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その60

 胸まで上げた拳をきつく握り締め、二人の男が対峙する。彼らに今、大きな動きはない。しかし、二人に挟まれた空気は、引き裂かれてどこかに飛んで行ってしまいそうなほど緊張している。

 一人が、右へ左へと警戒に足を運んだ。どんな小さな隙さえも見逃すまいと、視線は釘に結ばれた糸のようだ。それには相手の視線が厳しく絡んでいる。

 ここで決まる。

 ふたりの胸に湧き上がったのは、奇しくも同じ思いだった。同時に一歩が踏み出される。間合いだ。ふたりの間からあらゆるものが消えていく。空気さえも消え去る真空地帯。拳、あるいは蹴りを相手に叩きこむ。単純な概念のみが残り、息をしていた。

 一撃で決める。必殺の思いで鋭く放たれた拳が狙うのは頭部。間合い、タイミング、どちらを取っても申し分ないはずだった。手ごたえはなく、拳は空を切った。相手の姿が消えたのだ。いや、小さく身体を屈めたのか。読まれていた。あの目つきを見ろ、反撃が来るぞ。防御姿勢。一歩下がらなくては。

 コンパクトに突き上げられた拳が顎を貫く。間髪いれず、のけぞった頭部を突き刺すような上段蹴りが襲った。

 大丈夫だ。大したことはない。こっちの腕力が上さ。当たりさえすれば、おれの勝ちなんだ。一発……いや、二発か、もらったぐらい、なんだ。いけるぞ。反撃だ。おや、身体がひんやりと気持ちがいいな。ライトも妙にまぶしくてやがる。……おれ、寝てるのか? 立ち上がらなくちゃ。立ち上がって、即座に反撃だ。おれは勝てる。勝てるぞ。一撃だ。一撃決めたら勝てるんだ。ああ、ひんやりとして気持ちがいいや。

 終了の合図となる鐘が鳴り響いた。わっと空間に声が満ちた。

 丸い台を、天井からぶら下げられたギラギラとした色灯が明るく浮きあがらせている。勝者は高く両手をあげ、吠えた。空間に満ちる声は密度を増す。丸台の周囲、すり鉢状の観客席には、ヒュープルと熱狂が隙間なくひしめき合っていた。

 そんな中、周囲と隔離された空間がひとつあった。壁はのっぺりとしており、観客席側に入口はない。試合を余すところなく観られるように開けられた、広い窓がひとつあるだけだ。観客席に埋められた巨大な箱のようにみえるこれは、特別席と呼ばれている。

「これがおれの管轄。闘技場だ」

 エルピディオがカラスに向けて言った。カラスは丸台の方をじっと見たまま動かなかった。新たな闘士が二人、丸台に上がってきたところだった。次の闘いが始まろうとしていた。

「お、おい。なんとか言え、カラス」

 慌てたようにカシミロがカラスを揺すった。その横にはふてくされた表情のチリーノもいた。

 プライムの命令とはいえ、侮り、バカにし続けたカシミロの下で働くことは、彼の自尊心に相当傷をつけているらしかった。これを罰として選ぶとは、ベアトリスも意地が悪い。殺された方がマシだったかもしれない、と思うこともあった。

 しかし、彼はこれをチャンスだと考え直した。カシミロは『スカウト』をパスした。これからどんどん地位を上げていく可能性がある。当然、その部下にもおこぼれが期待できるわけだ。感情としては、足を引っ張ってむちゃくちゃにしてやりたいが、そんなのは一時的にすっきりするだけで、誰も得しない。ならば、不満だが――正直なところむかついて吐きそうなぐらいだが――ここはカシミロと協力し、やつに与えられた大きな任務を成功させた方がいい。冷静なときのチリーノは計算高く立ち回れる男だ。

「きっと雰囲気に圧倒されてるんですよ。初めて観たら、誰だってそうなる」

 カラスをフォローしつつ、闘技場をさりげなく褒めるチリーノの絶妙さには触れず、エルピディオはカラスに顔を近づけた。

「つまらないか」

 答えにくすぎる。カシミロはめまいがした。カラスは何と言うだろう。予測がつかない。《ハウス》は面白ければなんでもありだ。その気風はビビッドも備えている。だが、その中でもエルピディオは一番冗談が通じず、穏やかでもない。ここでカラスがつまらないなどと言ったなら、その場で殺されてもおかしくない。胃袋がひっくり返りそうだ。

「両者真剣だ。だから、これほど皆が熱中するのか」

 カラスは闘いを観ながらつぶやいた。

「面白いかどうかまで考えられない。闘いを見せて、それが商売になるってことに、ただ驚いている」

 エルピディオはにやりとした。満足のいく答えだったのかもしれない。

「おまえ向きだろ」

「ということは、やっぱり……」

 とカシミロ。

「ああ、カラスにはここの闘士として戦ってもらう」

 カラスはやっと丸台から目を離し、エルピディオを見た。

「倒せばいいんだな、全員」

「やる気十分じゃないか、新入り。でも、はずれだ。おまえの目的は優勝じゃない」

 エルピディオはちらりと丸台を見た。力量差があったのだろう。パワーで圧倒する闘士があっという間に形勢を固め、闘いはあっさりと終わってしまっていた。

「ちょうどいい。丸台の方を見ろ」

 次の闘士が入場してきたところだった。

「やつの名前はネイト」

 エルピディオは毛深い顎をかきむしりながら、普段は腹の前で組まれている小さな腕を伸ばした。それが示したのは、異形の闘士の方だった。

「ここじゃ、盛り上げるために闘士に通り名がつけられることがよくある。だが、ネイトはそうじゃねえ。悪評が書かれた看板みてえなもんだ。あいつの通り名は、なぶり殺し。“なぶり殺しトーメント”ネイトってんだ」

 ネイトが登場すると、今までの盛り上がりが一転、観客らは不満の声を発し始めた。渦中の本人といえば、そんなものどこ吹く風。浴びせられる罵声を意に介さないどころか、不敵な笑みを浮かべて丸台へと進んで行く。中央へと進み出ると、すでに勝負は決まったと言わんばかりに腕を高く掲げた。無視された形になったネイトの対戦相手は、怒りと困惑で複雑な表情だ。観客の不平感も一気に高まったらしい。荒れ狂う怒号が場内を飛び交った。

 ネイトは、そんな状態をむしろ楽しんでるように見えた。絶対的な自信に支えられて突き上げられた四本・・の腕。甲殻に覆われた全身が色灯の光を受けて鈍く光っていた。つまり、腕の数こそ違えど、ネイトはエルピディオと同じタイプのヒュープルだった。

「カラス、おまえが倒すべきはあいつだ」

 エルピディオの口調は、終始落ち着いたものだった。しかし、その表情を見てカラスは察した。このビビッド、観客以上にネイトを嫌っている。

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