあります」
「そうかな」
「はい。あの子は配慮が足りないせいで何度も失敗をしているはずなのに、諦めずにまた立ち向かう。本当に愚かだと思います」
「……え。なに今の。俺は貶されたの? それとも褒められたの?」
「あら、心外です。心から褒めたのに」
「全然褒めたのように聞こえなかったけど!」
くすり、とアガリエが小さく笑った。
今のは本当の、曇りのない、演技もない笑顔だった。
胸の奥が疼く。
もともと容姿の整った娘だが、その笑みは本当に愛らしいのだと、ゼンは改めて実感した。
アガリエにはもっと笑っていて欲しい。
その笑顔を曇らせる憂いを取り除くために、ゼンには一体何ができるのだろう。
他愛もない話をしているうちに目的の場所に着いたらしい。アガリエはマヤーに止まるよう指示し、その背から降りた。
人里から遠く離れた森の中、獣道の先に大きな古木が二本立ち並び、その枝と枝の先に白い縄が結んである。その縄からいくつも垂れ下がっているのは獣の骨だ。大小様々な形の骨が互いにぶつかりあって、カラカラと乾いた音が響かせている。魔除けの一種だろう。
アガリエはその場に跪き、神域を守る神に朗々と祈りを捧げる。
不思議な力に満ちた場所だ。
祝詞を終えるとアガリエが一足先に神域に入り、待っていたゼンとマヤーを境界の内側から招き入れた。
入って良いと許可が下りたのかどうか、ゼンにはわからなかったが、神を相手に何ができるわけでもない。兎にも角にも一歩踏みこむ。
「勝手に入ったのではなく、神域の内から呼び寄せたわたくしに応えたことで、ゼン様たちのことを不法侵入だと神が怒ることはない、と思うのですが、なにしろ魔物が入るのは前代未聞ですので……」
「まあ、人が神域と定めた場所に魔物が入って怒るのは人だしなあ。もし神に怒られたら俺が誠心誠意謝るから、大丈夫だろ」
普段からあまり人が出入りする場所ではないらしい。かすかに道のようなものが草地の間にあるが、そこかしこから枝や蔦が伸びていて歩きにくいことこの上ない。どれだけ注意していても悪戯に伸びてきた枝が頬をかすめ傷を作ってしまう。
それでも進むうちに水音が聴こえるようになり、さらに行くと木々が途切れ、開けた空間に出た。
眼前には大きさが異なる四角い岩が三つ。とはいえ最も小さいものでもゼンの身丈より二倍はあるだろうか。その真下からはこんこんと水が湧き出し泉となっている。
泉のほとりに駆け寄り、水中を覗きこむ。沈む木の葉が見えるほど水は透き通っているが、底が見えない。岩の根元も確認できない。ということは、驚くほど深いということだろうか。見ているだけで背筋が冷える思いがする。
なるほど神域と呼ばれるにふさわしい、外界と遮断された清らかな場所だ。
泉の傍らに広がる芝の上でマヤーは膝を折る。ゼンとアガリエはそのふくよかな腹に背を預け、並んで座った。
木々が強い日差しを遮ってくれるからか、頬を撫でる風も心なしか涼しい。
「内緒話にはうってつけの場所だな。さあ、ここまで来たら誰にも聞き耳たてられないからいいだろ?」
「何のお話でしたかしら」
「とぼけるなよ。オルが謀反を企んでるのは事実なのか?」
それでもアガリエはしばらく沈黙していたが、やがて重い口を開いた。
「そのような動きが見受けられるのは事実ですね」




