26 三河の松平
「元康殿、今日は瀬名は大事なお話がございます。妻として、どうしてもお諫め申さなければなりませぬ。松平家の一大事になりかねぬお話でございます」
もう打掛でも隠しようもないほど大きくなった腹の瀬名姫は、居住まいを正してそう切り出した。
ここは駿府の、関口屋敷の敷地内に建てた別邸で、元康がまだ竹千代と言っていた人質時代から住んでいた建物だった。瀬名姫が嫁いできてから増築し、また昨年の初産を機に産屋が建て増しされた、木の香もまだ香る一部屋だった。
元康は微笑んで、この世の中にそんな大事があるものかというような鷹揚さで座り、このふたつ年上の、彼には不釣り合いに高い家柄から嫁入ってきた妻に向かい合った。
瀬名姫は、ついさっき耳にした噂だと言って話した。
松平家の悲願は、故郷三河の岡崎城に元康を城主として帰還することである。松平党は岡崎城の返還と当主元康の帰国を何度も今川に請願し、許されず、そのたび不満を高めている。戦はそつなく使命を果たしてくるが、いつも大事な家臣は出し惜しみ、今川の上洛のための必死の忠誠が見られない。こうした態度が義元と尼御台の目には身勝手で信用ならないものに写っている。
「元康殿、岡崎ヘ帰るなどというお考えをもしお持ちでしたら、どうぞそれは今を限りにお捨てくださいませ。お屋形さまや尼御台さまにご不信を抱かれてしまっては、無事ではいられませぬ」
目に本物の恐れを浮かべ、つい最近も、と、尾張の山口なにがしの話をした。織田から寝返って鳴海城を足場に尾張の要衝大高城、沓掛城を攻め落としてきたその山口は義元に呼び出され、褒美を期待していたところが有無を言わさず息子ともども切腹させられたという。
「お屋形さまは、戦や武力でなく、同盟や目録(法制度)で世を治めることを理想とし、現わそうとしているお方でございます。人と人、国と国、そうしたものが決まりごと、約束ごとに従うことで世は治まるのだと、そうでなくてはならぬのだと、この瀬名もお屋形さまがそうおっしゃるのを何度も聞いております。それゆえに、信頼ということをとても大切にお考えでございます。信用ならぬ者を、とても憎んでございます」
元康は、その通り、そなたこそよく理解が届いておるな、という顔をして頷いた。
「次の戦は、おそらく松平に過酷なものとなりましょう。お屋形さまが、松平を試してご覧になるのです。この上は、お屋形さまや尼御台さまのお疑いが解けますよう、家臣どもの命を惜しまぬ決死の覚悟の戦ぶりをお見せくださいませ。さすれば早晩、いずれかの城を預けられるようにもなりましょう」
元康はうむうむと頷きながら聞き、聞き終えて瀬名を労わった。
「ようわかっておる、そなたが心配することでない。気遣いはありがたく思うが、そなたは健よかに身ふたつになることだけを心しておれば良いのじゃ」
その元康の温かい口ぶりに意図が通じた手ごたえを感じ、瀬名は元康がこれまで見たことのない晴れ晴れとした、かわいらしい顔でにこりと笑った。
はからずもこの夫婦は、この日初めて心を通じあわせたと互いに感じたのだった。松平家の無事と存続を思う瀬名の切迫した、一途な訴えが元康の胸を打ったのだった。
だがそれだけであった。
松平に数代続いた忠臣たちのこれまでの辛苦と宿願は元康自身のものであり、今川の血が瀬名に抗いがたく流れているように、松平の血もまた元康に流れていた。
これまでも、危険で犠牲の大きな戦にばかり駆り出されてきた松平党であった。試すだと?そんなことで、大事な家臣を殺して見せろと?こうして松平の身を削ぎ落とし続けろと?おっとりと見せている様子からはうかがい知れない怒りと反骨が、元康の腹の中で煙を上げて燃え上っていた。
瀬名が思うに、今川の上洛は大事だ。しかし松平の嫡男を生み、いままたもう一人を腹にしているからには、松平家もいまや大事であった。松平は、今川の統括のもと手柄を立てて隆盛すれば良かろうが。
この権門の若い妻には、元康が独立を熱望するその気骨や、我が領土への思い入れが理解の他だった。
「しかしそれほど瀬名を心配させたその悪い噂とやら、耳に入れたのはどこの何者じゃ。叱ってやらねばならぬな」
わざと冗談めかしていう元康に、瀬名も微笑んでこたえた。
「按摩師の玄深でございます。一度お使いになってごらんなさいませ。そうそう、あれも元康殿を贔屓に持ちたいと、わらわに橋渡しを頼むなどと言うてこんなものを」
手元にあった文箱を開けて、手のひらに乗るくらいの小さなものを取り出した。
「紙細工でございますが、珍しゅうございましょう?こうして放ると、風に乗って飛ぶのです」
*********************************
その何日か後、元康は人気の按摩師の玄深をはじめて部屋に呼んだ。
なぜかその日、太刀持ちや傍まわりの小姓はみな暇を出され、人質時代からの近侍であり、元康に最も信頼されている石川数正だけがその部屋の敷居際に厳しく座り、近づく者のないよう目を配っていた。




