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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第一章 錯綜(さくそう)
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錯綜3-3-②:隔てられた父の背中

 部屋の中は静まり返っていた。寧々はぼんやりと窓の外を見る。父は今日も仕事。日曜でも、家でゆっくりすることはほとんどない。もしかすると、仕事に没頭している時だけが、過去を忘れられる時間なのかもしれない。家族が殺されて、父も寧々も壊れてしまった。どうあがいても修復できない。


 窓ガラスに映った自分の顔を見て、寧々は顔を横に振った。


(考えない、考えない。私は大丈夫。私は……大丈夫なんだから)


その時、玄関のドアが開く音がした。父が帰ってきたのだ。時計は夜の十時を回ったところ。思わず息を呑む。


(しまった……)


こんなに早く帰ってくるなんて思わなかった。寧々の部屋は、玄関を入ってすぐ右手にある。今、出たら父と正面から鉢合わせになる。いつもは、父が帰ってくる頃には寧々は部屋にいる。帰って来たからといって、父が寧々の部屋を覗くこともないし、寧々も父のいる空間には極力近づかない。


そうして、互いに顔を合わせないことが「普通」になっていた。本当に仕事なのか、寧々と顔を合わせないために、わざとそうしているのかも分からない、そして今では、そんなことすら考えなくなった。


 リビングに近づいてくる父の足音。心臓の動きが早くなる。ガチャッとリビングの扉があく。逃げ道はない。


「……お、お帰りなさい」


リビングにいる寧々を見て、父は一瞬、驚いたような表情を浮かべた。


「ただいま。ここに……いたのか」

「あ、うん。でも、もう部屋に行こうとしてたの」

「別に、ここにいても構わないさ。お前の家だ、遠慮することはないだろう」

「……そう、だね」


父の視線が、寧々の肩越しにその後ろにある写真立てに向けられる。そこにあるのは笑っている母と妹の写真。父は無言のまま、写真の前に歩み寄り、じっとそれを見つめる。そして数秒、いやもっと長い時間、言葉ひとつ発せず、背を向けて足を自室へと向ける。


「お父さん」

「ん?どうした?」


寧々の呼びかけに、父は立ち止まり振り返る。


「今でも……お母さんと莉子のこと、思い出す?」


その問いに、父は黙ったまま寧々の顔を見つめる。何を考えているのか分からない。


「……二人のことを考えない日は、一日もない」


抑揚のない、でもはっきりとした口調で父は答える。


「そう、だよね」

「お前は……」


何か言いかけて、父はそのまま言葉を呑み込むように口を閉じた。


「早く寝なさい。明日は学校だろう」

「あ、うん。おやすみなさい」


父はまた背を向け、自室へと向かう。父は何を言いかけたのか「何故、お前だけ生きているのか」、きっとそう言いたいのだ。寧々はその背中に向かって、何かを言いかけるように手を伸ばしかけるが、実際には指一本、動かせない。


(お父さん……)


心の中でそっと呼びかける。


(ねえ、お父さん。あの時、あの日――私も一緒に死んでいた方がよかった?)


胸の奥に、凍りついたような言葉が浮かぶ。


(そうすれば、お父さんは私のことも、あんな風に写真を見て毎日思い出してくれた?)


けれど、その問いが声になることはない。寧々は拳を握りしめるようにして、静かに閉められた父の部屋の扉を見つめる。


 聞いたら全て失ってしまう、寧々が父の娘であるという権利――そして父が寧々の親であるという義務。


(……そうだよね、お父さん)


◆   ◆   ◆

 

 翌朝、寧々はいつもより遅い電車に乗った。和と同じ時間の電車に乗るのはやはり気まずい。教室に入ると、和はすでに席に着いて教科書を開いていた。寧々の方を見ることはない。寧々も特に話しかけず、自分の席へと向かう。昼休みも和とは距離を取って、他の子たちと過ごす。


「ねえねえ、最近、深見さんと仲良いみたいだけど、どんな感じ?」


一人が興味津々といった様子で尋ねると、周りの女子たちも次々に顔を寄せてくる。


「どんなって……別に、特に変わったことはないけど」

「そうなの? どうやって仲良くなったの?」

「なんで?」

「だって、みんな本当は深見さんと仲良くしたいんだよ? 頭いいし、スポーツもできるし!」

「スポーツも?」

「うん、体育の授業だって、何でもこなしてるじゃない」

「ああ……言われてみれば」


確かに和は、がり勉タイプとは違って、運動も人並み以上にこなしていた。どんな競技もそつなくこなす。静かで目立たなくしているようで、なぜか印象に残る存在だった。


「去年の体育大会だってね」


そう言って、皆が顔を見合わせ、うなずき合う。


「体育大会?どうしたの?」

「リレーでぶっちぎりだったのよ」

「へぇ、そうなんだ」

「私が深見さんの前に走ったんだけど、抜かれちゃってさ。バトン渡した時は四位だったのに、一気に二位まで追い上げたの!」

「かっこよかったよね」

「うん、あと一メートルあれば絶対一位だった。もう、興奮しちゃって鳥肌立ったもん」

「へえ~」

「でも本人は、そういうの全然気にしてない風だったよね。まるでなんにもなかったみたいに普通で」

「そうそう。もっといろいろ話したいのにね」

「仲良くなりたいなら、話しかければいいのに」


寧々がそう言うと、女子たちはちょっと戸惑ったような表情を浮かべた。

お読みいただきありがとうございます。

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