32 暴漢
「菊王丸どの、もうすぐじゃほどに、こらえてたもれ」
侵入していた今川館で親しくなった少年がいたと、政綱が話した。あの負けん気の強い小姓は織田の奇襲の前に、死ぬまで戦うだろうと。
「兄さまが死なせたくないというそのお方、なんでむざむざ死なせましょう。久恵を信じてお待ちくだされ」
そう言って、その救出のために馬をあおって来た久恵だった。
桔梗色の小袖の、一番美しい小姓はおそらく義元公の床几まわり、陣幕のあたりにいるだろうと聞かされて来た久恵には、その少年はすぐにわかった。その不屈の戦ぶりに、おもわず賞賛の声が出た。さすがは兄が惜しんだお方と。
そして今、馬の前輪にその菊王丸をのせて太子ヵ根に陣を張った織田の陽動部隊へと急いでいる。ほんのひと駈けの近距離だ。が、助けられたのが今川の兵でないようだと気づいて、馬から降ろせだの降りるだのと言っていた菊王丸が、静かになってしまったのが気になっている。
部隊には、これから出てくる負傷者のために待機している陣医がいる。そこで手当てをと思っていたが、白い唇をしてぐったりしている菊王丸の様子に、久恵はいったん馬を停めて血止めだけでもここで処置しようと決めた。
手を貸して馬から降ろし、雨上がりの濡れた草の上に座らせて左肩と、右の肘のあたりを裂いた布できつく縛り、さてもう一度馬に、と立ち上がった時だった。
突然、ぎょっとするほどの近くに人の気配を感じ、久恵ははっとして後ろを振り返った。と、がさがさと笹をわけて、そこに隠れていたらしい野良着の男がひとり姿を見せた。
年若い武者と、良さげな馬と、豪華な衣装をつけた怪我人がいるのを確認したその男は、おい!と後ろに声をかけた。見るとその手には竹槍を持っている。呼ばれて現れたもう一人の男の手にも、いかにも粗末で安物の、しかし殺傷するにはまだまだ役に立ちそうな錆びた槍が握られていた。
戦いがあったとみると、その落としていった武具や防具を拾いにくるのは近隣の者の習いだ。そして怪我人、落ち武者などもその持ち物を目当てに狙われる。
「退がりゃ。そなたらなどには用はない」
精一杯の威圧を見せてそう言った久恵の声に、女だ、こりゃ女だぞ、とその二人はかえって勢いづいた。
久恵は腰に小太刀を佩いてはいるし、やりあったところで負ける気はしなかったが、普段は鋤鍬を手に働く善良な者だろうと思われて刀を抜くのを躊躇した。それが久恵のひとつめの間違いだった。
この二人は野良仕事もするにはするが、土を相手の地道な仕事よりは、人を襲って身ぐるみ剥いで売り飛ばす手軽でおいしい仕事のほうがずっと好きな、善良というには横着な者たちだった。
ふたつめの間違いは、この者らは人を相手に槍を振るうことにかけては、久恵などよりはずっと多くの経験を経てきていたということだ。
その二人が向けてきた竹槍と錆びた朱槍は、作法も流儀も型もなく、これまで武士らに焼かれ奪われしてきた腹いせの殺意を持って、久恵の思いもかけない動きをした。
自分でもあれ?と思うほどあっけなく手にした小太刀を打ち落とされ、突き倒された時に久恵が案じたのは、自分で防ぐこともならないほど消耗している菊王丸のことだった。
しかし男が着物の前をはだけたのを眼にしてはじめて久恵は、自分の身の上に起こりかけている災いのためにぞっとした。
戦火のどさくさに襲われて慰み者にされたり、父のわからぬ子を孕んだりという女の話は数多く聞いていたが、それが自分の身の上に、今日のこの日に起こるとは思ってもいなかった。挑んで来た男を思い切り蹴り上げてやると、激昂したこの男に拳で顔を殴られた。唇と鼻から血が出て、火花が散ったような痛みに涙が出た。
下郎が!と叫んでその男の首を締めあげてやったあたりまでは久恵にも闘志があったが、そこでもう一人の男に横から思い切り脇腹を蹴られ、両腕を上に抑えられた時には怒りよりももう恐怖の方が勝ってしまった。
「早う、早うやれや!」
久恵の腕を抑えた髭の男が、前を開けた男をせかした。
この様子に、草の上の菊王丸はさっきから迷っていた。手を伸ばし、久恵が落とした小太刀を拾ってはいた。が、その視界にもう一人、村人らしい男が山を駈け下りて来るのが見えていた。
女を襲っている一人を刺してしまえば、もう一人を追い払うことはできるだろうと思ったが、自分の負っているこの怪我とこの女では、新手の一人に加わられてはそれも難しくなるだろう。どうする。馬を奪って一人だけ逃げるか。この女はたしかに危機から菊王丸を救ってくれはしたが、頼んでもいないし迷惑でもあった。今川の、味方の兵でもないらしい。助けてやらねばならぬ義理もないだろう。しかしそれでは……。




