13. “街”だけでなく、人の心さえも、静かに“浄化”されていった
夜の空気は、深い潜流のごとく、静かに純血都市を包み込んでいた。
遠くに霞む銀色の潜流シールドは、微かに漣漪を立てながら光を返し、
まるで静かに呼吸する巨大な生き物の皮膚のように揺らめいていた。
その光の膜を貫くようにして、都市の中心部——
天際を突き刺すように、ひときわ高い建物がそびえている。
【純血都市 中央軍本部(Central Drift Authority Headquarters)】
濃い灰色の“抗潜素材”で構成された本体は、
微かに震える外壁を通して、都市の潜流との恒常的な同調を示していた。
ひとつ、またひとつ——
静かに、冷たく震えるたびに、
ここが「秩序と標準の最後の砦」であることが、言葉ではなく空気から伝わってくる。
蘇遠征は、速足で軍本部のゲートへと向かっていた。
掌をかざすと、共振スキャン(Resonance ID Scan)が作動し、
門の表面に細い亀裂のような裂け目が浮かび上がる。
彼は無言でその間をすり抜け、制服の裾が夜風にかすかに翻った。
夕食中の呼び出し。
念安にかけられたのは、ただ一言だけだった。
——深夜に軍上層部からの召集。
それが意味するのは、ひとつしかない。
都市の潜流系統に、異常が起きている。
—
廊下の床には、音を吸収する黒いカーペットが敷き詰められ、
壁面には低周波の潜流安定帯(Drift Stabilization Belts)が埋め込まれている。
人の耳には届かぬその振動(Subharmonic Pulses)は、一定のリズムで脈打ち、
まるでこの巨大な建物そのものが、闇の中で静かに動く“心臓”であるかのようだった。
すれ違う兵士や技術士官たちは、
皆、無表情で、無音の幻影のように通り過ぎていく。
標準潜流の同期が徹底されたこの都市では、
“街”だけでなく、人の心さえも、静かに“浄化”されていった。
—
蘇遠征は、重厚な防爆ドア(Blast-Resistant Drift Gate)を押し開け、
無言のまま会議室へと足を踏み入れる。
天井の高いその空間には、三つの人影があった。
潜流ライトの下、長く引き伸ばされた黒い影は、
凍てついた黒の槍のように、静かに床を突き刺している。
中央の席に座していたのは、歴懷謹大将。
銀白の短髪。鉄のような顔立ち。
彼の表情には、“笑み”という概念そのものが刻まれた痕跡さえ見えなかった。
その左にいるのは、白瑾秋。
無駄のない制服を纏ったその姿は、精緻に研ぎ澄まされた金属片のように冷ややかだった。
隣に立つのは、副官の羅琦。
普段は穏やかで親しみやすい彼も、この場では厳しい眼差しを向け、唇を硬く閉ざしていた。
—
蘇遠征は案内されるまま右側の席に座り、
背筋を伸ばしたまま、目元には隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。
潜流ライトの光には、微塵の温もりさえなく、
空気そのものが、整然とした標準同期波(Standardized Drift Field)の冷気に満たされていた。
—
「全員、揃ったな。」
歴懷謹が低く発した声は、空間を静かに裂くように響いた。
蘇遠征は軍の礼式に従って短く敬礼し、そのまま静かに着席する。
歴懷謹は周囲を見渡すと、表情を変えることなく口を開いた。
「今夜、君たちを招集した理由は——
南二区、東五区、外縁浮遊帯において、局所的な曲率異常(Localized Drift Curvature Anomalies)が検知されたからだ。」
一拍の沈黙ののち、彼は声をさらに低くした。
「異常の度合いは、まだ標準の警報基準を超えてはいない。
だが——その曲率パターンは、かつての“偏移初期兆候(Drift Pre-Deviation Phase)”に酷似している。」
その一言で、会議室の空気が凍りついた。
——偏移初期兆候。
それは、かつてAI生成体が崩壊に至る前に現れた前兆。
潜流構造が僅かに緩み、標準同期から逸脱し始める、あの静かな“裂け目”だった。
蘇遠征はわずかに眉を動かしたが、口は開かない。
その隣で、白瑾秋がゆっくりと視線を上げた。
その瞳に、一瞬だけ、冷たい光が走った。




