お姉ちゃん、夜中にマヨネーズは犯罪だよ!(でも食べる)
午前二時。
世界が寝静まり、全寮制・聖華女子学園の寮二一五号室も、深い闇と静寂に包まれていた。
カチ、カチ、カチ。
規則正しく時を刻む時計の音だけが響く部屋で、突如、一つの布団がモコモコと動き出した。
現れたのは、色素の薄い、ゆるふわなセミロングの髪。乾姉妹の姉、乾詩織である。彼女はうつろな目で天井を見つめた後、ふらふらと幽霊のような足取りでベッドを抜け出した。
向かう先は、わずか一メートルほど隣にある、もう一つのベッド。
そこには、黒髪ショートカットにトレードマークのメガネを外し、規則正しい呼吸で眠る妹の乾栞奈がいた。
「かんな。栞奈ぁ…」
「ん…にゃに…?」
耳元での不穏な囁きに、栞奈がうっすらと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、月光をバックに、ボサボサの髪で自分を見下ろす実の姉の顔だった。恐怖映像以外の何物でもない。
「ひぃぃ!? お、お姉ちゃん!? 心臓に悪いから夜中に枕元に立たないでっていつも…」
「栞奈。大変なことに気づいちゃったの」
詩織は萌え袖のカーディガンで顔を半分隠しながら、大真面目な、どこか神聖さすら感じさせるトーンで言った。
「冷蔵庫の、タッパーに入った冷やご飯がね…こっちを見てるの」
「……はい?」
「『僕をこのまま冷たい部屋に閉じ込めておくの?』って、寂しそうな声で私に話しかけてくるの。これはきっと、救済を求めてるんだよ」
「見てないし、喋らないよ! それはただの糖質の塊!」
一瞬で覚醒した栞奈は、ベッドの上にガバッと跳ね起き、枕元に置いてあったメガネをクイッと装着した。
「今が何時だと思ってるの? 午前二時だよ! 私たちは先週の三者面談で、お母さんから『あんたたち、ちょっとふっくらしたんじゃない?』って言われたばかりでしょ!今週は夜食絶対禁止。私はもう寝ます!」
ふん、と鼻を鳴らして布団を頭から被ろうとする栞奈。
しかし、詩織は全く動じない。彼女は静かに、しかし確かな誘惑の足音を響かせるように、言葉を紡ぎ始めた。
「あの冷やご飯をね、電子レンジで一分半、温めるでしょ。あえて少し水分が飛んで、パラッとした状態にするの。そこにね…冷蔵庫のドアポケットにある、特選丸大豆醤油をひと回し。さらに、四角いバターをひとかけら、中央に鎮座させるの」
「っ…!」
布団の動きがピタッと止まる。
「温かいご飯の熱で、バターがじわぁ…って溶けていく。醤油と混ざり合って、なんとも言えない香ばしい茶色の海ができるの。でも、それだけじゃただのバター醤油ご飯。ここからが本番だよ、栞奈」
詩織は栞奈の布団をそっとめくり、その耳元で、悪魔のレシピの核心を打ち明けた。
「そこに、マヨネーズを『の』の字に、たっぷり、これでもかってくらい回しかけるの。仕上げにトースターで三分。マヨネーズの表面に、ちょっと焦げ目がついてプツプツと泡立つくらいまで焼き上げる。名付けて『悪魔のバター醤油マヨ焼きおにぎり(お茶碗版)』。どう、冷やご飯が救いを求めてると思わない?」
ゴクリ。
静まり返った部屋に、明確な、そして大きな唾を飲み込む音が響いた。
声の主は、もちろん栞奈だった。
栞奈の脳内には、すでに鮮明な映像が広がっていた。熱々のご飯の上でとろけるバター、焦げた醤油の香ばしさ、そしてそれを包み込むマヨネーズの濃厚なコク。
キュルルルルルルウゥゥゥ。
追い打ちをかけるように、栞奈の裏切り者の胃袋が、静寂の部屋に大音量で悲鳴を上げた。
「お姉ちゃん…」
栞奈はゆっくりと布団をはぎ取り、地獄の底から響くような声で言った。
「夜中にマヨネーズは犯罪だよ。ギルティ、死刑判決、執行猶予なしの有罪」
「うん、知ってる。でもね栞奈、カロリーは熱に弱いから、トースターで三分も焼けばみんな逃げていっちゃうんだよ?」
「そんなわけないでしょ馬鹿じゃないの!?」
栞奈はキレながらベッドから飛び降りた。その足は、まっすぐに部屋の隅にあるコンパクトなキッチンへと向かっている。
「…で、マヨネーズはどっちにするの? 冷蔵庫に普通のやつと、カロリーハーフのやつがあるけど」
「普通ので。コクが足りないと冷やご飯が泣いちゃうから」
「わかった。今日だけだからね! 明日から本気で腹筋五十回やるからね!」
ここからは、妹の独壇場だった。
普段は生真面目な栞奈だが、一度「食う」と決めた時の手際は、プロの料理人も真っ青のスピード感になる。
カチャ、と小さな音を立ててミニ冷蔵庫を開け、宣言通りタッパーの冷やご飯を取り出す。電子レンジのボタンを、音が出ないように素早く操作(夜間の電子レンジの「ピッ」という電子音は、寮の管理人に響くため細心の注意が必要だ)。
「お姉ちゃん、トースターの受け皿にアルミホイル敷いて。薄くサラダ油を塗っておくこと。ご飯がくっつかないように」
「はーい」
詩織は嬉々として指示に従う。普段はマイペースな姉だが、深夜の調理においてだけは、栞奈の優秀な助手へと変貌するのだ。
一分半後。レンジから取り出された白米からは、湯気が立ち上っている。
栞奈はそこへ、計量スプーンなど使わず、長年の勘で醤油を黄金比率で回しかけた。続いて、冷蔵庫から出したばかりのバターを包丁で綺麗に立方体に切り分け、白米の頂点へ。
「くっ…この時点で暴力的な匂いが…!」
栞奈が早くも理性を削られながら呟く。熱々の白米の上で、黄色いバターが角を丸くしながら、じわじわと溶けて醤油の染みたご飯に染み込んでいく。
「さあ栞奈、仕上げの儀式だよ」
詩織がマヨネーズのボトルを両手で恭しく差し出す。
栞奈はそれをひったくるように受け取ると、躊躇なくボトルの腹を絞った。
ぶちちちち、とマヨネーズが白米の上を覆い尽くしていく。詩織の言った「の」の字どころではない。螺旋を描くように、これでもかと白米が白いドレスを纏っていく。
「太る…絶対太る。でも、もう止まれない…!」
栞奈は半ばトランス状態のまま、アルミホイルの上にご飯をこんもりと丸く成形して載せ、トースターへと滑り込ませた。
タイマーを三分にセットする。
ジィィィィ…という小さな機械音が、二人の心臓の鼓動とシンクロするように響く。
トースターのオレンジ色の灯りが、じっと中を見つめる双子の顔を照らしていた。
「見て、栞奈。マヨネーズが…」
「うん、膨らんできた」
一分経過。熱せられたマヨネーズがふつふつと泡立ち、油分が溶け出して醤油バターと融合していく。
二分経過。トースターの排気口から、香ばしさの極みのような匂いが漏れ出してきた。焦げた醤油のツンとした香りと、マヨネーズの焼けるジャンクな匂い。部屋の空気すべてが『美味い』で満たされていく。
「お姉ちゃん、これヤバい。匂いだけでご飯いける」
「だめだよ栞奈、本番はこれからだよ」
チン。
深夜の部屋に、祝福の鐘が鳴り響いた。
栞奈はミトンをはめた手で、慎重にトースターからアルミホイルを取り出す。
そこに鎮座していたのは、もはやただの白米ではなかった。
表面のマヨネーズは美しいキツネ色に焦げ、ところどころがぷっくりと焼き上がっている。隙間から覗く醤油ご飯は、バターの油分でツヤツヤと輝いていた。
「完成『深夜二時の罪深バター醤油マヨ焼きおにぎり』…!」
二人は音を立てないように、急いでローテーブルへ移動した。
あえてお皿には移さず、アルミホイルのまま直に置く。これが深夜のジャンク飯における、洗い物を減らすための鉄則であり、雰囲気を最高に高める演出だ。
スプーンを二本、カツンと合わせる。
「「いただきます」」
二人の声が完璧にハモった。
栞奈が、スプーンでカリッと焼けたマヨネーズの表面を突き崩す。中から、バターと醤油が渾然一体となった、湯気立つ黄金のご飯が顔を出した。
フーフーと軽く息を吹きかけ、一気に口の中へ放り込む。
「――っ!?」
栞奈の目が、限界まで見開かれた。
口に入れた瞬間、まず襲ってきたのは焦げマヨネーズの圧倒的なコクと塩気。続いて、噛むごとにじゅわっと溢れ出すバターのまろやかさと、醤油のガツンとした旨味。冷やご飯だったとは思えないほど、パラリとした米粒一つ一つに、悪魔の油分が完璧にコーティングされている。
「んんんんん…ッ!」
言葉にならない声を上げ、栞奈はあまりの美味さに頭を抱えてのけぞった。美味すぎる。脳の血管が歓喜で震えているのがわかる。
「ふふ、美味しいでしょ?」
詩織もスプーンを口に運び、目を細めて本当に幸せそうな笑みを浮かべていた。
「やっぱり、深夜二時に食べるマヨネーズは、お昼の三倍は美味しいね。背徳感っていうスパイスが、味を深めてるんだよ」
「お姉ちゃん…これ、本当に犯罪だよ。美味しすぎて箸が…じゃなくてスプーンが止まらない!」
「でしょ? 冷やご飯も、栞奈に美味しく食べてもらえて喜んでるよ」
「もうどうにでもなれ!」
そこからは、言葉は不要だった。
二人は一心不乱にスプーンを動かした。カリカリに焦げたアルミホイルの端の部分をスプーンでこそぎ落としながら、お互いの領土を侵犯しない絶妙なコンビネーションで、悪魔の焼きおにぎりを胃袋へと収めていく。
最初は「一口だけ」なんて思っていた栞奈だが、気づけば詩織以上のスピードで食い進めていた。
わずか五分後。
アルミホイルの上には、何も残っていなかった。綺麗にこそげ取られた、わずかな醤油の焦げ跡があるだけだ。
「はぁ。ごちそうさまでした…」
栞奈は床に大の字に寝転がった。お腹がぽっこりと膨らんでいる。
口の中に残るバター醤油マヨの余韻と、圧倒的な満足感。そして、じわじわと這い上がってくる凄まじい「罪悪感」。
「あーあ、食べちゃった。夜中の二時に、あんな高カロリーな塊を…」
メガネの奥の目を潤ませて絶望する妹に、詩織はトースターのスイッチを切りながら、いつものゆるふわな笑顔で言った。
「大丈夫だよ、栞奈。さっきも言ったでしょ? カロリーは熱に弱いから、トースターの熱で全部消滅してるの。だから今の焼きおにぎりは、実質、空気と同じ。カロリーゼロだよ」
「そんなわけあるかーーーーい!!」
深夜二時半。静まり返った女子寮二一五号室で、妹の容赦ない、しかし音量を抑えた魂のツッコミが響き渡る。
乾姉妹の、お腹と体重計を巡るギルティな夜は、まだ始まったばかり。
二人が大満足の表情で再びベッドに入り、泥のように深い眠りに落ちたのは、それからすぐのことであった。
深夜に食べるって行為がいいんですよね。




