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本能寺に開く扉は炎を上げて  作者: 瀬緒 遊
第二部:尾張から駿河へ
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24 石

「五郎どの、石を持って行ってよいかな?」



 玄深がやって来てそう尋ねると、厨で大根をむいていた男が、ああ、いいよ!と言いながら前掛けで手を拭きながら立ってくれた。



 釜土にゆくとその下の灰の中を灰かきで探って、厚くたたんだ布巾で灰の中に埋めてあったものを拾って持ってきた。


「はいよ、ちょうどよく温まってるわ」



 玄深は礼を言って受け取って、これも厚手の布を重ねて作った袋に入れた。



 温めていたのは、玄深が今川館の広い庭のあちこちを探して拾ってきた石。ちょうどよい大きさでなめらかな肌の、餅のようなぽってりとした丸い形の石ばかり大小みっつだ。これをきれいに洗って磨き、釜土の灰の中で温めて温石にしたものを、痛む腰に悩む尼御台に使おうというのだった。



 氏真、義元のみならずほとんどの重臣と、その奥の誰彼からも重宝に使われだした按摩師の玄深を、なかなか側に寄せなかったのが尼御台だった。



 聞けば美濃の成り上がり者の斎藤ゆかりの、牧童あがりの者。しかも獣の乳から作る油など。



 そう言って一考もしなかった尼御台だが、年齢のせいか、石畳が凍って滑りやすくなっていたものか、毎朝日課にしている庭での散歩で転んで腰を痛めてしまった。


 立ち上がるどころか寝返りも打てないほどの痛みに、今川家抱えの医師が鍼も灸もと試したがはかばかしくなく、案じた義元に強く勧められて尼御台はしぶしぶこの若い按摩師を居間に通したのだった。



 一度の按摩できれいに痛みが取れるなどと言うことはもちろん起こらなかったが、温かな油を使った玄深の丁寧な揉み療治は、尼御台の枯れ木のような手の指から二の腕、脇までさすり上げ、背中をほぐし、足の指から膝までを揉み上げ、その心地よさにさすがの尼御台も眠りに落ち、療治が終わったことにも気づかなかった。



 あれこれと心労が多く、腰の痛みもあり、このところよく眠れていなかった尼御台が、二時(四時間)ほど夢も見ずにぐっすりと熟睡し、目が覚めた時はじつに久しぶりに疲れが軽くなっていた。体はぽかぽかと温かく軽やかで、肌もしっとりとなめらかなことを認めると、この頑固な年寄りは苦笑して、数日の後でまた来るようにと玄深に命じたのだった。



「熱すぎたらそう仰せくださいませ」


 その日、玄深はそう言って、腹ばいにうつ伏せている尼御台の肩甲骨の間あたりと、両の足裏にそっと温石を乗せた。



 尼御台はこの按摩師に手指を揉ませながら、背中と両足からじんわりとあたたかさが伝わってくる心地よさに、思わず上等な茶を飲んだ時のような満足のため息をついた。両足に一つずつ乗せられた石はほとんど同じ大きさ同じ重さで、背中の石もいかにも座りよく、あつらえたように適度な重さだった。



 どれだけ捜し歩けばこのような適当な石がみつけられるだろうか。自分の冷えた足のことを思いながら、この若い男は庭中をどれほど歩き回ったのだろう。そう思うと、足や背だけでなく胸の中まで温かくなりそうな尼御台だった。



 しかし尼御台は、これだけのことで素性の知れない者を信用するようになるほど、油断のある統率者ではなかった。



 玄深の身元や生活態度などはすでに義元が調査済みではあったが、尼御台はこの日の施術が終わると自分の信頼している者たちをよびつけ、この按摩師の身辺の詳細な検分を命じた。



 間者は隠し文に米粒のような細かい字を書くものだが、それに使う楊枝一本見逃さぬというこれらの者が、ひそかに玄深の部屋を徹底的に探し、その素行を監視観察した。



 その結果、この若者は今川館での贔屓を失いたくないと見えて、しごく律儀な生活態度を守っていることが確認された。美濃の牛飼いに、家は出たがそこで作る油を定期的に仕入れに戻る次男坊がいることも本当だった。



 誰ともそつなく交わっているが、特に親しくしているのは先輩株の医師や鍼医、菜園の世話の助言などしているらしい庭師、そして義元の小姓の菊王丸と、これも不審はなにも見られなかった。



 そして忍びの者なら直ちに伝達するに違いない性質の情報を故意に漏らして見せた時も、それを発信しようとする気配のかけらも見られず、館の敷地から外へ出ることも、見慣れぬ何者かと口をきくことも、壁外に矢文ところか石ころひとつ投じもしなかった。



 それに何より、玄深には右の親指が欠損している。そのような隠しにくい身体特徴を持つ者は間者には使えない。弓矢どころか手に握る類の武器はほとんどすべて使えないだろうから、細作、乱破などの訓練を受けた者とも考えにくい。



 そうした報告が届けられた尼御台は、我ながら柄にもなく、と思いながらもほっと安堵のため息をついた。



 こうして玄深は着実に今川家の首脳らの信頼を得、その中にしっかりと食い込んでいった。

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