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偏移  作者: Fickle
22/25

22. 汚染じゃ、ない

翌日の実験授業。


潜流操作室の空気は、表面上はいつもと変わらぬ静けさに包まれていた。


銀灰色の標準仕様の実験台、白で統一された照明。

空気中には、潜流フィルターから発せられる微かな冷気と、ほのかに無機質な香りが漂っていた。


生徒たちは各グループに分かれ、それぞれの実験台の周囲に立ち、

今日の課題に備えていた。


課題は、簡易潜流節点(Simplified Drift Node)の構築シミュレーション。


念安は自分のグループに加わりながらも、

視線の端では何度も沈以安の様子を確認していた。


彼の動きは今日も変わらず、優雅で正確。

一つ一つの動作に、隙がなかった。


周囲の生徒たちは誰ひとり異変に気づいていない。


だが、念安の指先はいつの間にか、

握っていた同期ペンに力がこもっていた。


彼女の潜流場の外側に——

明らかに「ここに属していない」何かが、

静かに、だが確かに存在している感覚。


それはまるで、

透明な何者かが空気の中に潜み、

静かに、一本ずつ、

潜流シールドの繊維を引き裂いていくような——


無音。

無臭。


けれど確かに、

骨の奥深くへと入り込み、

細く、密かに絡みつき、

そして——締めつけ、砕く。



カチン。


ごく微かな音。


まるで、ガラスの針が床に落ちたような乾いた響き。



全員が反射的に顔を上げた。


そして見たものは——


沈以安の隣にいた女子生徒が、彼から同期ペンを受け取ったその瞬間。


彼女の動きが、止まった。


手の中のペンを見つめるその瞳には、

痛みと錯乱が入り混じった異様な光。


小さく震え、

次の瞬間、

彼女の潜流同期指数が一気に跳ね上がった——


だがそれは「上昇」ではなかった。


爆発的な断裂帯(Fracture Bands)としての異常値。



彼女は突如、理性を引き裂かれたように動き出す。


手を伸ばし、机の上の小型潜流安定器(Micro Drift Stabilizer)を掴んだ。


それは精密な調整用の器具で、

先端に震動針が付いた鋭利な機構だった。


誰もが反応するよりも早く——


彼女はその針を、自らの胸元へ、勢いよく突き立てた。



バシュッ。


潜流の漣漪が裂ける音。


空気が金属の膜を引き裂いたような鋭い反響。


血が吹き出した。


白い制服に、赤い斑点が瞬く間に広がる。


それはまるで、

潜流シールドに走った亀裂のように、生々しかった。


彼女の口元は、震えながら何かを呟き始めた。


それは次第に叫びへと変わり、

割れた声で、破滅の断片を繰り返していた。


「……見つけなきゃ……見つけなきゃ……」

「私の……basin核が……」

「汚染された……浄化しないと——!」


血まみれの手で自らの胸をかきむしり、

骨と肉の隙間から、存在しない「魂の核」を、

必死に引きずり出そうとしていた。


挿絵(By みてみん)


教室は、一瞬で凍りついた。


次の瞬間、誰かが悲鳴をあげて後退し、

誰かが転倒し、

誰かが警報ボタンを押した。



潜流警戒線(Drift Emergency Net)が天井から展開され、

局所空間の封鎖が始まる。


だが、彼女の潜流場はすでに歪み始め、

周囲の微涟へと感染を広げていた。


同期曲率指数が跳ね上がり、

教室内の空気全体が暗流に巻き込まれたように揺れ始める。



念安は、反射的に澄川の袖を掴んでいた。


震える小さな手。


けれど、声は上げなかった。


澄川は彼女の肩を支え、

もう片方の手で携帯型の潜流抑制器を取り出すと、

即座に局所シールドを展開。


拡散しつつあった撕裂波から、念安を包むように守った。



外から、駆け足の音が近づいてくる。


警備部隊。

軍直属の同期制圧チーム。


その場の誰もが、状況の深刻さを理解し始めていた。


——ただひとつ、

気づいていなかったことがあった。


沈以安は、教室の中央に、静かに立ち続けていたのだ。


その表情には、微かな——

あまりにも静かな、笑み。


まるで、すべてが予期された結末であるかのように。



警報音が潜流シールドを引き裂き、警備部隊が突入する。


銀黒の戦術潜流スーツに身を包み、

統率された動きで教室に入ってくる。


潜流場抑制器(Drift Dampener)は最大出力で稼働。


実験棟内には、半径二十メートルに及ぶ同期抑制領域(Localized Inhibition Zone)が形成される。


空気が冷たく重くなり、

潜流粒子は高周波の圧制下で、

水分子のように縮み上がっていく。



沈以安は、動かない。


抑制波に揺れる制服の中で、

彼だけが静かにその場に立ち続けていた。


警備隊員たちの動きを、

穏やかな目で見つめながら——


微笑を、崩さずに。


まるで、

これが当然の結果であるとでもいうように。



指揮官の合図。


二人の同期警備員が前進し、

携帯型潜流拘束具(Portable Drift Shackle)を構える。


微型同期束(Micro Drift Beam)が、

沈以安の神経ノードに正確に照射される。


彼は、抵抗せず、

静かに両手を上げる。


同期束が全身を包み、

潜流核の反応領域を封鎖していく。


終始、沈黙。


まるで、標準作業手順の一部のような冷静さ。



念安は、生徒たちの群れの後方に立ち尽くしていた。


心臓は、高鳴っていた。


澄川は、シールドの縁に手を置いたまま、

沈以安を見つめていた。


その表情は普段と変わらぬように見えたが、

引き締まった顎の線が、彼の警戒の深さを物語っていた。



ざわめきが広がる。


「……潜流汚染……?」

「彼、前はすごく優秀だったのに……」

「なんで急に……?」


そう——

沈以安はかつて、

学区でも指折りの潜流制御能力を誇る生徒だった。


彼のbasin核は理論上の安定域ギリギリにあり、

「絶対同期者(Absolute Synchronizer)」と呼ばれていた。


教師たちは、彼が将来、

中央都市の潜流開発局に進むことを疑わなかった。


完璧。

静謐。

優雅。


——そして今日。


亀裂が、走った。



同期ロック完了。


指揮官の命令が短く下る。


「中枢同期局へ移送。

basin核の汚染度を確認し、

必要に応じて修復または……消去プロセスへ。」


その声には、

一片の感情もなかった。


それは日常の余白を、

無慈悲に切り裂く決定の音だった。



沈以安は、静かに頷き、

警備員に従って歩き出す。


——そして。


念安と澄川のそばを通り過ぎる瞬間、


彼は、ほんのわずかに顔を傾け、


誰にも聞こえないような、ごく小さな声で——


「……汚染じゃ、ない。」


その言葉は、

夜の裂け目から垂れた細い糸のように、儚く、壊れかけていた。



澄川の眉が、わずかに動いた。


だが、追わなかった。


念安の心臓が、強く締めつけられた。


制服の裾を握る手には、

背骨の奥から、何かが這い出してくるような震えが走った。


それは、沈黙の中で確かに——


潜流シールドの下、

さらに深く、さらに静かに。


裂け目が、開いていく音だった。



廊下の突き当たりで、シールドがふたたび揺れる。


銀と黒の影が、拘束された少年を連れて、

暮れゆく潜流の光の中へと、すべり込むように消えていった。


——世界は、表面上、標準同期へと戻った。


あたかも、

何事もなかったかのように。


あたかも、

あの赤と潜流が交差した引き裂きは——


ほんの小さな、

一時の異常反応に過ぎなかったかのように。


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