その1
秒針が刻む音、かすかな息遣い。部屋には二人の人物がいるというのに、他の音は一切ない。空間は重苦しい静寂そのものだった。
部屋面積の大半をしめているのは天蓋つきのベッド。横たわる男の体格はそれにふさわしく、中央に重厚感たっぷりと身を沈めていた。顔に刻まれたしわは断層のように深く、ゆっくりと上下する厚い胸板はふいごのようだ。大きな手がやおら動きだし、腹までかけられた毛布をたぐるように握りしめた。まるで古木のように節くれだった手は、彼の半生が平坦なものでなかったことを強く静かに語っている。
ただ者ではないと一見してわからせる。ジェイラスはそんな容姿をしていた。そして彼の命がもはや尽きようとしていることも。
「聞け。メイナード……」
続くはかすれた呼吸と咳きこみ。ベッドの傍らで椅子に座った男、メイナードは前のめりになり、彫像のように我慢強くその様子を見守った。
「息子を……頼んだぞ……」
ようやく絞り出したその言葉に対し、メイナードは頭を深く垂れ承った。
やがてジェイラスの呼吸は穏やかになり、胸は静かに動きをとめた。握りしめられた拳が花開くように解けた。
メイナードは太い、しかし力ないジェイラスの腕を持ち上げると脈を取った。たっぷり十数秒の確認だった。腕を本人の横にそっと揃えると立ち上がり、メイナードは素早く部屋を後にした。
“偉大な”ジェイラスがこの世を去った瞬間だった。
大きな音を聞いた。歯車が位置を変え、新たに噛み合った先に動力を伝えていく音だ。歯車の配置は恐ろしく複雑で緻密だ。どこがどうなって動いているのか誰にもわからない。運命という途方もなく巨大な機構が今、動き始めた。
男は目を開けた。朝日が窓から差しこんでいる。パレットシティで迎える三日目の朝だ。
男は枕元に置いてあった目の粗い小袋を引っつかむとベッドからばねのように跳ね起きた。鍛え上げられた男の体は引き締まり、まとわりつく寝汗が盛り上がる筋肉を金属のように光らせる。宙に飛び上がった男は床に降り立った。しなやかな脚が着地の音と衝撃を見事に消し去っていた。
ゆっくりと着地の姿勢から身を起こしながら、男は指の先まで気力が満ちていると実感した。昨日で大体の町の様子は把握していた。やるなら、今日だ。
男は起きぬけに柔軟運動を始めた。ゆっくりと腱が伸ばされる。硬直した筋繊維がほぐれていく。それが終わるとバスルームへ向かい、水をはね飛ばしながら顔を洗った。タオルで顔を覆うと、ついでに全身を軽く拭いた。柔らかな布地が上半身の玉の汗を吸い取っていった。さっぱりした男は新しいシャツを着た。サスペンダーでズボンを吊り、腰に小袋をくくりつけた。ジャケットは羽織らずに肩へかけ、つばの広い帽子を目深にかぶると、身支度もそこそこに男は部屋を出た。
一階へ降りた男に明るい調子の声がかけられた。
「おやおや、今日もお早いですね。朝のお散歩ですか? とてもいい考えです。このあたりは、朝方とても素敵ですのよ。日の光がまんべんなく届くでしょう? ぽかぽかしてとても気持ちがいいんです」
桃色のカバがカウンターに立てた両肘に頭を乗せて、にこにこしながらまくし立てた。彼女ははっと気づいたように付け足した。
「昨晩はよく眠られましたか?」
「ああ、快適だった。少し出かけてくる」
男は帽子を気持ち深くかぶり直しながら答えた。
「お待ちになって。朝食がまだでしょう? 朝はしっかりとらないといけませんわ。さあさあ、すぐにお持ちしますので」
カバはエプロンを腰に巻くと大急ぎでカウンター奥のキッチンへ向かった。男には用事があったが、簡単な朝食が出来上がるのを待ってから食べていくだけの時間は十分にあった。だが世話を焼かれるのは、どうも落ち着かない。不自然な気さえするのだ。
「いや結構」
その言葉に彼女は奥から大きな顔だけをのぞかせた。
「お急ぎでしたか。それでも、ジュースだけは飲んでいって下さいまし」
カバの主人はカウンターに戻ると直方体のキラキラした結晶を置き、ずいと押してよこした。結晶はオレンジ色をしている。男は苦笑した。ここまでされたら断りようがないと彼女は知っているのだ。
「いただいていくよ」
ジュースを手に宿屋を出る男の背中を明るい声が見送った。




