33 撲殺
その菊王丸の迷いは、久恵の声が憤激の叫びから恐慌の悲鳴に変わったのが耳に入ったとたんに吹っ切れた。それと同時に、女を二人がかりで殴りつけているこの薄汚い狼藉者らへの怒りが沸き上がった。
「この外道めが!」
久恵を襲っている男に後ろから斬りかかった菊王丸に、腕を抑えていた男が素早く槍を手にして立ち上がった。人を襲うに慣れたこの者らは、菊王丸の様子を眼に入れていたくらいの用心深さは持ち合わせていた。
右腕と左肩に深手を負って、馬に揺られてきた菊王丸だった。繰り出してきた槍の柄の一打を防ぎも避けもできずまともにくらい、後ろに突き倒された時には痛みよりもめまいに気が遠くなりかけた。しかも山から駆け下りて来ていた一人の男が、手に何かの武器らしいものを持ってもうそこまで来ているのが見えた。
絶望しかけた菊王丸の耳に、その走って来た新手の男がなにかわからぬ怒声をあげるのが聞こえた。
その男は全速力で駆けて来たその勢いのまま、驚いて振り向いた槍の男に手にした棒を振り抜いた。ブオン!とその棒の風を切る音が菊王丸の耳にまで聞こえた。頭を横殴りに殴られた槍の男がドンと倒木のように倒れたのを見て、菊王丸はこれは即死だと思った。
「なんじゃおまえは!」
棒の男はブンとそれを振り上げると、目を丸くしてそう叫んだもう一人の、久恵に挑んでいた男の脳天に、薪割りでもするように力いっぱい振り落とした。
ゆらり、と、わざとかと思うほどゆっくりと、後ろにその男が倒れた。
たった今二人の人間を殴り殺したその新手の男は、ぜいぜいと息を切らせながら、がらんとその棒を手から落とした。熊笹が生い茂る斜面を駆け下りてきたため、手や顔、首にまで笹の葉でできた細かい切り傷がいっぱいだった。
男は久恵の前に膝をついて、鼻や唇から血を垂らし、打ち腫れたその顔に痛ましげにふれた。
「ああ、なんてこと……。久恵さん、怖い眼におあいなすって……」
戦場を馬で疾駆し、その混乱の中から一人を見つけて救出するという技を見せたこの女武者が、この救援者の前にぽろぽろと涙をこぼしたのを、菊王丸は不思議なものを見る思いで見た。
「浩さん……どうしてここへ……」
それは陽動部隊の中で、筵旗を立てていた偽兵の一人として加わっていた浩之だった。
「政綱さんに頼まれたのです。久恵さんが、今川のお小姓の一人を助け出しに行ったが心配だと。馬で来たのですが、この上であなたの叫び声が聞こえました。運よく夏雲(久恵の白馬)がちらっと見えたので、乗っていた馬を置いて斜面を下りて来ました。ああ、夏雲が白い馬でよかったですよ、でなければ草木にまぎれて見つけられなかったでしょう」
ふらつきながら立ち上がると、菊王丸が言った。
「話を聞くに、お前たちは織田の者だな。私は織田の人間の世話にはならぬ。その馬を貸せ。味方の陣に付いたら放してやろう。賢い馬なら自分で帰ってくるだろう」
いいえ、いけません、と浩之がにべもなく突っぱねた。
「あなたの高価な目立つ身なりでは、すぐまた落ち武者狩りに逢います。そのお怪我では一人で行くのは無理でしょう」
ぐっと言葉に詰まった菊王丸に、
「それに、あなたに一度殴られずには義理が済まないと言って待っておられる人がいます。とりあえず、怪我の手当てをしましょう。その後で今川に帰るのなら、きっと安全に送り出す手配をしてもらえると思います」
しぶしぶ菊王丸が同意すると、またそこに半武装の騎馬武者が一騎やって来た。
「お久!無事だったか!何があった?」
美濃御前の腹心の侍女、麻江だった。奇襲の様子をうかがい、必要ならば清州城に早馬で伝令するように言いつけられていたが、少し離れたところでこれも久恵の争う声が聞こえたという。
急いで駈けつけようとしたが樹々に視界が遮られどこにいるかわからず、声を頼りに探していたところ、浩之が馬を捨てて斜面を駆け下りるのが見えてこちらにやって来たのだった。
「そなたは梁田の家の者か。なかなかの判断力じゃ」
浩之をそう褒めると、ふたつの死体にちらとだけ目をやって状況を把握した。
馬から降りて菊王丸の腕と久恵の顔の怪我をみてやっているうち、麻江はふと耳を澄ませるような顔をした。遠くから歓声のようなどよめきが聞こえて来た。
「どうやら義元公の首をあげたようじゃの。勝鬨が聞こえてきたわ」
目に涙を浮かべて唇を震わせる菊王丸に、久恵は気の毒そうにうつむいたが、麻江はそれに気づいたのかいないのか、
「駿河、遠江の守護、海道一の弓取りと言われたお方もこうなっては一個の首よ。はかないもの……。見よや、雑兵どもの亡骸じゃとて、あれ、あんなに」
そう言って、眼下の戦場の悲惨に悲し気に眉を寄せた。
「つわものどもの、夢のあと、とな」
そうつぶやいた麻江に、浩之もしんみりとつぶやき返した。
「本当に。夏草と言うには少し早いですが、夢のあとという気がしますね」
とたん、麻江が一瞬ぎょっとしたような顔をしてすばやく浩之の顔を盗み見たが、それに気づいた者は誰もいなかった。




