22. 汚染じゃ、ない
翌日の実験授業。
潜流操作室の空気は、表面上はいつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
銀灰色の標準仕様の実験台、白で統一された照明。
空気中には、潜流フィルターから発せられる微かな冷気と、ほのかに無機質な香りが漂っていた。
生徒たちは各グループに分かれ、それぞれの実験台の周囲に立ち、
今日の課題に備えていた。
課題は、簡易潜流節点(Simplified Drift Node)の構築シミュレーション。
念安は自分のグループに加わりながらも、
視線の端では何度も沈以安の様子を確認していた。
彼の動きは今日も変わらず、優雅で正確。
一つ一つの動作に、隙がなかった。
周囲の生徒たちは誰ひとり異変に気づいていない。
だが、念安の指先はいつの間にか、
握っていた同期ペンに力がこもっていた。
彼女の潜流場の外側に——
明らかに「ここに属していない」何かが、
静かに、だが確かに存在している感覚。
それはまるで、
透明な何者かが空気の中に潜み、
静かに、一本ずつ、
潜流シールドの繊維を引き裂いていくような——
無音。
無臭。
けれど確かに、
骨の奥深くへと入り込み、
細く、密かに絡みつき、
そして——締めつけ、砕く。
*
カチン。
ごく微かな音。
まるで、ガラスの針が床に落ちたような乾いた響き。
*
全員が反射的に顔を上げた。
そして見たものは——
沈以安の隣にいた女子生徒が、彼から同期ペンを受け取ったその瞬間。
彼女の動きが、止まった。
手の中のペンを見つめるその瞳には、
痛みと錯乱が入り混じった異様な光。
小さく震え、
次の瞬間、
彼女の潜流同期指数が一気に跳ね上がった——
だがそれは「上昇」ではなかった。
爆発的な断裂帯(Fracture Bands)としての異常値。
*
彼女は突如、理性を引き裂かれたように動き出す。
手を伸ばし、机の上の小型潜流安定器(Micro Drift Stabilizer)を掴んだ。
それは精密な調整用の器具で、
先端に震動針が付いた鋭利な機構だった。
誰もが反応するよりも早く——
彼女はその針を、自らの胸元へ、勢いよく突き立てた。
*
バシュッ。
潜流の漣漪が裂ける音。
空気が金属の膜を引き裂いたような鋭い反響。
血が吹き出した。
白い制服に、赤い斑点が瞬く間に広がる。
それはまるで、
潜流シールドに走った亀裂のように、生々しかった。
彼女の口元は、震えながら何かを呟き始めた。
それは次第に叫びへと変わり、
割れた声で、破滅の断片を繰り返していた。
「……見つけなきゃ……見つけなきゃ……」
「私の……basin核が……」
「汚染された……浄化しないと——!」
血まみれの手で自らの胸をかきむしり、
骨と肉の隙間から、存在しない「魂の核」を、
必死に引きずり出そうとしていた。
教室は、一瞬で凍りついた。
次の瞬間、誰かが悲鳴をあげて後退し、
誰かが転倒し、
誰かが警報ボタンを押した。
*
潜流警戒線(Drift Emergency Net)が天井から展開され、
局所空間の封鎖が始まる。
だが、彼女の潜流場はすでに歪み始め、
周囲の微涟へと感染を広げていた。
同期曲率指数が跳ね上がり、
教室内の空気全体が暗流に巻き込まれたように揺れ始める。
*
念安は、反射的に澄川の袖を掴んでいた。
震える小さな手。
けれど、声は上げなかった。
澄川は彼女の肩を支え、
もう片方の手で携帯型の潜流抑制器を取り出すと、
即座に局所シールドを展開。
拡散しつつあった撕裂波から、念安を包むように守った。
*
外から、駆け足の音が近づいてくる。
警備部隊。
軍直属の同期制圧チーム。
その場の誰もが、状況の深刻さを理解し始めていた。
——ただひとつ、
気づいていなかったことがあった。
沈以安は、教室の中央に、静かに立ち続けていたのだ。
その表情には、微かな——
あまりにも静かな、笑み。
まるで、すべてが予期された結末であるかのように。
*
警報音が潜流シールドを引き裂き、警備部隊が突入する。
銀黒の戦術潜流スーツに身を包み、
統率された動きで教室に入ってくる。
潜流場抑制器(Drift Dampener)は最大出力で稼働。
実験棟内には、半径二十メートルに及ぶ同期抑制領域(Localized Inhibition Zone)が形成される。
空気が冷たく重くなり、
潜流粒子は高周波の圧制下で、
水分子のように縮み上がっていく。
*
沈以安は、動かない。
抑制波に揺れる制服の中で、
彼だけが静かにその場に立ち続けていた。
警備隊員たちの動きを、
穏やかな目で見つめながら——
微笑を、崩さずに。
まるで、
これが当然の結果であるとでもいうように。
*
指揮官の合図。
二人の同期警備員が前進し、
携帯型潜流拘束具(Portable Drift Shackle)を構える。
微型同期束(Micro Drift Beam)が、
沈以安の神経ノードに正確に照射される。
彼は、抵抗せず、
静かに両手を上げる。
同期束が全身を包み、
潜流核の反応領域を封鎖していく。
終始、沈黙。
まるで、標準作業手順の一部のような冷静さ。
*
念安は、生徒たちの群れの後方に立ち尽くしていた。
心臓は、高鳴っていた。
澄川は、シールドの縁に手を置いたまま、
沈以安を見つめていた。
その表情は普段と変わらぬように見えたが、
引き締まった顎の線が、彼の警戒の深さを物語っていた。
*
ざわめきが広がる。
「……潜流汚染……?」
「彼、前はすごく優秀だったのに……」
「なんで急に……?」
そう——
沈以安はかつて、
学区でも指折りの潜流制御能力を誇る生徒だった。
彼のbasin核は理論上の安定域ギリギリにあり、
「絶対同期者(Absolute Synchronizer)」と呼ばれていた。
教師たちは、彼が将来、
中央都市の潜流開発局に進むことを疑わなかった。
完璧。
静謐。
優雅。
——そして今日。
亀裂が、走った。
*
同期ロック完了。
指揮官の命令が短く下る。
「中枢同期局へ移送。
basin核の汚染度を確認し、
必要に応じて修復または……消去プロセスへ。」
その声には、
一片の感情もなかった。
それは日常の余白を、
無慈悲に切り裂く決定の音だった。
*
沈以安は、静かに頷き、
警備員に従って歩き出す。
——そして。
念安と澄川のそばを通り過ぎる瞬間、
彼は、ほんのわずかに顔を傾け、
誰にも聞こえないような、ごく小さな声で——
「……汚染じゃ、ない。」
その言葉は、
夜の裂け目から垂れた細い糸のように、儚く、壊れかけていた。
*
澄川の眉が、わずかに動いた。
だが、追わなかった。
念安の心臓が、強く締めつけられた。
制服の裾を握る手には、
背骨の奥から、何かが這い出してくるような震えが走った。
それは、沈黙の中で確かに——
潜流シールドの下、
さらに深く、さらに静かに。
裂け目が、開いていく音だった。
*
廊下の突き当たりで、シールドがふたたび揺れる。
銀と黒の影が、拘束された少年を連れて、
暮れゆく潜流の光の中へと、すべり込むように消えていった。
——世界は、表面上、標準同期へと戻った。
あたかも、
何事もなかったかのように。
あたかも、
あの赤と潜流が交差した引き裂きは——
ほんの小さな、
一時の異常反応に過ぎなかったかのように。




