第1話 魔力ゼロの荷物持ちが、大魔法をフルコンした
画面の奥からノーツが滝のように降る。全国でも数人しかクリア者のいない最高難度曲を、久瀬怜司の指が正確に叩き続けていた。
終盤、左手の薬指がほんのわずかに遅れる。リザルトは全国二位。背後では歓声が上がった。
「……遅かった。最後の交差、十六分一つ分」
二位も称賛もどうでもいい。正しい譜面を一か所だけ外した。それだけが気に入らない。
怜司はためらわず百円玉を入れ直した。
硬貨が落ちた瞬間、筐体が異常な光を放ち、足元の感覚が消えた。
*
鼻を突くのは、カビと湿った土の匂いだった。
背中に硬く冷たい石の感触を覚え、怜司はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、ゲームセンターの見慣れた天井ではなく、苔むした巨大な石造りのアーチだった。青白い光を放つ奇妙な石のランタンが、薄暗い空間を照らし出している。
「気がついたか、異邦人」
声に応じて視線を動かすと、見知らぬ男が立っていた。上質な白いローブを纏い、手には装飾の施された短い杖を持っている。年齢は怜司と同じか、少し下くらいだろうか。整った顔立ちには、明らかな侮蔑の色が浮かんでいた。
周囲を見渡せば、似たようなローブ姿の者や、革鎧を着込んだ武装した人間が十数人、拠点のような場所で荷物の整理をしている。
「ここは……?」
「古代遺跡の第一層、我々調査隊のベースキャンプだ。突如として空間が歪み、お前が落ちてきた。状況から見て、空間転移の巻き添えを食ったのだろう」
ローブの男は冷ややかな声で告げた。
「私の名前はレオン。レオン・グラード。王国魔術師団より、この遺跡調査の指揮を任されている」
空間転移。遺跡。魔術師団。
怜司は自身の服装を確認した。休日に着ていた薄手のジャケットとチノパンのままだ。ゲームセンターから、物理法則の異なる見知らぬ場所へ放り出されたらしい。
だが、怜司の心にパニックは起きなかった。状況を把握し、今自分が置かれている環境のルールを理解しようとする思考が先に立つ。
「それで、俺はどうなるんですか?」
「それを今から決める。手をこれに乗せろ」
レオンが顎でしゃくった先には、台座に置かれた透明な水晶球のようなものがあった。言われるがままに怜司が右手を乗せると、レオンは杖の先を水晶へ向け、何事か短く呟いた。
数秒の沈黙。水晶は一切の光を放たず、ただそこにあるだけだった。
レオンは鼻で笑い、ひどく落胆したように首を振った。
「予想はしていたが、ひどいものだ。体内魔力が完全に空っぽときた。火熾しの一つすらできない、正真正銘の役立たずだな」
「体内魔力……」
「我々魔術師の力の源泉だ。それがゼロということは、お前は我が国の法において何の価値も持たないということだ。戦闘の役には立たず、雑用魔法も使えない。だが、放り出して死なれても後味が悪い」
レオンは怜司の足元に、巨大な背負い袋を蹴り寄せた。
「命拾いしたな。我々の荷物持ちとして雇ってやる。せいぜい魔獣の餌にならないよう、私の後ろを歩くことだな」
周囲の調査隊員たちから、クスクスと嘲笑が漏れる。高魔力であることが人間の価値を決める社会において、魔力を持たない者は見下される対象でしかないらしい。
だが、怜司は背負い袋を拾い上げながら、特に怒りを感じていなかった。
彼らの態度はどうでもよかった。怜司の関心は、レオンが先ほど杖の先から放った小さな光――「魔法」というシステムそのものに向いていた。何らかの法則に基づいて現象を引き起こすのであれば、そこには必ず入力と出力の構造があるはずだ。
怜司は重い荷物を背負い直し、無言で調査隊の最後尾についた。
*
遺跡の奥へ向かう道中、レオンは事あるごとに自身の魔力を誇示していた。
暗い通路が現れれば、杖を一振りして空中に巨大な火球を生み出し、過剰なほどの明かりを灯す。少しでも不審な物音があれば、即座に石の壁を隆起させて防御陣を敷く。
「見たか、異邦人。これが体内魔力を用いた現代魔法だ。無詠唱にして即応。魔力量こそが絶対の力なのだ」
得意げに語るレオンの魔法を、怜司は静かに観察していた。
確かに発動は速い。だが、大雑把すぎる。照明用の火球は無駄に熱を放射して隊員たちの体力を奪っているし、防御用の石壁は通路の構造を無視して作られるため、歩きにくくて仕方がない。
魔力という燃料を、ただ力任せに燃やしているだけのように怜司には見えた。
やがて、調査隊は広大な最奥の間へ到達した。
ドーム状の巨大な空間。その最奥の壁面に、それは鎮座していた。
「なんだ、これは……」
隊員の一人が息を呑む。
壁一面を覆い尽くすほどの、巨大な神像。不気味なのは、その中心にある顔を持たない胴体から、文字通り「千本」近い無数の腕が放射状に伸びていることだった。
「ただの古代の装飾だろう。魔力的な反応はない。価値のないガラクタだ」
レオンは一瞥しただけで興味を失い、周囲の石碑の調査へ移るよう部下たちに指示を出した。
だが、怜司は荷物を下ろし、その神像の前に釘付けになっていた。
おかしい。装飾にしては不自然だ。
怜司の目が、千本の腕の配置を一つ一つ解析していく。
一番下の腕は、手のひらを開いて下を向いている。その隣の腕は、ほんの数ミリだけ指が内側に曲がっている。さらに隣の腕は、手首の角度が少しだけ上を向いている。
デタラメに腕が配置されているわけではない。
「……コマ送りだ」
怜司は無意識に呟いていた。
これは、一人の人間が腕を動かした『連続した動作』を、時間軸ごとに切り取って並べたものだ。右端から左端へ向かって視線を這わせると、それは一つの滑らかな動きとして脳内で再生される。
手の形。入力する順番。手首の向き。
間違いない。これは、この遺跡が残した『譜面』だ。
怜司の中で、ゲームセンターで最高難易度の楽曲を前にした時と同じ、静かな熱が沸き上がった。この難解な譜面が、自分に入力されるのを待っている。
怜司は神像の前に立ち、ゆっくりと両手を上げた。
視線を右下から左上へ走らせながら、最初の四手の動作を自身の腕でなぞる。
手のひらを開き、指を交差し、三秒維持し、手首を返す。
――その瞬間。
空間全体が、低く震えた。
青白い光の線が神像の指先から走り、床の幾何学模様を這うようにして空間全体へ広がっていく。沈黙していた壁面の巨大な遺跡灯が、鼓動を打つように一斉に点火した。
「な、何をした貴様!」
レオンが怒鳴り声を上げるが、遅かった。
神像の足元の石畳が爆発するように砕け散り、巨大な影が立ち上がる。
それは、周囲の崩れた石柱や瓦礫を強力な魔力で繋ぎ合わせて構成された、全高五メートルを超える守護魔獣だった。眼窩にあたる部分から、深紅の光が漏れ出ている。
魔獣が腕を振るうと、ただの風圧だけで調査隊の数人が吹き飛ばされた。
「馬鹿な……こんな高密度の魔力反応、さっきまでは無かったぞ!」
レオンが杖を構え、全身から膨大な魔力を立ち昇らせる。
「怯むな! 私が焼き尽くす!」
レオンの杖の先から、空気を焦がすほどの巨大な火炎球が放たれた。それは轟音を立てて魔獣の胴体へ直撃する。
しかし、炎が晴れた後には、無傷の魔獣が立っていた。魔獣の表面を覆う不可視の結界が、レオンの高魔力による攻撃を完全に弾き返していたのだ。
「通じない、だと……? 私の魔力だぞ!?」
レオンの顔が絶望に染まる。現代魔法の強みである即応性と火力が、まるで大人と子供の遊びのように無効化された。
魔獣がゆっくりと、レオンへ向けて巨大な石の腕を振り上げる。隊員たちは悲鳴を上げ、腰を抜かしたレオンは後ずさることしかできない。
彼らが死を覚悟したその時。
怜司だけは、逃げずにその場へ留まり、静かに周囲の音を聞いていた。
魔獣の駆動音ではない。パニックに陥る人間たちの声でもない。
空間の奥底から響く、一定のリズム。
崩れた天井の隙間から吹き込む風が、遺跡の石柱を通り抜ける際に鳴る「ヒュォォ」という規則的な音。
「……BPMは九十。四分の四拍子か」
怜司は神像の譜面と、この空間を満たす「拍」の存在を理解した。
手印と呼ばれるその動作は、形だけを真似ても意味がない。速度、維持時間、そしてこの空間の拍に同期して初めて、世界魔力の流れへ意志を通すことができる。
怜司は両手を構え、風の音に合わせて五手目からの入力を開始した。
指を折り曲げ、手首を回転させる。
だが、七手目。
風の音が、ほんのわずかに揺らいだ。自然の音である以上、機械のように完璧な一定ではない。
怜司の入力が、拍からコンマ数秒ズレる。
「っ……!」
手首から肩にかけて、焼けるような激痛が走った。命令を受け付けなかった世界魔力が逆流し、怜司の腕の筋肉を内側から弾き飛ばそうとする。
失敗すれば指が潰れる。その強烈なフィードバックが、怜司の脳髄を刺激した。
(判定がシビアなだけだ。クリアできない譜面じゃない)
痛みを無視し、怜司は一度入力を切り、最初の一手からやり直した。
視線を手元から外し、空間全体を俯瞰する。風の音の揺らぎ、魔獣が踏み出す足音、それらすべてを「曲」として認識し、予測不能な休符すらも読み切る。
ここからは一切のミスは許されない。
魔獣の巨大な腕が、レオンを叩き潰そうと振り下ろされる。
怜司の手が、神像が示す最後の連続入力を叩き込む。
【○ ● × ―― ◆】
右手で円を描き、左手で空間を握り潰し、両手を交差させ、三拍維持し、解放する。
百二十手にも及ぶ古代の大魔法を、一度も途切れさせない完全入力。
その瞬間、怜司の体内からではなく、遺跡に満ちていた世界魔力が爆発的に収束した。
第一封印曲《還天掌》。
怜司の前に、目に見えない巨大な力の奔流が渦巻く。それは振り下ろされようとしていた魔獣の腕に触れた瞬間、物理的な破壊ではなく、事象そのものを書き換えた。
魔獣を構成していた強固な結界と、結合されていた魔力が、瞬時に分解されていく。
圧倒的な力を持っていた巨大な守護魔獣は、悲鳴を上げる間もなく光の粒子へと還り、ただの石の破片となってパラパラと床に崩れ落ちた。
あと数センチで圧死するところだったレオンは、へたり込んだまま、目の前で起きた現象が理解できずに口をパクパクとさせている。
自身の最高火力を無傷で弾いた怪物が、魔力を持たないはずの荷物持ちの「手の動き」だけで霧散したのだ。
静寂が、遺跡を包み込んだ。
怜司はゆっくりと両手を下ろす。手首には逆流を受けた赤黒い痣が残っていたが、不思議と充実感があった。
誰も口を開くことができない中、ふいに、怜司の脳内に直接「声」が響いた。
『ほう。第一曲を一手の乱れもなく完奏するとはな。見事な手印だ』
尊大で、ひどく年老いた女の声だった。
周囲を見渡しても、レオンたちは何も聞こえていない様子だ。
『わらわの最初の封印は解けた。だが、あれは最も簡単な譜面ぞ。残り十一曲、同じようにいけるか? わらわの奏者よ』
挑発するような老女の声。
王都全域を巻き込む巨大な危機の始まりであることも知らず、怜司は酷使した指をゆっくりと曲げ伸ばしながら、微かに口角を上げた。
「……面白えじゃん。上等だ」
正しい譜面があるなら、すべて叩き出すまで終わるつもりはなかった。




