0.卒業
ペンを握る手が止まる。
何度も何度も読み返したが訂正する箇所はもう見当たらない。
それが分かると私はペンを机の上にそっと置いた。
早く終わった分周りを横目で伺う余裕まであった。
がらんとした大教室。
机と机の間隔は普段よりも離れている。
口を開く者は誰もおらず、沈黙に支配された空間でボールペンの走る音だけが響いていた。
最後の1分1秒まで手元の問題用紙に齧り付き、一点でも失点を無くそうと必死だ。
そうして時間は刻々と刻まれる。
一片の情け容赦もなく、無慈悲に、正確に。
心音が早くなるのに対して、それはあまりに悠長に感じた。
やがて、試験官が自分の腕時計を確認する。
それに伴って大きく張り上げた声が上がる。
「そこまで!
書くのをやめてください」
肩の力が急速に抜けていくのを感じたのは私だけではなかった筈だ。
先ほどまでの張りつめた空気が嘘のように霧散している。
ようやく私は安堵と喪失を混ぜ込んだような息を吐き出した。
まだ実感が湧かない。
通い慣れた廊下。
ふと壁際に飾られた古いトロフィーの数々が私の視線をよぎる。
この掲示板を見るのも今日が最後になるだろう。
漠然とそんなことを思った。
なんだか酷くふわふわとしていて、まるで浮遊しているような気さえする。
ぼんやりとしていると一転し、時が早く流れるものだ。
我に返ったときには校舎の外にいることに気づいた。
辺りでは帰路に着く生徒達の制服姿がたむろしている。
知り合いを見つけて声をかけている者もいるようだ。
そのため、ラベンダーの花に彩られた花壇の前では幾つかの人だかりができていた。
試験が終わって気が緩んでいるのだろう。
それに、卒業式の打ち上げパーティーのときとは違って、今度は現実的な別れになる。
だからこそ、積もる話もあるのだと思われる。
この分だと校庭のスペースでも写真を撮りあっているであろうことは想像に難くない。
そんな彼等彼女等の側を私は通り過ぎる。
記憶にないが、途中手を振り返したり、誘いに対して頭を下げたりしたらしいが、全然覚えていない。
はたから見たら、人付き合いによほど縁がないか、早急にこの場から離れたいのだと勘違いされても仕方ないだろう。
別段、そんな事実はないのだけどね。
後回しにしていたツケが回って、今日中に要らない物の整理を約束させられているのだ。
帰ってすぐ取り掛かればなんとか終わるだろう。
そういうこともあって、仲の良かった友人とはお別れを事前に済ませてあった。
校庭の土を踏み締める。
静かな感慨に耽る私の耳には大抵の物音が入ってこない。
周囲も私を間に挟み、会話や視線が飛び交った。
宛ら透明人間の気分でいた私は人の接近に対して無防備だったと言える。
校門のゲートに差し掛かったとき、タイミングを見計らったかのように背中から抱きつかれ、面食らってしまった。
「わぁ!」
「ふぁっ!?」
思わず変な声が出る。
あまりに突然の出来事だったので咄嗟に相手を軽く突き飛ばして距離を取っていた。
し、心臓に悪い。
ようやく私はその悪戯心っ子な気性を隠そうともしないなんとも憎たらしい笑みを認識した。
それまで焦点のおぼつかなかった視線が一点に定まる。
「やっほー!」
「・・・・・・あ、うん。
一声かけて欲しかったな」
相手の子は私に突き飛ばされたことを気にしている様子はなく、呆気らかんとした表情をしている。
苦言を呈する演技でも1つしてやろうかという気もその仕草を見て引っ込んでしまった。
彼女は私の海より広い慈悲の心に泣いて感謝しても足りないだろう。
その子とは同級生でそれなりに仲良くもしていた。
家の方向も近い。
そういった縁もあってなんとなく一緒に下校する流れになっていた。
「今日の卒業試験さ、時間ギリギリでホントに危なかった。
解き直しする余裕もなかったよ」
「そう」
「ま、何はともあれ、これで図書館に籠って勉強に専念する必要もないわけよ!
残りの休みで何処か遊びに行こうかな〜」
適当に合槌を挟みつつ、聞き手に回る。
あまり喋りたい気分でもなかったし、話を聞くだけでも楽しい気持ちを共有できた。
「・・・・・・もうこれで学校に来ることもないのかぁ」
なんだろう。
言葉の端々にしみじみとした感慨を感じるというのは言い過ぎだろうか。
卒業という1つの区切りに感じいるものがあるのは誰にでも共通するものらしい。
「ドロテアは?
大学行ったら何がしたい?」
「・・・・・・え?
ああ、えーと?」
急に自分の名前を呼ばれて戸惑う。
口籠るばかりで答えることが出来ない。
それこそが答えなのかもしれないが。
何をしたいんだろう、私。
今後の展望なんて大して考えてこなかった。
具体的な将来も決まらぬままに年齢だけが積み重なっていき、今こうして岐路に立たされている。
もたもたしていたからだろう。
二の句を継ぐ前に相手が話を振ってくれた。
「男つくったりとかは?
あんたクラスの男子とも仲良かったし、大学でも良い人捕まえられるでしょ」
まじめな話題から一転、茶化しているとすぐ気づいた。
下世話な話が好きね、この子も。
「それはスポーツのことで話の馬があっただけだって。
第一、互いにその気がないから」
私が地域のバスケットボールクラブに入っていることは周知の事実だ。
背も高く、運動は得意とするところなのでスポーツは人並みにできる方だと自負している。
すると、相手がやれやれとでも言いたげに首を振る姿を見せつける。
「分かってないな〜。
恋って友情から生まれるもんだよ」
「うーん」
ムキになって言い返してもこの分では逆効果かもしれない。
まぁ、別に良いけどね。
詮索されたところでどうするものでもないし。
「あっ、私こっちだから!」
「そっか」
他愛もない話をしているうちに、もうこんなところまで来ていた。
自分でも無意識のうちに歩みを遅らせていたのはきっとそういうことだろう。
「じゃ、またね」
「うん」
喧しい騒ぎ声が遠ざかっていく。
耳の上よりずっと高く上がった手は私に向けて振られていた。
「この休みの間にどっか誘うよー!」
「・・・・・・うん、分かった」
多分もう聞こえていなかったと思う。
それに気づいたからか、私の声も尻すぼみに小さくなっていく。
彼女が見えなくなるとそっと胸くらいの位置にあった自分の手を下ろした。
教会の鐘の音が聞こえる。
私達が歩いてきた学校の方からだ。
学校に通っていた頃は聞き慣れた音。
つい背後が気になってふいに振り向いていた。
嵐が過ぎ去った後は思っていたよりずっと静かで。
少し、ほんの少しだけ寂しさが勝った。
その日の日が沈むのは早かった。
涼しい夜風を締め出すように、後ろ手に扉を閉める。
家の中の空気さえもぬるく感じた。
卒業に際して、要らないものは山のようにあった。
片付けに取り掛かってもうたいぶ時間が経過している。
結局、あれから部屋と下の階を何度も行き来させられた。
それで、つい今し方ようやくゴミの分別が終わったところだ。
流石に腰が痛くなってきていた。
何はともあれ、取り敢えずひと通り片づけはしたのだ。
これなら色々言われることもなかろう。
腕が軽い。
そんな当たり前に感動を覚えた。
両腕をうんと伸ばして伸びをする。
口笛でも吹きたい気分だ。
憑き物が落ちたように思う。
靴を脱ぎ捨てる。
自室には戻らない。
その足でリビングへと直行する。
さっきまでの重労働でだいぶくたびれた。
冷蔵庫で適当な飲み物でも拝借して、ゆっくり羽を休めようという心づもりだった。
とは言え、それは空いている前提の話。
面倒なことに、その日、リビングは先に来ていた人物に占拠されていた。
足早に玄関ホールを抜ける。
リビングに差しかかった辺りで、人の気配を感じ取った。
小走りを抑える。
相手に聞こえないように小さく息をついた。
まぁ、居るかもしれないとは思っていた。
ずっと常駐していたらしい。
ソファに横になっている様は堂に入っている。
「・・・・・・お母さん」
私が働いている間、居間の電気がついてたのってもしかして。
声音に呆れが混じる。
こりゃくつろぐどころじゃないかな。
飲み物だけ回収して引き上げるか。
あれ?
目だけで軽く捜したが、父が見当たらない。
今日は2人とも家にいる筈だけど。
「お父さん知らない?」
そこでくつろいでいる人に声をかける。
冷蔵庫から缶を一本取り出す際に、手の中の体温が奪われるのを感じた。
「ん?お父さん?」
顔が上がる。
タブレットで動画を観ていたみたい。
お邪魔でしたかね?
という言葉をすんでで飲み込む。
そうでなければ、危うく嫌味が飛び出るところだった。
それに対して、母は視線だけをこっちに寄越して返答してみせた。
「あの人ならどうせ庭の手入れでしょ。
最近力を入れてるみたいだったし」
成程。
確かにそう聞くとそうとしか思えなくなってきた。
疑問が解消された私はそれ以上話などなかったのだけど、母はこの期に及んで余計なことを思いついたらしい。
「あ、そうだ。
夕飯何食べたいかついでに聞いてきてくれない?」
その言葉を聞いた瞬間、私は察した。
あっ、この人。
出前頼む気だ。
「お願いね」
「はいはい」
本音を言えば、面倒臭いが勝ったし、自分で行けよ、とも思ったんだけど。
できた娘である私は渋い顔をするだけで口には出さない。
本当はぶー垂れてやりたいけど、それじゃ子供だしね。
無作法に喉を鳴らして缶の中身を飲み下す。
口を拭ってから、この行き場のない苛立ちをぶつけるように雑に空き缶を力一杯握りつぶした。
そして、また外の冷たい空気を浴びている。
予想通り、父は庭を弄くり回しているようだ。
難しい顔をしていて声をかけるのを躊躇われる。
ええい、何を躊躇うことがあろうか。
気後れすんなよ、私。
「調子どう?」
「・・・・・・おお、ドロテアか!
丁度こっちのきりも良いところだよ」
父はわざわざ作業の手を一旦止めて、私に反応を返した。
まさにこれが、正しい親から子への対応だと思う。
リビングの人にも見せてやりたい。
父は相変わらず、身長の割に覇気がない。
威圧感はおろか押せば簡単に倒れてしまいそうな雰囲気がある。
父に怒られた記憶は数えるほどしかない。
今も、私がわざと驚かしたことを薄々は勘づいているだろうにその事を槍玉に上げる気はないらしい。
「見ての通り、植え替え中。
もう終わる」
「へー!!」
それが事実であることは見ていれば分かった。
土の掘り返された跡は無く、もう切り上げるところだったのだろう。
時間がかかるようなら多少手伝うつもりだったけど、どうやら杞憂に終わりそうだ。
どれどれ見てやるかと、どの辺が変わっているのか間違い探しをするように目を凝らす。
「去年より白が増えたんじゃない?
生垣もなんだか低いし」
指摘すると感心したように反応を返してくれる。
単純なもので、そんなことで気が良くなった。
「よく分かるな〜。
てっきり興味ないもんだと。
ところで、何か用でもあったんじゃないか?」
「ああ」
夕飯の話だっけ。
そうだそうだ。
危うく肝心の目的を忘れるところだった。
父に合わせて目線を上げる。
「それなんだけど・・・・・・」
そこまで口にして言葉が喉で止まる。
異変を感じる間もなかった。
「・・・・・・っ、は・・・・・・」
目が開かれる。
意図せず声が掠れ、苦し気な息が漏れる。
何か 様子、変じゃない?
自分のことなのに考えがまとまらない。
ていうか、それどころじゃない。
いつの間にか自分のつま先を見ていた。
耳もなんだか遠い気がする。
『ーーーーーー偏頭痛を訴える人が増えているようで
ーーーーーーも気を付けてくだーーーーーー』
室内からニュースの内容がブツ切れに耳に飛び込んでくる。
そして、音は掠れていく。
徐々に徐々に・・・・・・
ただ意味を持たない耳障りな雑音となって私を襲った。
咄嗟に耳を塞いだが、雑音は消えない。
父が口を動かしているのが目に入る。
なんて言ってるかは分からない。
こめかみは締め付けられ、目の奥がじんわりと熱を帯び始める。
噛み締めた奥歯から鈍痛が響く。
疲れているのだろうか。
その証拠に目がチカチカする。
視界の輪郭がブレる。
光が滲み始め、色が分離して見えた。
まるで、オーロラの光のように。
世界は重々しくも色で隔たれ、二重三重に重なる。
父が腕を掴んで家の中に連れ添ってくれなければ、きっと私はうずくまって丸まったままだっただろう。
この日の内に目眩と頭痛から解放されることはなかった。
強い朝の日ざしを浴びる中、私は自分の髪の毛を撫でつける。
両サイド耳の上の結び目に触れ、後ろ髪の方に指を通す。
慣れ親しんだ髪型。
本当は鏡越しに確かめたかったけど、少なくともゴム跡はなさそう。
何より、これ以上2人を待たせたくはない。
「本当に体調は大丈夫なのか?」
2人とも既に車の前で待機しているみたいだ。
とりわけ父親は私が昨日目の前で倒れたのを見ている。
心配が顔に出ていた。
「買い出しに行くだけだから留守番していても・・・・・・」
「もう平気。
それに家で待っていても暇だし」
後部座席に乗り込む。
父も私の言うことを鵜吞みにしたわけではないだろうけど、付いてくることに難色を示すことはない。
「・・・・・・そうか。
少しでも変だと思ったらちゃんと言うんだぞ」
「うん」
エンジン音がかかる。
窓の景色が後ろに流れ始めた。
「着くまでにまだ結構時間あるから寝ておけば?」
いつも休日のこの時間は布団の中のことが多い。
昨日倒れたのもあって、正直に言えば疲れが完全に取れていなかった。
それを見透かされたみたい。
「・・・・・・そうしようかな」
ここは大人しく母の言うことに従っておくことにした。
クッションに背を預けて程なくして、私はまぶたの重みを感じる。
目を閉じるのにそう時間はかからなかった。




