14. 偏移は、発芽の時点で“構造癌”だ
軍本部の外では、夜の闇がいよいよ深く沈み込みつつあった。
銀色の潜流シールドが、遠く高空で微かに振動している。
その揺れは、ごく微弱——だが、確かにそこに在った。
それはまるで、“抑え込まれた自由の漣漪”が、
今にも目覚めようとしているかのようだった。
—
会議室に、短い沈黙が降りた。
歴懷謹は手元の浮遊スクリーンを起動し、
指先で静かに空中をなぞる。
するとすぐに、複数の潜流監視マップ(Drift Curvature Maps)がテーブルに投影された。
白と灰の背景に、南二区・東五区・外縁浮遊帯の三箇所が、
極めて淡い曲率の乱れとしてハイライトされていた。
その線はほとんど視認できないほど薄く、
しかしそれ故に、不気味なほどの“確かさ”を帯びていた。
「異常の形は、まだ安定していない。」
歴懷謹の声は低く、どこか乾ききっていた。
だが、その眼差しには冷たい刃のような鋭さが潜んでいた。
「だが、パターンの一致率は67%。
完全な警戒レベルには至らないものの、過去の記録と照らし合わせると——」
彼はテーブルを指先で軽く叩く。
関節がかすかに鳴るような、乾いた音が静かに響いた。
「三〜五日以内に、局所潜流曲率が不可逆状態に移行する確率は30%。」
蘇遠征は投影された映像をじっと見つめながら、黙して言葉を発さなかった。
その顔には深い厳しさが刻まれており、
黒髪の中に混じるわずかな白が、長年の重責を物語っている。
制服は皺ひとつなく整えられ、
肩章にあしらわれた銀の徽章が、潜流ライトの下でかすかに輝いていた。
その姿は、いざというときに即座に銃を抜ける軍人そのもの。
だが、その眉の奥には、どうしても隠しきれない疲労の影が差していた。
対照的だったのは、白瑾秋だった。
彼の全身には、一点の隙もなかった。
まるで冷たく削り出された宝玉のように、完璧な均整と硬質な静寂を宿している。
視線はテーブルの中央から一度も外れることなく、
その身体からは、指一本すら微動だにしなかった。
年齢は三十五。蘇遠征より十歳若い。
中央軍部の副指揮官であり、標準主義の急先鋒。
整いすぎた顔立ち。
漂白されたように白い肌は、有機的な温度をどこか欠いていた。
制服のボタンに至るまで、誤差は一ミリも許されず、
その呼吸のリズムさえ、都市の潜流と完全に同期しているかのようだった。
羅琦は五十代。
その顔には、年齢以上の深い皺が刻まれ、
強く握られた手は、見えない緊張に震えていた。
彼の目には、今この部屋に“都市の未来”そのものが集っているように映っていた。
—
歴懷謹はスクリーンを閉じた。
その手の甲に浮かぶ青筋が、老いと長きにわたる重圧を物語っていた。
七十を超えてなお、彼は純血都市軍部の頂点に君臨している。
かつて「最初の偏移災厄」を生き延びた、生ける伝説。
その威光を揺るがせる者は、いまだ誰一人として存在しなかった。
だが、この瞬間——
冷たい潜流ライトの下で、彼の肩はごくわずかに沈んで見えた。
「都市防衛局は、即時の緊急同期処理(Emergency Drift Re-Sync)を求めている。
君たちは、どう考える?」
その声は、静かだった。
だがその中には、明らかな葛藤が滲んでいた。
—
沈黙ののち、蘇遠征が静かに口を開く。
「緊急同期処理により、表層の異常は一時的に抑えられます。
しかし、原因が自然変動ではなく“何か”である場合、
強制的に押さえ込むことで、構造そのものが破断する可能性もあります。」
語り口は慎重で、重く。
その言葉一つひとつが、幾度となく内心で研ぎ澄まされた末に発されたものだった。
白瑾秋は、眉をほんのわずかに動かしただけで、
冷たい声で即答する。
「即時同期は、必須です。」
その声音には、一片の揺らぎもなかった。
「偏移は、発芽の時点で“構造癌”だ。
放置すれば、いずれ都市全体を蝕む。」
抑揚のないその語りは、まるで物理定数を読み上げるかのようだった。
そして、「偏移」という語を口にした瞬間、
その瞳に、ごく微かだが鋭く病的な“嫌悪の光”が閃いた。
あまりに一瞬だったが、部屋にいる三人はそれを見逃さなかった。
—
蘇遠征は、その刹那、指先で膝をトンと軽く叩いた。
歴懷謹は静かに深く息を吐き、
その顔には賛同とも懸念ともつかぬ沈黙が浮かんでいた。
—
テーブルの投影が切り替わる。
三箇所の異常領域では、
潜流個体の同期率が明確に低下していた。
さらに、一部のマイクロ潜流集合(Drift Clusters)からは、
生成体が崩壊する直前にのみ出現するとされる、
「共振拡張痕跡(Resonance Expansion Traces)」が確認されていた。
蘇遠征の目が細く絞られ、
その眉はさらに険しくなった。
ロウ・チーが何かを言いかけて、口を開いた。
だがその声が漏れるより早く、
白瑾秋が冷然と、しかし迷いなく言い放った。
「直ちに、都市全域で潜流スキャン(Full Drift Resonance Scan)を実施すべきです。
重点的に、異常拡張源の特定を急ぐ。」
「初動としては、全域圧制同期。
並行して、暗線による調査を開始。」
—
歴懷謹はすぐには応えなかった。
その目は、沈黙の中で三人の顔を順に見渡し、
皺深き老いた頬に、冷たいライトの陰が落ちる。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「……全域スキャンは、住民に動揺を招く恐れがある。
それならば、まずは“暗線調査”のみでどうだろうか。」
—
蘇遠征は、小さく頷いた。
白瑾秋は、ひと欠片も動かなかった。
その瞳は深海のように静まり返っていたが——
ただ一度だけ、目に見えぬほど小さく、
その指先がズボンの縫い目を「コツン」と一回だけ、叩いた。




