第十一話
「イリの願いごとって何?」
帰路、ゼンは隣を歩くイリに問うた。
イリが人目を避けたいと主張したので、森の中、道なき道を今度は歩いて戻っているところだった。
根が蔓延っていて足場が悪い。手を差し出すと、イリは躊躇うことなくその手を重ねた。
「皆が幸せになることです」
「……皆って、どこまで?」
「皆は皆ですわ。国中のすべての者が幸せになれるようにと、日々お祈りしています」
神女らしい、そしてイリらしい願いごとだ。
何よりすぐ口にしてくれたことが嬉しい。彼女はやはりアガリエとは違い、素直だ。
穏やかな気持ちでイリを見つめていると、こちらを見上げた彼女と視線が合った。くすり、と赤い唇が自嘲気味に笑う。
「無理だということは、とうにわかっているのですよ」
「え? そうなの?」
「はい。……昔、わたくしは偶然、自分に双子の妹がいると知って、いてもたってもいられなくて、会いに行きました。でもこの城はとても広くて迷いやすいのです。妹を見つけるまでそれから何日も何十日もかかってしまって。でもようやく見つけた時、あの子は何て言ったと思いますか? そなたなど知らぬ、帰れ、よ」
幼いアガリエが真顔でそう言い放つ姿が目裏に浮かぶ。かわいい顔でなかなか辛辣なことを言う娘なのは、ゼンも知るところだ。
「神女の師である婆様にも乳母にも女官にも聞いたわ。どうして皆、わたくしに妹などいないかのようにふるまうのか。どうして今まで何も教えてくれなかったのかって。そうしたら皆が言うの。妹姫は呪われた身ゆえ、人前に出ることを禁じられているのだと。ですからわたくしは毎日毎日妹が幸せでありますようにってお祈りをしたのに、わたくしの妹はそれからもずっと幸せではなかったし、可愛げもなかったわ」
「呪われているのは、……その、生まれのせいか?」
「まあ、ご存知でしたの。そうです。死んだ母の胎内から生まれた妹は、わたくしとは違って幼い頃から幽閉に近い状態でした。わたくしは毎日お祈りして、毎日会いに行って、毎日毎日笑いかけたけれど、あの子はいっこうに笑ってくれなくて。それが悔しくて悔しくて、わたくし大泣きしてしまったことがあったの。それでもあの子は笑わなかったし、わたくしの祈りは届かなかった……」
「アガリエも素直じゃないからなあ。それでどうしたんだ? 諦めた……わけじゃないよな。諦め悪そうだもんな」
なにしろ国庫を解放しろと王に直訴し、神を誘惑して神嫁になろうとした姫だ。
「うふふ。そうなのです。そうこうするうちに父王も月神女も妹を隠しておけなくなって、そうね、今のオル兄上よりはもう少しまともな生活を送れるようになっていたわね。でもそうすると今度は怒るのよ。海辺の町が嵐で大きな被害を受けたっていうから、わたくしはせめて彼らの生活の糧を奪わないように、魚を食べないって言ったら、愚か者って怒るの。彼らから魚を買い、生活を再建させるだけの元手を稼がせることこそ、彼らのためになるって。苦労して手に入れた資金だから、有効に使うにはどうすべきか考えるし、より嵐に強い町作りをするようになるからって」
「ふうん。そんな面倒なことをしなくても、家でも舟でも新しく作ってやればよかったんじゃないの?」
「わたくしも同じように思ったの。でもそれも駄目だと怒るのよ」
「そういえば昨日も国庫がどうとかって怒られてたな」
「そうよ、そうなの! この王都には国中から物資が集められているので、城にいるとわかりづらいのだけど、昨今我が国は不漁や不作に悩まされているのです。わたくしの城がある西ではここ数年旱が続いていて、食べるのに苦労している者も多いの。そのような苦境にある者たちに食糧を恵むことがそれほど悪いことだとは、わたくしは思わないわ。……たしかにあの子が言うように、このままずっと不作が続けば国庫も空になって、国中の民が困るということはわかっているのだけど」
目の前で苦しむものを捨ておけない。
イリはそういう娘なのだろう。
こうして話していると初対面の時と随分印象が違う。なかなかに破天荒だが、心根は優しいのだ。
ただしアガリエが言うことにも一理ある。
ゼンが見たところ城や城下はにぎわい、人々の顔にも笑みがある。それが明日を憂いるほどの心配事がここにはないということの表れだとしたら、国庫を解放し、備蓄していた食糧を分け与える前に、イリにはできることがまだあったのかもしれない。
ゼンには彼女たちどちらの気持ちも理解できるが、どちらが正しいのかと問われると、よくわからない。
なにせ国庫を解放するか否かの判断を下すような立場にあったことがないし、それらについて真剣に考えたこともないのだから、当然と言えば当然のことだろう。
改めてイリたちの生まれや立場は責任のあるものなのだと実感する。
「わたくしは非力だけど、だからこそせめてわたくしにできることがあるのなら、手助けをしてあげたいの。でもそれは祈っているだけでは叶わないのだと、わかっているのです。東の神女となったあの子が今も心を開いてくれないように」
「そうかな。アガリエにとって姉姫ルミは特別な存在だと思うけど」
「ルミ? 珍しい言い方をなさるのね」
「え? だってアガリエがウタなんだったら、必然的にきみの真名はルミになるだろ、って思ってたんだけど、……違うのか」
「……わたくしの真名が姉ルミであれば、さすがにわたくしも己に妹がいるのかもしれないと、もう少し早く気づいたと思います。あの頃すでに弟はおりましたけれど、その下の妹たちはまだ産まれていませんでしたから」
また騙されたのか。
アガリエの真名がウタであるのかどうか、イリにかまをかけてみたのだが、どうやらゼンは自分で思っている以上にアガリエを信じたい気持ちでいっぱいだったらしい。目の前が真っ暗になった。
愕然とするゼンに気づいたのか、イリが慌てて言葉を付け足した。
「ああでも、あの子がウタと呼ばれていたことは知っているわ。わたくしと違って、あの子は己の生まれについて幼い頃から聞かされていたそうだし。ゼン様、どうかあの子を叱らないでやってくださいね」
「べつに叱ったりはしないけどさ。……もう、本当に、まいった。アガリエは本当に嘘つきっていうか」
「嘘つき?」
再びふたりの間に流れる時間が止まる。
「……え? 嘘つき、じゃない?」
「幼い頃はあまり話さない子だったし、今は遠く離れて暮らしているから、最近のことはわからないけれど、でも……」
「でも?」
「不満に思うことがあれば言い返された、し。会いに行っても、嫌な時は絶対に会ってくれなかったし。基本的には臆せずものを言うけれど、嘘をつかれたことなんて、あった、かしら……?」
瞳孔が開いたのではないかと思うほど愕然とした。
「え? 俺はけっこうアガリエに嘘をつかれたりっていうか、騙されたりするんだけど……。願いごとは何かって聞いても、未だに応えてもらってないし。え? ええ? もしかして俺だけ?」
「ゼン様、落ち着いてください」
思わずしゃがみこんでしまったゼンに、つられるようにしてイリもその場に膝をつく。
アガリエではないとわかっているのに、こちらを覗き込んでくるイリが彼女のように思えて、ますます混乱した。
「俺のことを神だ夫だなんて言いながら、俺にだけ本性を隠してるっていうのか? いやでも、そもそもこの婚姻自体が騙されたっていうか脅されたっていうか!」
「ゼン様、ひとまず落ち着いて。心の声が口から漏れています」
「でもさ!」
「もしも他の誰かに聞かれたら、きっとアガリエが困るわ」
それは駄目だ。慌てて周囲を見回したが、人の気配はない。
ほっと胸を撫で下ろす。途端に膝から力が抜けて、そのまま地面に座り込んで脱力した。長い長い溜息がこぼれる。
「うふふ」
「……何かおかしい?」
「いいえ。嬉しいのです。妹のことを心から案じてくれる人が、妹の傍にいてくれたことが。あの子のことを大切に思っているのはわたくしだけだろうと思っていたから」
「いや、さすがにそんなことはないだろ。東の城ではジンブンっていう夫だって、いたし……」
思えばアガリエはジンブンに対してもいくつか嘘をついていた。
俺だけじゃなかった!
そう喜び、次の瞬間には落ち込んだ。
いやいやいや、喜んでどうする。被害者仲間が増えただけだろ。
「その夫君と妹は、仲睦まじい様子だったのかしら?」
「……悪いようには見えなかったけど」
「そう。それなら上々ね。政略結婚を受け入れたとは聞き及んでいたけれど、あの妹のことだから、相手のことを資金源や種馬のように認識していたらどうしようかと、ちょっと不安だったの」
その不安は、おそらくほぼ的中している。
「もしかして俺のことも手駒くらいにしか思ってないのかなー」
「……」
「いや、今のは否定して! 頼むから!」
うふふ、と楽しそうにイリは笑みをこぼす。
こんな楽しげな表情を、アガリエは絶対にしないのに、彼女に微笑まれたように錯覚してしまう。
――ああ、違う。一度だけ見たじゃないか。
治療を終えたマヤーの傍らで、嘘偽りなく笑うアガリエを。だからこそイリの笑顔がアガリエと重なるのだ。
「何を考えているのかよくわからない妹だけれど、意味もなく嘘をつくような娘ではないわ。願いごとも、きっと今は言えないだけだと思うの。今しばらく待ってあげてくれませんか?」
ゼンは顎を押さえて唸る。
待つ。
その発想は今までなかった。
たしかにゼンは願いを叶えるために意気揚々とやってきたが、アガリエにしてみればマナ使いを呼び寄せたことは青天の霹靂だっただろう。心の準備も必要なのかもしれない。
「よくわかった。イリと話ができてよかったよ」
「まあ、嬉しい。引き換えと言っては何ですが、オル兄上と会ったことはアガリエにも内緒にしておいてくださいね。変な誤解をされたくないから。絶対ですよ」
「わかった。言わない」
気がつけばすでに太陽は真上からやや西に傾いている。アガリエの禊はとうに終わっていることだろう。
来た時と同じようにイリを抱えて石塀を越える。
本来ならばオルの敷地への出入り口は一ヶ所で――マヤーを介抱してもらった時に通った門のことだ――必ず門を通る前にオルへ先触れをやり、許可を取るという手順を踏むらしい。ゼンたちはそれらを無視して敷地へ入ったから、カサギは誰に気兼ねすることなく機を織っていたし、オルは二人の来訪にとても驚いていたのだ。
しかしそのおかげでゼンとイリがここへ来たことを知る者は、オルたちの他にいない。彼らは外界と接点も少ない。アガリエに知られることもないだろう。
まあ、知られたところでイリがオルと手を組んで謀反を企むだなんて、誰も思わないだろうけどなあ。……あ、でもみんなはイリとアガリエの見分けがついてないのか。アガリエとオルの組み合わせなら、……ありえるかもしれない。
けれどアガリエにとって世継ぎの第二王子は同腹だ。わざわざ王位継承権を放棄している第一王子と手を組む必要性が見当たらない。イリにしてもそうだ。彼女の心配はただの杞憂で済むことだろう。
ゼンは人影のない廊下にイリを降ろし、最後にもう一度口裏を合わせてから別れた。
その後ゼンはさらにいくつかの屋根と塀を越え、あてがわれた屋敷へと戻った。
この屋敷は他の御殿と違い、民家のような作りをしており、地面よりも屋根の上を駆けることが多いゼンとしては見つけやすくて助かる。防風林に囲まれた砂地の庭の真ん中に立っているので目立つのだ。
無事に戻ってきた。
安堵とともに庭から縁側へ上がろうとして、控えていた女官にものすごい形相で引き止められた。
なんでも足を洗う必要があるらしい。
言われて見れば、森を歩いたせいだろう、たしかに土埃で汚れていた。
面倒だが、ゼンが汚した室内を掃除するのは彼女たちだ。しかたなく縁側に腰かけて準備が整うのを待つことにした。
手持無沙汰だ。
縁側に上半身を倒し、何を見るでもなしに視線をめぐらせる。
風を通すため木戸や襖はすべて開け放たれており、室内を一望することができた。
屋敷は見た目だけではなく内部も民家のような作りをしており、台所など日常生活に必要な設備が一通りそろっている。庭に面した畳敷きの部屋は三つ。しかしゼンがこちら側に足を踏み入れるのは、実はほぼこれがはじめてのことなので、詳しくは知らない。
ゼンとアガリエに用意された寝所は、この建物と廊下で繋がった隣の建物のほうなのだ。
不意にそちらを見やり、ゼンは絶句し、瞬きの次の瞬間に絶叫していた。
「逃げろ!」




