0.旦那様の裏の顔
彼女が賢くなければ、気づくことはなかったのだろう。
(ああ……暗殺者って、あなただったのね)
部屋に充満する錆びたようなにおい。血が染みついた外套。三日月と梟の模様が描かれた仮面が足元に落ちている。
暗い部屋だったはずが、割れた窓から外の明かりが差し込んで彼の姿を照らす。
こちらを鋭く睨み付ける男の顔にも、血がついていた。
この場面に居合わせてしまった不運なる妻ことヴィルエ・ニーベルジュは息を呑んで立ち尽くしていた。
謎の暗殺者に関する噂は何度も聞いていた。
暗殺者『夜梟』――それはこの国を影から操るとも、敵視されれば逃げられないとも語られている者。主に貴族を狙うとされているが、闇家業の者を狙うこともあり、ボディーガードをいくら雇ったとしても夜梟の腕には敵わないのだという。
正体不明の暗殺者とされているが、彼にはある特徴があった。それは三日月と梟の模様が描かれた仮面を着けていることだ。夜梟の目撃者たちは、必ずその模様を語っていた。
ただ暗殺者が現れただけならばヴィルエは冷静に判断して動いただろう。それが出来ずに硬直していたのは――そこにいた男が、自らの夫だったためだ。
(まさか、暗殺者『夜梟』が旦那様だったなんて)
夫であるアクシオとヴィルエの関係は冷え込んでいる。婚姻を結んだものの、彼は新妻に興味がないらしく、ヴィルエに触れるどころか会話もなかった。顔を合わせることもほとんどなく、夫婦とは名ばかりの同じ屋敷に住むだけの者だ。
そのような関係といえ、立場上は夫婦だ。その夫がヴィルエの前にいる。召し物に赤い血を滴らせて。
(正体を知ってしまった私は……口封じで殺されるのかしら?)
ヴィルエがそう考えると同時に、アクシオの手が動いた。その手には刀が握られている。
彼女が賢くなければ、夫が暗殺者であると気づくことはなかったのだろう。
彼女が賢くなければ、襲われるまで死の恐怖を抱くことはなかったのだろう。
しかし、ヴィルエ・ニーナベルジュは悪妻である。
(簡単に殺されてやらないわよ)
刀の切っ先がこちらに向く。それでも悪妻の瞳にある光は消えていない。




