19.答えのない罰(アクシオ視点)
キスをした。
そのことはわかっている。けれど彼女の唇の感触が思い出せない。
あの時は自分の身に起こっていることを理解するのに精一杯だった。彼女とキスをしたのだとわかった時にはもう、彼女の唇は離れていた。
(……罰って、何だ。俺が何をしたんだ)
ヴィルエは『罰です』と話していた。罰がキスだとするなら、いったいアクシオは何をしたのか。
あの時、『夜宴の黒花』として在り続ける理由や目的に関して本人に問うつもりだった。直接聞いた方が早いのかもしれない、と思ったのだ。
だが出来なかった。彼女はきっとアクシオと二人であっても本心を語ろうとしないだろう。うまくはぐらかして逃げるのかもしれない。そう考えると勇気が出なかった。言いかけたものを飲み込んだのは、勇気がでなかっただけではなく、彼女を前にしたが故の緊張もあったかもしれない。
(もっと彼女に近づきたい、近くで彼女の反応を見たい。そう思ったから近づいたが……あれがよくなかったのか?)
思い返せば確かに、距離を詰めた時のヴィルエはいつもの反応と異なっていた。その動きは精細を欠き、少し照れていたようにも見える。しかしそれだけであの罰に繋がるとは思いがたい。
(だからって……突然キスをするのはおかしいだろ!)
離れていく時のヴィルエを思い出すなり、頬が熱くなる。蘇った羞恥心を打ち消すようにため息をつくと、部屋の隅にて書類整理をしていたグレンが笑った。
「先ほどから百面相で忙しいようですが。何かありました?」
「はあ!? い、いや、何もない、気にしなくていい」
「そんなに動揺なさらなくても。というか顔が真っ赤ですよ」
グレンに指摘されてもまだ熱は消えてはくれない。咳払いをして誤魔化すが、グレンはくすくすと笑っていた。
「デインの丘は景色も綺麗ですが、良いデートスポットでもありますからね。キスをした恋人たちなんて旦那様以外にもたくさんいますよ!」
ずばっと言ってのけたグレンに驚き、アクシオは椅子から立ち上がる。その拍子にガタンと大きな物音が響いた。
「ち、ち、違う! あれは――」
「別にいいじゃありません。相手は奥様なんですし」
「良くない。お互い好き合っているわけでもなく、恋人でもないのに」
彼女がどういうつもりでキスをしてきたのか、アクシオにはわかっていない。罰だと言っていたことからアクシオを懲らしめるつもりであの行動なのだろう。
ヴィルエがアクシオを揶揄って遊ぶのは今に始まったことじゃない。二人で出かけた馬車の中でも散々揶揄われたのだ。
「ロマンチストですね。夫婦なんですから恋人も好き合うもないと思いますが」
「それは……その通りだけども」
「大事なのはアクシオ様の感情でしょう。キスをして嫌だと思ったのか思わなかったのか、アクシオ様はどうだったんですか?」
グレンに言われ、アクシオは自分自身に問いかける。
ヴィルエからキスをされた。それに対して、自分はどのように感じたのだろう。
(驚きは……した。誰だって、あんなの想定していないだろ)
だが、嫌だとは思ったことはなかった。キスをされた後や思い返している今だって。
それどころか、少し悔しいと思っている。
感触も温度も、何も覚えていない。いくら考えてもその瞬間のことが思い出せずにいる。
それが悔しい。自分だけがわからないまま置いて行かれたようで。
(……ヴィルエだって男に慣れていない。俺が知らないふりをしているからって、こうして揶揄って……腹が立つ)
あの夜の出来事があった後も、ヴィルエの振る舞いは変わらない。男性経験が豊富であるかのように振る舞い、アクシオを揶揄ってくる。
けれど、唇を重ねた後の、一瞬だけ見えた彼女の表情。
潤んだ瞳と高揚した頬。きゅっと引き結んだ唇には恥じらいがあったような気がした。言葉や態度と違い、表情にだけは表れていた。
(くそっ……あんなに可愛いの、反則だ)
いつも気高い彼女が隙を見せる。その一瞬だけで、アクシオの心には今までに知らなかった感情が生じる。
あのように恥じらうヴィルエが可愛く、妙な衝動に駆られてしまいそうになる。今すぐに抱きしめて、触れたくなる。瞳を潤ませて懇願し、アクシオの体に縋り付く様を見たくなってしまう。
胸の奥が苦しい。自分自身の欲望を再認識してしまう。
「……グレンは、そういう時どう思うんだ?」
「なんで僕に聞くんですか」
「お前はそういうの豊富だろ。情報収集の一環としてそういうことだってするんだろ? 酒場でもお前はすぐに言い寄られていた」
「そりゃアクシオ様に比べれば、僕の方が魅力ありますからね」
ふふん、と得意げに鼻を鳴らしてグレンが言う。
『夜梟』とは二人三脚のものである。実際には多くの協力者がいるのだが、『夜梟』の全容を知った上で動いているのはアクシオとグレンのみだ。
主にはアクシオが暗殺任務を行う。グレンは情報収集や暗殺補佐を担当している。グレンはアクシオほど剣術や体術が得意ではない。そのためこの分担になっている。
情報を集めるためならば色仕掛けだって辞さない。そんな場面ではグレンの出番である。彼は女性の扱いに長けている。
「しかし……好きな人というのは僕もよくわかりません。ほら、アクシオ様より先に恋人を作ってしまうのはなんだか申し訳ないでしょう?」
「余計な気遣いはいらない」
「ははっ。何を仰います――ですが、キスをしてきた相手が好きな人であれば、僕は嬉しくなるかもしれません。少なくとも嫌だとは思わないでしょう。もう一度してほしいと願うかもしれませんね」
もう一度。
その言葉がすとんと胸に落ちる。
嫌だとはまったく思っていなかった。それよりもその時のことを鮮明に覚えていないことに苛立ち、後悔した。叶うならばもう一度。でもそのもう一度で、今度は自分の衝動を抑えていられるかわからない。
「……好き、なのかもしれない」
ぽつりと、呟く。
口にするつもりはなかったのだが、好きという二文字が浮かべば心に生じていた雑音が一気に片付き、視界が開けたような心地になる。
彼女のことを知りたい。近づきたい。もう一度。その願いは全て、彼女に対する好意から生じたものだ。
アクシオの返事を聞いて、グレンは優しく頷いた。
「ようやく認めたんですね。ではヴィルエ様に気持ちを伝えれば良いでしょう。こないだの調査結果についてもお話した方が良いでしょうし」
「ヴィルエには、あのことをまだ話していない」
「ええっ!?」
悲鳴に近い叫び声があがる。グレンが目を大きく見開いていた。
「デインの丘に寄ってほしいと言っていたのは、奥様とその話をするためだと思っていたのですが!? あんなにムードばっちりの場所なのに!?」
「俺が話したところで、あいつが口を割るとは思えない。あいつも俺も、それぐらい覚悟を決めて光のあたらない場所にいるんだろ」
暗殺者としての生き方を止めてほしいなんて思っていない。もうこの生き方しかできないのだ。そのためならば大切なものなんて作らず孤独に生きる。その覚悟をしてきた。
ヴィルエもきっと似ている。その覚悟を崩せるような言葉なんてお互いに知らないのだ。
アクシオはそのように考え、ヴィルエとの対話を諦めた。これをグレンは理解できなかったらしい。もどかしさを現わすように顔を顰め、切なげに呟く。
「俺たちは、言葉なんて安っぽいものじゃわかり合えないと思う」
「だとしても、ちゃんと言うべきですよ……余計にこじれちゃいますよ……」
拗れているのはアクシオも理解している。
彼女を抱いたのは『夜梟』で、キスをしたのは『夫』だ。
そしてヴィルエ自身も、『夜梟』がアクシオであると気づいているのだろう。
(俺たちは騙し合ってばかりだからな)
ならば行動で、お互いの生きる理由を示すしかないのだ。
「例の件に向けて準備を進める。《《弟》》にも――連絡を入れておいてくれ」
セラティス王子暗殺計画。
その日は少しずつ迫っていた。




