第35話 最後の夜に、命令ではなく願う
怜司がエルネリアの完璧な導きから意図的に指をずらし、ザフィラたちの不揃いな拍に合わせた瞬間。
二つの全く異なる魔力のテンポが激しく衝突し、大聖堂の尖塔を覆っていた魔力嵐が一時的に霧散した。
『……愚かな。自ら完璧な奏座から降りるとはな』
成人した女王姿のエルネリアが、忌々しげに紫の瞳を細める。
大聖炉から吸い上げた膨大な魔力を、第一封印曲《還天掌》の最終楽章へ馴染ませるには、なお少し時間が要る。怜司が協力を拒んだ以上、彼女は自らの力だけで魔力の流れを整えるしかない。
『夜明けと共に、王都の魔力はすべて世界へ還る。……それまでの間、せいぜいその劣った伴奏どもと最後の別れでも済ませておくがよい』
エルネリアはそう冷たく言い捨てると、尖塔の最上部で青白い魔力の繭を展開し、外界からの干渉を完全に遮断する待機状態へと移行した。
一時停戦。
怜司たちは尖塔から一段下った、巨大な青銅の鐘が吊るされた鐘楼の内部へと退避した。
冷たい石の床に座り込むと、それまでアドレナリンで麻痺していた全身の疲労と痛みが、一気に押し寄せてきた。
「……久瀬さん、手を出してください」
ノエラが膝をつき、怜司の両手をそっと引き寄せた。
彼女の気怠げな瞳が、痛ましげに細められる。怜司の十指は、限界を超えた速度で手印を連続入力し続けた結果、関節が赤く腫れ上がり、皮膚が裂けて血が滲んでいた。
ノエラはポーチから清潔な包帯を取り出し、怜司の指に丁寧に関節を固定するように巻きつけていく。
「次の合奏で、もし第一曲の対象を『全人類』から逸らすのだとしたら……」
包帯を巻きながら、ノエラが静かに、だが震える声で口を開いた。
「第一曲が一つに束ねた標的を、私の歌で一人ずつ分けていくことになります。……たぶん、私の喉は、その負荷に耐えきれず壊れてしまうと思います」
それは、彼女の『歌唱装置』としての機能が永遠に失われることを意味していた。聖女にとっての命とも言える声を失うリスク。
だが、ノエラは顔を上げ、眠そうだった瞳に強い意志の光を宿して怜司を見た。
「それでも、私は歌います。……教会の命令だからでも、誰かのための機能だからでもなく。私が、久瀬さんの隣で歌いたいからです」
もう、自虐の言葉はなかった。彼女は一人の少女として、自分がどうしたいのかを明確に選んだのだ。
「……わかった」
怜司は、分厚く包帯を巻かれた両手で軽く拳を握り、指の可動域を確かめた。
「痛むのは指の表面だけだ。入力に支障はない。……お前の声が途切れる前に、俺が必ずこのクソゲーを打ち切ってやる。だから、思い切り歌え」
怜司の言葉に、ノエラはふわりと、心底嬉しそうな花が咲くような笑みを浮かべた。
ノエラが離れた後、カシャッ、と軋むような駆動音を立てて、セナが歩み寄ってきた。
彼女の純白の装甲はあちこちが焼け焦げ、左肩のパーツはひしゃげて内部の回路が露出している。
「マスター。現状の被害状況を報告します」
セナは無表情のまま、怜司の前に直立した。
「私の装甲耐久値は、残り十二パーセントです。次期戦闘において、大盾の展開限界を超え、機体が完全破壊される確率が八十七パーセントと算出されました」
「セナ……」
「したがって、マスターには事前に私の記憶核の回収手順を説明します。機体が大破した場合、胸部の第三装甲を外し、内部の保護筒を――」
「却下だ」
怜司はセナの言葉を、強い口調で遮った。
「マスター。これは極めて合理的な安全策であり……」
「回収なんてしない。俺は、お前が壊れることを前提にした作戦なんか組まない」
怜司は立ち上がり、ボロボロになったセナの冷たい頬に、包帯を巻いた手をそっと当てた。
「俺が終わらせるまで、俺を守れ。……でも、これはマスターとしての最上位命令じゃない。俺からの『願い』だ」
「……ねがい、ですか」
「そうだ。壊れずに、俺たちと一緒に帰ってこい。頼むぞ、セナ」
怜司の真っ直ぐな言葉に、セナの青い瞳が、処理しきれない熱を逃がすように明滅を繰り返した。
彼女の論理回路は、『命令ではない願い』をどう受け取ればいいのか迷っていた。合理性や計算では導き出せない、矛盾に満ちた感情の揺らぎ。セナは胸の奥の記憶核が、機関の熱とは違う理由で温かくなるのを感じていた。
「……非論理的な要求ですが。……了承、しました」
セナがわずかに首を傾げて頷いたのを見て、怜司は微笑んだ。
「お前、まさか負けて死ぬつもりじゃないだろうな」
背中側の石柱に寄りかかっていたザフィラが、戦弦槍の弦の張りを確かめながら声をかけてきた。
彼女の褐色肌には無数の切り傷があり、スリットドレスも破れて痛々しい。だが、彼女の黄金色の瞳は、まだ全く闘志を失っていなかった。
「あの戦奏試合での約束……次の未知の譜面を、一番最初に私と合わせるという権利。あの約束を反故にしたら、地獄の底まで追いかけて殺すぞ」
乱暴な言葉。だが、怜司にはわかっていた。
彼女はただ勝敗に執着しているだけではない。『またお前と競い合いながら、音を重ねたい』という、相棒への明確な好意が、その言葉の裏には隠されている。
「当たり前だ」
怜司は歩み寄り、痛む指でザフィラの額を軽く小突いた。
「俺が途中でゲームを投げ出すわけないだろ。次の新曲も、俺がお前を最高の伴奏にしてやるよ。だからせいぜい、次のステージまでに腕を磨いておくんだな、一番槍」
「誰が伴奏だ! 次こそ私が完全に主導権を握ってやる!」
ザフィラが額を押さえて牙を剥く。二人の間には、そうやって軽口で叩き合えるだけの、絶対的な信頼が完成していた。
東の空が、ほんのわずかに白み始めていた。
怜司は仲間たちを残し、一人で鐘楼の階段を数段上り、最上部で魔力の繭に包まれているエルネリアと対峙した。
『……まだ遅くはないぞ、怜司』
魔力の繭の中から、大人の姿の魔王が甘く囁きかける。
『その傷ついた伴奏たちと、その手では、もはやまともな手印は組めまい。わらわの導きに身を委ねよ。そうすれば、痛みもなく永遠に美しい曲の中をたゆたうことができる』
「断るって言ったはずだ」
怜司は階段に立ち、夜明けの風を受けながらエルネリアを見据えた。
「あんたの計画は、ここで終わらせる。王都の人間から魔力を奪わせたりはしない。……でもな」
怜司は、両手の指先を軽く曲げ伸ばしして感覚を確かめた。
「あんた自身を、第一曲ごと消し去りたいわけじゃない。あんたの作った原曲は、確かに危険だけど、よく出来た美しい譜面だったからな」
『……何が言いたい』
「あんたを消す以外の終わり方があるなら、最後までそっちを探す。それだけだ」
怜司の宣言に、エルネリアは鼻で笑った。だが、その大人の顔に浮かんだのは単なる怒りではなく、どこか期待と諦めが入り混じったような、ひどく複雑な表情だった。
雲の切れ間から、朝陽の最初の一筋が大聖堂の尖塔を射抜いた。
猶予は尽きた。最後の合奏の幕が、今、切って落とされた。




