14.仮面に隔てられた夜(アクシオ視点)
「お前が飲むはずのワインには睡眠薬を混ぜていた。だからすり替えられたと気づかずにデールはそれを飲んで眠った――もしも、デールが自分の飲み物にも別の薬を混ぜていたら?」
その可能性を口にしながら、アクシオは心の中で後悔していた。
デール・クラウザーが利己的な享楽主義の、最低な男であるとわかっていた。女性を連れ込んでは薬を盛り、自らのためなら相手を傷つけることも厭わない。
ヴィルエがそのように傷つけられるのは嫌だと思ってしまったから、彼の屋敷に乗り込んだというのに間に合わなかったとは。
(もう少し早く駆けつけていれば)
自らの不出来さを呪うも、時は遅い。既にヴィルエは謎の薬を飲まされてしまっている。
謎の薬としているが、だいたいは想像がつく。ヴィルエを眠らせた後に自らが愉しむよう催淫剤を仕込んだのだろう。まったく馬鹿らしい。
「わ、私は大丈夫ですから……放っておいて……」
苦しげに呼気を荒くし、ヴィルエが告げる。
大丈夫だと話しているが、アクシオから見てそのようには見えない。顔は赤らみ、馬車が揺れるたびバランスを崩してもたれかかる。体に力が入らないのだろう。
(ヴィルエだって望んでこの状態になっていない。それはわかっているが……)
アクシオは視線をさっとずらす。
現在のヴィルエの姿は刺激的である。自制するためには彼女の姿を直視しないことである。『夜梟』の仮面を着けていることでこれほど安心したのは初めてだ。
しかし、ヴィルエをこのような状態にさせる薬だ。それを自ら飲もうとしていたなんて、デールの嗜好が恐ろしい。
こんな風になってしまったヴィルエを他の者が見たかもしれないと考えれば余計に腹が立つ。
(迎えに行って正解だったな)
なるべく彼女を視界に入れぬよう気を払い、耐え続ける。
そしてようやく馬車が屋敷に着いた。ヴィルエもそれに気づいたのだろう。
「……私は、ここで」
一人で帰れると言わんばかりに、壁に手をついて立ち上がろうとする。
アクシオは黙って彼女を見送るつもりでいた。彼女が屋敷に戻り、しばらく経ってから自分も帰ればいい。
そう思っていたのだが、彼女が一歩踏み出そうとした時、体勢が崩れた。
「危ない!」
膝をつき倒れる寸前のところで、アクシオが彼女の体を支える。
それは彼女を助けるつもりで咄嗟に取った行動であった。
だが、ヴィルエはアクシオが思うよりも限界を迎えていたのだろう。腕の中で彼女は弱々しく震えている。
一人で歩いていくなど無理だったのだ。アクシオは覚悟を決めた。馭者に声をかける。
「俺もここで下りる。馬車はいつものところに運んでくれ」
その会話から察したのだろう。ヴィルエが驚いたように顔をあげた。
「で、ですが、あなたは――」
「無理をするな。俺が送っていく」
こういう時、『夜梟』の姿は不自由だと思ってしまう。アクシオの姿であれば、彼女を抱き上げたまま、堂々と玄関を通れたというのに。
しかし仮面は外せない。このまま彼女を部屋に送らなければ。
「部屋まで連れて行く。しっかりと俺にしがみついていろ」
彼女の両手を自らの首や肩にに絡ませ、ひょいと抱き上げた。
玄関を通らず、彼女の部屋に忍び込む。部屋の主であるヴィルエは腕の中にいるといえ、このような形で部屋に入るのは罪悪感があった。
あとはヴィルエをベッドに寝かせ、窓から立ち去ればいい。しばらくしてから屋敷に戻り、侍女にヴィルエのことを伝えよう。
とにかく、今の状態ならばヴィルエのそばにいない方がいい。
ヴィルエのためにも、自分のためにも。
「着いたぞ」
彼女のベッドまで近づくと、ゆっくりと彼女の体を下ろす。
ベッドに寝かせれば終わりだ。あとは離れるだけなのだが。
「……行かないで」
かすれた声と共に、ぎゅっと服を掴まれる。
何事かと彼女を見やれば、瞬間、潤んだ瞳が視界に入った。
「そばにいて……って、ち、違うの」
彼女は言い訳を口にしていたが、その手には力が込められたままだ。
「私、こんなはずじゃ……あなたの体温が気持ち良くて……だから、その」
呼気は荒く、泣きじゃくるような言葉。赤らんだ頬。
彼女を抱き上げていた時に触れていた場所が、離れた今は寒く感じる。その温度に名をつけるならば『寂しい』が合う。
ぷつりと、音を立てた。
それはアクシオにしか聞こえないものだろう。
彼の中に生じた衝動を止めることはできず、体は勝手に動いていた。
アクシオがベッドに乗れば、それを出迎えるように軋む音がする。
「え……」
「『行かないで』と言ったのはお前だ」
きっと、この判断を悔やむ時が来る。
今の自分は、ヴィルエの夫であるアクシオではなく、暗殺者『夜梟』なのだ。
彼女に触れてしまうことは間違いだとわかっている。けれど、衝動は止められそうになかった。
熱を孕んだ肌に触れる。しっとりと肌に吸い付く感触と共に、彼女の唇から甘やかな声が漏れた。
劣情を煽られ、その唇を貪ろうとした時――仮面につけていた紐が頬をかすめ、そこで思い出す。
今は、ヴィルエの夫ではなく、暗殺者の『夜梟』なのだ。
せめてその唇だけは、触れない方が良いのではないか。
肌をなぞるように指を落とし、腰に結ばれていたリボンを解く。解いたそのリボンで彼女の目を隠した。
「嫌よ。何も見えなく――」
「……俺は『夜梟』だ。お前の夫じゃない。だから何も見るな」
それは、わずかに残っていた理性が彼女を傷つけないようにと選んだ選択である。
けれどその理性さえ、まもなく解けてしまう。
「全てはお前が飲んでしまった薬のせいだ。だから、この夜の出来事は忘れろ」
そして、仮面に隔てられた夜が軋んだ音を立てた。
***
もうすぐ朝日が顔を出そうかという頃、アクシオはヴィルエの横顔を眺めていた。
額に張りついた前髪をそっと払う。それでも、規則正しい寝息を立てるヴィルエが瞼を開くことはなかった。疲れ果て、深い眠りに落ちてしまったのだろう。
とんでもないことをしてしまったと理解している。
ヴィルエは立場上妻であるものの『愛することはない』と宣言したのはアクシオなのだ。だから、彼女に構わずに退室するべきだった。
ましてやアクシオは『夜梟』として接していたのだ。今宵の出来事を知るのはヴィルエと『夜梟』のみになる。だから、アクシオは知らないふりをしなければいけない。事態はややこしくなるだけだというのに止められなかった。
彼女の発した『行かないで』の言葉が理性を狂わせてしまったのだ。
(俺は、何をしているんだろうな……)
普段はアクシオを挑発し、揶揄うことばかり言う彼女がどんな表情を見せるのか。どんな時に屈してしまうのか、好奇心が疼いて止められなかった。
手のひらや鼓膜には彼女の反応が焼き付いている。彼女の柔肌に触れた感触や甘い吐息を忘れろと言われても無理だ。ヴィルエが寝付いたのだから部屋を出るべきだとわかっているのに、もう少しだけ彼女のそばにいたいと考えてしまう。
アクシオはヴィルエの手に触れる。少し前は互いの指を絡めていたというのに、今は触れることを恐れてしまう。
(お前は……不思議だ)
アクシオを揶揄うだけでなく、男を手玉に取ることを愉しむ。夜会に行っては貴族らと言葉を交わし、時にはその体を存分に使って迫ることさえある。
実際にアクシオに向けた言葉もそうだった。こちらの心を見抜き、弱いところを突くかのような言葉や行動。あらゆる男性たちと遊び、知り尽くしてきたかのような顔をする。
名の通りの悪妻と思っていたのだが――隠されていた彼女の一面を知ってしまった。
以前、彼女に迫った時の恥じらった様子から違和感はあった。彼女は決して認めようとしなかったが、間違いなく顔を赤らめて恥じらっていた。そのように男性から接近されたことがないかのように。
その違和感は確証へと変わっている。乱れたベッドのシーツにその答えが残されていた。
(いろんな男を惹きつけたり、俺を散々揶揄ったりしたくせに……《《初めて》》だったなんて)
それは『夜宴の黒花』として君臨しながらも、密かに守り抜いてきたものに違いない。
自分が暴いてしまったことに申し訳ない気持ちが生じると共に、その秘密を守りながらも『夜宴の黒花』として振る舞ってきた理由が気になった。
『あなただって『夜梟』として生きる理由があるのでしょう?』
馬車の中で残した彼女の言葉が蘇る。
アクシオが語ったのは、誰にも話したことのない凄惨な過去だったが、ヴィルエは動じることなく仄暗い過去を受け入れていた。彼女のまなざしに哀れみや軽蔑はなく、むしろ同じ闇を知っているかのようであった。
だから、ヴィルエも背負っているのかもしれない。アクシオが暗殺者でいなければならないのと同じように、ヴィルエにも理由があるのだとしたら。
「引き返せなくなっているのは、俺なのかもしれないな」
ヴィルエがそばにいる。彼女のことが気になる。そんな自分自身の感情に苦く笑う。
暗殺者としてそのような感情はいけないとわかっている。封じるべきだ。頭ではわかっているのに心が追いつかない。
***
アクシオがヴィルエの部屋を出ると、ちょうど彼女が連れてきた侍女のミゼレーが廊下を駆けていたところだった。
息を切らして走っている様子から、屋敷に戻ってきたばかりなのだろう。
(なかなか帰ってこない主人を捜していたんだろうな)
ミゼレーは、ヴィルエの部屋からアクシオが出てきたことに驚いていた。
「旦那様? なぜヴィルエ様の部屋から出てきたのですか?」
「彼女の様子を見に来ただけだ」
自分が連れて帰ってきたと明かすことはできない。そのために嘘をついた。
「ヴィルエ様が戻られているのですか?」
「ああ。夜遅くに戻ってきたらしい」
その言葉にミゼレーはほっとしたように息を吐く。そして彼女の部屋に行こうとドアノブに手をかけたが、すかさずアクシオが声をかけた。
「まだ眠らせておけ。疲れているんだろ」
なぜアクシオがそう言ったのか、ミゼレーにはわからないだろう。彼女は首を傾げていたが、彼女の部屋を訪ねることは諦めたようだった。




