第六十六話 『準々決勝』
「暁っち、相手は初っ端から揺さぶってくる気配はないけど気をつけてね」
「了解です響先輩。何かあったら伝令してください」
東洋大姫路のベンチを覗き込んでいた響が声をかけると、暁は気負った様子もなく返す。
「いや伝令を出すのは俺なんだが」
監督は苦笑しているが、星海学園において最終決定者であり責任者は彼ではあってもその過程で広く意見を求めるタイプであり、偉ぶることはない。
今も選手たちの緊張を緩和するために道化のような態度を取っている。
とはいえ、緊張というものとあまり縁のないバッテリーもいるのだが。
「暁、今日の目標はどうする?」
「そうだなあ、初戦はあまり入り込めずに3ヒットも打たれちゃったし、今日は5本までに抑えたいかな」
なかなかに言っていることが異常である。
その年の甲子園No.1投手でも、イニング数より被安打数が下回るかどうかは安定しないことが多い中、暁はその半分を目標にしている。
しかも暁が投げる相手というのは常に強敵、甲子園で言うならばベスト16以上は狙えるような打線になっている。
近年は低反発バットの導入でピッチャー有利になっているとはいえ、暁の場合は常に結果を出せるということが一番おかしいのかもしれない。
そうはいっても、ノーヒットノーランやパーフェクトゲームというものは基本的に打たせて取るピッチングのために達成したことがまだないというのは人間味か。
「珍しいな、お前がヒット数を気にするなんて」
「んー、まあ最終的に勝てればそれでいいんだけどな。ま、おまけに狙う感じで」
しかし、このあたりの精神性はやはり普通の枠ではない。
通常の投手というのはもっと自分の成績を気にするものだ。
だが暁は勝敗が一番でそれに直結する失点こそ気にするが、その失点に結びつかないなら打たれても別段問題視しない。
散発であれば問題ないと見るのは非三振型のピッチャーには見られる精神構造であるが、暁の場合はそれとも少々毛色が異なる。
「本番で完投は初めてだし、たまには遊んでみるよ」
そう、抑えるためにヒット数を気にしていたのではない。
普通にやっていればクリアできるゲームの最高スコアをついでに狙ってみる、くらいの気安い精神状態。それを甲子園の準々決勝に至っても保持していた。
絶対に勝たなければいけないというプレッシャーから解放された暁は勝利への執念こそ鈍ったが、余裕から来る力の配分はうまくなっていた。
暁は気楽な表情でマウンドに向かい、力を抜いて軽く深呼吸してからくるっと指先でボールを回して、握り直す。
白球を握ったままミットと重ね合わせ目の前で祈るように掲げ、そのまま目を閉じる。
雑音が徐々に遠ざかり、とぷんと水の中に潜っていく感覚。
水底に向かっていくのと同時に心が冷えていく。
体の熱が奪われ、氷晶がピキピキと体の周囲に出来ていくイメージ。
薄目を開けて怜の構えるミットを見てうっすらと笑う。
熱は指先と心の奥底に集めて、指先の感覚がじんじんと強くなっていく。
投球練習。
数度投げて、ふと思いついたように秋から導入予定の新球種を投げ込む。
怜が驚いたように取り損なって、勝手なことをするなとちょっと強い勢いで投げ返される。
それに、片手で悪いと示して、でもこの試合何回か使ってみないかとジェスチャーで。
呆れたように、怜が「俺の指示には従えよ」と苦笑するのが見える。
「さて、じゃあ全員狂わせて俺たちのために負けてもらおうか」
そうにこやかに、邪気もなく暁は再びくるっと白球を指で回して握り、舌で唇を濡らした。
『打てない、打てない! 東洋大姫路高校、この回も快音を響かせられません!
暁選手、6回までをノーヒットノーランです!』
『これがまだ2年生というのが末恐ろしいですね。
5回にエラーが1つ出たのが残念なところですが、逆にそれで守備も柔らかくなった印象を受けます』
『一方で東洋大姫路は2点差のままエースを続投させ6回の裏に移ります。
星海学園のバッテリーを連続で抑えていきます』
『この選手も148km/hのストレートにキレのいい変化球を持ついいピッチャーです。
ここまでよく2点に押しとどめていると言っていいでしょう。
しかし根付選手の4打席目、彼は自分一人だけで50球以上投げさせています。もうさすがに球数が限界になってきているでしょう』
『ですが意地を見せます! 根付選手に粘られ四球で出られてなお、続くバッターは三振に取り6回を終わらせました!』
『おっと、7回表のマウンドに上がるのは田代選手ではありません!
暁選手、今までのローテーションを崩しての続投です。東洋大姫路のベンチから動揺が伝わってくるようです』
『ここで引っ張ってきますか。スタミナ不安が囁かれている選手だけにこの采配がどう転ぶか注目ですよ』
(どよめいているな、暁の続投で計算が狂ったってとこだろう。
この回は2番から中核につながる打線、だがすでに4番と5番は『壊れて』いる。
当てるのが精いっぱいってところか。
なら、絶望感をさらに与えるほうがいいな。最後のクリーンナップも『壊して』おこう)
怜は冷徹に、相手打者のひいてはベンチの心を折る作戦を立てる。
(そろそろ投げさせるか、新球も)
すっと、ミット位置を調整し、錐もみ回転しながらアウトコース高めに真っ直ぐと飛んでいく。
そして、選球眼のいいバッターはこれをしっかりと見る。
(ジャイロ回転――元祖決め球の落ち球だ! 球種さえ分かってしまえば)
スイングが始動する。球の遥か下を通る、落ちてくる球を掬い上げて高く打ち上げるための動き。多少アウトコースに外れていようと構わない。
球種が分からないよりは、回転を見極められる方がまだ打てる方が可能性はあると。
そして、ライフル回転していた白球は《《クッとわずかに浮き上がり》》、《《ギュイインと急速に横滑りしていく》》。
(――は?)
バッターの頭が漂白される。
予想したのは真下への動き。なのに実際に起こったのは、内角に大きく抉っていく横への大きめの変化。
ジャイロ回転、それは正しい。
暁が中学から決め球として使ってきたその球にもその回転の名は冠されている。
ジャイロスライダー、しかも純粋縦落ちのプロトップクラス。かつては必殺球として位置づけ、強力さゆえに過信にまで行ってしまった球。
そして、暁が秋から本格導入しようとしていたこの球もまたジャイロの名を冠する。
その名もジャイロカッター。ジャイロ回転で途中まで揚力を損なわず浮き上がるような錯覚を生みながら、打者の手前で急激に横に大きく曲がる球種。
曲がりはスイーパーほどとはいかないが、25㎝という十分以上に大きなもの。しかもこの軌道は途中までストレートと完全に重なり、軌道で見分けるのは難しい。
バスッと、ミットにおさまる音を立てて白球はバッターの思考を初球で真っ白にカットした。
(馬鹿め、分かってたんだよ、暁は。
回転を見極められる目の持ち主にはジャイロスライダーが特定できるのは。
だからこそ、同じジャイロ回転で違う変化を求めた。回転を見極めても特定できないように。
まあ、開発の主目的はそっちじゃなかったけどな)
怜は不満そうな顔をして首をわずかに傾げている暁にボールを投げ返す。
(制球は悪くなかったからわずかに速度がブレたのか? 『微差緩急システム』には速度が肝だからな。
常に5~7km/hの微差を押し付け続けるこのシステムで、速度が安定しないのは基盤をぶち壊しかねない。
やっぱり本格導入はもう少し先にすべきだな)
人間が判別しにくい微差を押し付け続けることで速度感覚の過敏状態を引き起こし、バッターのスイング幅の調整能力を攻撃する『微差緩急システム』において、今のジャイロカッターは初球以外には用いにくい。
だが、完成すればこの球種はカウントを整えるのにも凡打誘発にも空振り誘発にも使える、万能球になりうる。
(間に合わなかったのは痛いが、今の暁でもノーノーは可能。
まずは普通に、打ち取らせてもらおうか)
回転という球種判別の見極め方法は、優れた目を持つバッターであればたどり着ける。
だが、暁としては速度で判別しようとしてほしい。なので、回転が分かってもそれだけでは球種が絞り切れないようにした。
これにより、速度での判別に依存度は傾く。傾けばそれだけ速度感覚は過敏になりやすくなる。
スイングを狂わせる『微差緩急システム』を破綻させないための方法。
暁や怜は、弱点を見つけるととりあえず潰しておこうとするタイプなのであった。
(2番は思考力が戻る前に打ち取った。
次は3番か。クリーンナップが全員スイングが千々に乱れてなお逆転の夢を追えるかな?)
単に封じ込めるというだけならば、3番の打撃まで破壊しておく意味は薄い。中核打線の内2人が機能不全に陥っていれば、その時点で十分打線は寸断されており、つながりを破壊するという面で見ればむしろ1番あたりを壊していく方が点数期待値は下がるだろう。
だが、怜は精神への攻撃を優先した。
最も自信のあるクリーンナップがそろいもそろって常のスイングを見失い無様に凡退と三振を繰り返す、その光景の方が戦意を挫くと見たのである。
暁は怜からのサインを見て頷き、己の最遅の球を投げる準備をする。
(2球型急加速ストレートか。そろそろこのシークエンスにも気づくやつが出てきそうだな。
まあ、出たからってそう打てるものじゃないが)
最遅のキックチェンジの直後に最速のストレートを投げるこのシークエンスは速度差にして+20km/h近くに及ぶ速度差。
しかもそれが同一トンネルから50cmも視界から消える落ちのあとに、ホップする錯覚を生むストレートを放つわけだ。
球種が分かっていてもこの軌道の幻影は振り払うことが難しい。そして人は分かっていても緩急に引っ張られる。
しかしそれでも、甲子園で優勝を目指すチームの中軸ならば。
ガギッと、鈍い音を立てて大きく背後に上がった球を怜は見送る。
(分かるならそのほうがまし、か。このチームはそういう球を打ってくる傾向にあるな。
でも、分かるのとできるのは違うんだよ)
冷たく、指先が震えて肩がこわばっている3番を見やり、マウンド上の暁に審判からもらった新しい白球を放る。
(もうこいつの打撃は壊れた。どうせなら、どんなにひどくなったかお披露目しておこうか)
この怜の思考は舐めているのではない。
どれだけ無様に三振を中軸メンバーが繰り返すのかを視覚的に見せることがどれだけの精神的ショックを相手に与えるかを冷徹に考えているのである。
(連続でど真ん中ストレート、頼むぞ)
心を折りきる。
どうやっても復活できないように、この投手からは自分の打線の最も強い奴らでも点数を奪えないと心底まで刷り込む。
その怜の思惑は時間をおかずに形となった。
『4-0! 星海学園、4点差で勝ち切りました!
しかも2エラーがありましたが暁選手、初完投でノーヒットノーランを達成です!』
『これは強い。球速が足りないと言われていましたが、支配力は球速だけではないと鮮やかに示しました。
これで今年の甲子園でノーノーを達成したのは赤沢選手も含め2人目となりました。
この2カードが対決する準決勝が楽しみですね』
すでに暁のことをフロックだと思うものはどこにもいなかった。
だがそれでも、今年のNo.1投手として呼び声の高い赤沢と並ぶほどとは、甲子園の前に想像したものはほとんどいなかっただろう。
だが対戦相手のレベルまで勘案した成績でいえば、暁の打たれなさはその赤沢にすら勝るものである。
王道剛腕3年VS欺瞞特化2年、投手の格付けを決める戦いがすぐそこに迫っていた。




