陰影2-5-⑯:揺らぐ均衡ー求められなかった手
「自分でも思います。本当に何の為に一緒に暮らしているのかと。それでも、あの子が可愛くないわけではありません。今でも娘だと思っています。血が繋がっていなくとも、その気持ちは変わらない。会話がなくても、触れ合いがなくても、家の中にあの子がいると分かるだけで、私は安心するのです」
その告白は、身勝手でありながらも切実だった。公洋の中で矛盾する感情が絡み合い、解けないまま年月だけが積み重なってきた。その重さが、ようやく言葉となって零れ落ちたのだった。
公洋の言葉を聞き、鳴海は胸の奥で僅かに安堵した。まだ手遅れではないかもしれない。公洋は寧々を拒絶しているわけではない。ただ、どう受け入れれば良いのか分からなくなっているのだ。年頃の娘と会話の無い父親など、世間には幾らでもいるだろう。
だが、何事もなく自然に距離が生まれるのと、深い傷の上に沈黙が横たわっているのとでは意味が違う。鳴海は責める為にここにいるわけではない。それでも言葉を止める事が出来なかった。今の寧々が、あまりにも危うく見えたからだ。そして今、寧々に手を差し伸べられる人間がいるとしたら、公洋しかいない。
寧々のあの屈託のない明るさの裏に、時折覗く影がある。光と闇の均衡が取れていないように見える。その均衡はいつ崩れてもおかしくない。そんな不安が鳴海の胸に燻っていた。寧々はきっと、ずっと父親を求めていたはずだ。だが、その思いを口に出す事すら出来なかった。何故なのかと考えれば、やはり一つの可能性に行き着く。寧々は公洋が実の父親ではないと知っているのではないか。そう思わずにはいられない。
血が繋がっていないという遠慮が、彼女の言葉を封じたのではないか。もし仮に、万一にも寧々がその事実を知っているとしたら。彼女は実の父の正体まで知っているのだろうか。自分がどのようにしてこの世に誕生したのか、その経緯を理解しているのだろうか。それは家族を殺されたという事実よりも、彼女にとって過酷な現実かもしれない。自分の存在意義そのものを揺るがしかねないのだから。
鳴海はこれまで、親に虐待された子供達を何人も見てきた。彼らの多くは、驚くほど親を責めない。理不尽な暴力や暴言を受けながらも、庇う事すらある。それは理屈では説明出来ない。小さくとも、子供は自分の存在意義を否定したくないのだ。否、人は誰しもそうだろう。親にとって不要な存在であったと認める事は、自分自身の価値を全否定する事に等しい。
私はここにいる。そう訴える声を、鳴海は何度も聞いてきた。子供の存在意義は、親に認められる事から始まる。だから虐待されている事実すら隠してしまう。存在意義を失えば、自分の居場所さえ分からなくなるからだ。寧々もまた、その淵に立たされているのではないか。鳴海は胸の奥で冷たいものを感じた。
「あの子は、寧々は、どこで見つけたのか朱音の残したレシピ帳を取り出して、料理を作る事があります」
公洋が静かに語り始める。
「私が遅く帰ると、作り置きが冷蔵庫に入っているのです。きちんと温め方まで書いてある事もあります」
鳴海は黙って耳を傾ける。
「ですが、私はそれを一度も食べた事がありませんでした」
「一度も、ですか」
「ええ。一度も、です。それでもあの子は、何度も作っていました。何も言わず、ただ当たり前のように……私にはそんなあの子の心が分からない……」
公洋の声は掠れている。
「私はそれが余計に辛かった。酷い父親です。分かっています。何度も蓋を開け、箸を手に取りました。食べようとした事もあります。けれど、どうしても口を付ける事が出来なかった。あの子に何もしてこなかった私が、それを食べる資格など無いように思えたのです」
言葉の端に、自嘲が滲む。
「言い訳ですね。本当は怖かったのかもしれません。あの子に責められているようで……」
公洋は一瞬、遠くを見るような目をした。
「昨年、偶々大学時代の友人家族が遊びに来ました。その時です。あの子の作った料理を、私は初めて口にしました。皆が美味しいと笑っている中で、私も逃げられなかった」
僅かに息を吸い込む公洋。
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