γ9
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寝起きで鼻水のことばかり考えるなんて呑気なもんだ。
だがこの感じたことの無い心地よさがそうさせたのは後に分かった。
鼻水を捉えた視界の奥で不規則な煌めきが感じ取れた。
地面を這いながら近寄って手に取った。
凝視すると見覚えのある物だった。
覗けば視界が凝縮され、ぼやけた物がその姿を鮮明に写す。
つまり眼鏡だ。
見知ってはいたが間近で見るのは初めてだった。
どうして眼鏡があるのかなど考えるまでもなく眼鏡が写し出す世界に引き込まれていった。
(これは……)
散々利用してきた鼻水は床に置き去りにする。
眼鏡との対面で感動していたが、しばらくは正しい使用方法で活用しなかった。
耳かけになる柄を両手で持ちっぱなしであちこち覗いてはひっきりなしに驚いた。
時には木漏れ日のような光を覗いたり、時には自分で伸ばした鼻水をいぶかしげに覗いて笑ったり。
他にも前後に動かしては大小する世界や眼鏡の作る影を不思議そうに覗いたりと枚挙にいとまなく眼鏡を楽しんだ。
そこまでしてやっと眼鏡を掛けてみることにした。
(おぉ……)
そう思うと声なき声を上げた。
近寄らなくてもよく見える。
何でもないことだと思われるかもしれない。
この瞬間の喜びは伝わらないだろう。
今意識して世界を覗けることがどれ程素晴らしいことか。
おれは無意識に立ち上がっていた。
生活するなか目が悪いことで不自由なことは少しだった。
身の回りの物のぼやけ方は分かってたし、親父も色合いがいつも同じだからすぐに分かった。
目の代わりに耳や鼻が利くからみえていたと言ってもいい。
特殊な能力がある訳じゃない。
目が悪いから自然と身に付いた状況把握の能力で普通だ。
だから小さな段差で躓いたり雑踏の中で突然蹴られたりするのは普通に避けられない。
この視界に入る情報は目に優しい。
薄暗いからもあるがトラックの荷台位の広さで見える情報が少ない。
寝ていたマットは風邪の時の鼻水を薄めたような色をしている。
枕も薄汚れているが白いのだろう。毛布は濡れた砂漠のような色だ。
どれも地元のものよりいい物だと分かる。分厚いのだ。
だからか、こんなにも清々しい寝起きなのは。
臭くても埃っぽくても頭の片隅で処理できるように頭もスッキリしている。
眼鏡が置かれていたのは台というか木箱のようだ。
木箱は蓋が半分木で打ち付けられていてその半分に眼鏡が置かれていたようだ。
箱の中にはぐるぐる巻きにされたロープのような物とぐるぐる巻きにされた物があった。
余程ぐるぐる巻きにしたかったのだろう。ぐるぐる巻きの物は大小5点あった。
普段使いでこんなに巻くのは面倒だろうから普段使いの物ではなさそうだ。
辺りを見渡しても他に目ぼしい物はない。
ドアを探すことにした。
光が漏れていない長方形がある。よくみるとデザインが違う取っ手があった。
皮肉なことにドアが一番頑丈だったらしい。
ドアがあるのは分かるけど壁の方が弱いなんて考えられない。
ニャポン人は常識が通用しないかもしれない。
そう不安に思うと延びかけた鼻水を踏んだ足を素早く左右に擦り付けた。




