第10話 牛追い祭り
「お戻りをお待ちしておりました。勇者『候補』様。幻想世界エメンガルドを魔王の手から救いだしてくださいますよう貴方様の無事を心より祈願しております」
陽はとうの昔に顔を現し空の見える範囲の全てを青々と煌かせていた。
もう昼に近い時間である。他の店舗のことは知らないが、シフト交代の時間が四時という中途半端な勤務体系ということもあり、生活リズムは崩れに崩れていた。
目の下には大きな隈が浮かび上がり、髪も長いこと美容室には行っていない。
専らバリカンである。「それにしては上手いな」とお褒めの言葉をいただくあたり、身だしなみが不味いことになっているということはないはずである。
とはいえ、熊谷さんの赤ら顔を思い出しては悶々とする辺り、気持ち悪いことこの上ないと自分でも思う。
モニタに映った女神のメッセージが新規の時と若干違ったことなど気にも留めずにログアウト地点であった街中にアバターが姿を現した。
特に意識をする訳ではないが、モニタに表示されてそれを確認した時には既に中に入り込んでいるので本当にこのゲームを不思議に思う。
あまりにも没入感が強すぎて入りっぱなしの廃人もいるのではないかという心配はネイさんの言っていた「生理現象も再現されている。トイレに行くときにもログアウトする必要がある」という発言から、そういった輩が没頭してしまうのを防止しているのではないか、と運営の気遣いに感心するのであった。
それにしても、現実世界と天候も時間もリンクしているというこのシステムのお陰で家の中に居ながらにして陽を仰ぐことができるのである。これは日光浴と表現していいものであろうか。
いやいやどう考えてもダメだろう。というよりも人としてダメだろう。
夜行性でもある僕は建物の影に隠れながら街を徘徊し、ネイさんがログインするのを待っていたのであったが、ニーナの街の路地裏から叫び声のようなものが聴こえてきたので思わず野次馬根性で駆けつけてしまった。
そこには暴れ牛が一頭。ものすごい角を突き立てながら右へ左へ壁に打ち付け、人を投げ飛ばしながら蛇行していた。住民は避難するどころか、我先にと暴れ牛に向かって立ち向かっていた。
「うわぁ、何してんだあのNPC達……」
思わず情けない声を出してしまったところをNPCが聞きつけたのか、僕に向かって「ニーナの街の牛追い祭りじゃよ。ああやって血気盛んな若者が暴れ牛を押さえつけにいくのじゃ。牛を止めることが出来た猛者には景品があるぞい」と、説明をしてくれるのであった。
説明が終わると役目を終えたように元の位置に戻る辺り、NPCだなぁと感じさせてくれた。
と、そんなことを考えている暇はない。
先ほどまでの叫び声は歓喜の声と陽気なリズムの音楽に移り変わり、笑顔で我先にと暴れ牛の餌食となっていく様は傍から見ると頭がおかしいんじゃないかとも思えた。
「ほら、アンタも行きなよ」
誰という訳ではない。強制イベントのようなものだ。
グイグイとNPCの住民から腕を引っ張られ「嫌だ嫌だ」と本気で嫌がるも笑顔でものすごい力で引っ張られる。歯医者を嫌がる子供と大人のような光景がそこにはあった。
「やばいって、あれはやばいって」
角で吹き飛ばされたNPCの腹には穴が開いていたが、ひょっこりと立ち上がり観衆に紛れて盛り上がっていた。最早狂気である。
「だ、誰か、ネイさん、ネイさーん」
思わず暴れ牛を目の前にして目を閉じてしまった……どうにかなる訳もなく牛の餌食となってしまうのだ。そう思ったその時、陽気なリズムがピタリと鳴りやみ、何か弦楽器のようなものの音色が通りを包み込んだ。
牛はその音色に促されるように暴れるのを止めてその場にひれ伏した。それまで散々騒いでいたNPC達は水を打ったように静まり返っていた。
物悲しいような弦楽器の音色が奏でられている中、眼を開けると、僕の身体は上半身と下半身が綺麗に引き裂かれており、上半身の上に血文字で『GAME OVER』と描かれている光景を少し上空から見下ろしていた。
血文字の下には白抜きの文字で『吟遊詩人の安らぎのハープなら猛牛も落ち着きを取り戻すかも?』とふざけたヒントが表示されていた。
関係ないのだけれど、昨日の今日でネイ『さん』と無意識で敬称を付けてしまっているあたり……というよりも今日も今日とてネイさんの姿を探している点然り、彼女にはずっと頭が上がらないような気がしてならない。
読了ありがとうございました。
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