錯綜2-1-⑪:壊れた日常の果てに得た安寧
プープ―と受話器から聞こえる音を耳にしながら、そのままぼんやりしていた。体が動かなかった。そうしたら、部屋の中に人の気配がどやどやと押し寄せた。誰かが和の腕を取り、外へ連れ出す。
外には何台かのパトカーが止まり、赤い回転灯が眩しく点滅していた。誰かが何かを話しかけている。すぐ目の前に顔があるのに、遠く感じられた。声も景色も何一つ頭に入ってこない。和は誘導されるまま、アパートの下へ降りていく。
しばらくすると、担架に乗せられた母の遺体が部屋から運び出されるのが視界に入った。周りには人だかりができていたが、誰の顔もぼやけていて識別できなかった。
「……ちゃん」
誰かが呼んでいる。聞き覚えのある声だ。
「……ちゃん、和ちゃん!」
ぼうっとしたまま声のする方に顔をあげる。のっぺらぼうのようだった顔がはっきりと形を取り始めた。叔母だった。
「和ちゃん……」
叔母の姿が、焦点の合っていなかった和の瞳に映る。
「叔母さん……?」
叔母がなぜここにいるのか分からなかった。母と喧嘩していたはずなのに……また言い合いになるのではないか、そんな懸念さえ浮かんでくる。
「和ちゃん、大丈夫?」
「……大丈夫?」
大丈夫って何のことだろう。叔母が何を言っているのか分からない。辺りがやけに騒がしく感じられ、和はぐるりと周囲を見渡した。多くの人がこちらを見ている。
(なぜ……? 何の騒ぎ……?)
なんでこんなところに人が集まっているのだろう。祭りでもあったのだろうか、いや、この近くで祭りなんてあるわけもない。わけが分からない。
「和ちゃん!」
叔母が和を抱きしめた。
「こんなことになるなんて……一体、どうして……」
叔母の言葉が頭の中で反響する。こんなこと――それは何だったのだろう。頭の中にもやがかかっているような感覚。
「一体、何があったの? 姉さんはどうしてこんなこと……あの男と、何か……?」
「あの男……?」
その言葉と同時に、和の中に岳の顔が浮かび上がる。
「嫌ッ!」
和は耳を塞ぎ、しゃがみ込んだ。
「和ちゃん?」
「嫌! やめて、来ないで!」
突然、あのときの光景が頭をよぎる。肩に伸びてくる手を思わず払いのけた。
(来ないで、来ないで、来ないで!)
全身がガタガタと震え出す。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ!)
周囲の視線が突き刺さる。人々が何かを叫んでいるが、何も耳に入ってこない。ざわついた周りの喧騒がかき消されて行く。誰かの手がこちらに伸びて来る。
(あいつだ!)
咄嗟にそう思った和は、走った。あの男の手が届かない場所へ。
(逃げなきゃ!)
そう思いながら、深い霧に包まれた中をただひたすら走り続ける。
(早く、早く、早く!)
何かに急かされる。恐怖に身が竦む。
(怖い!)
後ろから誰かが追ってくる。伸びてくる手が腕を掴み――振り返ると、岳がニヤリと笑った。
「キャーーーッ!」
和は叫びと共に跳ね起きた。
「和ちゃん!」
叔母が心配そうな顔で和を覗き込む。岳はいない。ここは……どこだ。
「ここは……?」
「病院よ。和ちゃん、気を失って……」
「……病院……」
岳の顔が、まだ脳裏に焼き付いて離れない。
「こんなことになるなんて……」
叔母が和の頭をそっと撫でた。“こんなこと”――その言葉が、あの出来事を指しているのかと和は一瞬身構える。叔母は岳のした事を知っているのか……。
「……こんなこと、って?」
「まだ混乱しているのね。無理もないわ。お母さんの、あんな姿を見たんだもの……」
「お母さん……?」
母がどうしたのだろう――そう思った瞬間に、天井からぶら下がっていた、あの姿を思い出す。
「ああ……」
そうだ、母は死んだのだ。
「お母さん……死んじゃったんだ……」
和は独り言のように呟く。本当に母は死んだのか――。
「大丈夫。和ちゃんは、もう何も心配しなくていいのよ。うちの人も、もうすぐ来るから。これからのことは、私たちに任せて。和ちゃんは、うちに来ればいいの」
叔母はそう言って、そっと和の頭を撫でる。子供の頃から可愛がってくれた優しい叔母だ。
「あの男は、どうしたの…?」
「……出て行った…」
「そう……それで、姉さん……なんて馬鹿なことを」
母はもういない。あのことを知る人が、和の周囲からいなくなった。――願っていた通りの現実が、そこにあった。
和は母が死んでしまったという悲しみよりも、寂しさよりも、ほっとしている自分を感じていた。
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