陰影2-5-⑰:交錯する糸―手掛かり
「驚きました。とても懐かしい味でした。私の舌が忘れられずに覚えている、朱音が作ってくれた料理と、まるで同じ味だったのです。香りも、塩加減も、煮込み具合も。キッチンに立って笑っていた彼女が頭に浮かびました」
その友人とは恐らく依智伽と、その養父母の事だろう。偶然がもたらした再会が、公洋に初めて箸を取らせたのだ。皮肉な巡り合わせだ。
「でも、寧々はとてもしっかりした子です。何でも一人で出来ますし、泣き言も一度も聞いた事がありません。我儘を言った事もありません」
公洋は、どこか誇らしげでありながら、同時に自分に言い聞かせるような口調でそう言った。その言葉の裏にある安堵と逃避を、鳴海は敏感に感じ取る。
「……それは安心出来る要素にはなりません」
鳴海は静かに、しかしはっきりと告げる。
「寧ろ、その年頃の女の子が今まで一度も我儘を言った事がないという事実の方が危ういことです。子供は成長の過程で様々な壁にぶつかります。友人関係、進路、自尊心。どれも簡単に乗り越えられるものではありません。その度に、誰かに頼り、甘え、時には反発しながら折り合いを付けていくのです」
鳴海は一呼吸置く。
「それを一人で抱え込んでいるとしたら、心の均衡がいつ崩れてもおかしくない。どうか、手を差し伸べてあげて下さい。あの子の話を聞いてあげて下さい。上手い言葉でなくて構いません。ただ、聞く姿勢を示して下さい。きっと朱音も、それを望んでいます」
公洋は頭を垂れた。自責の念がその背中を重くしているように見える。理解していないわけではないのだ。問題は、今更どうやって距離を縮めれば良いのか分からないという事だろう。失われた年月は、思いの外大きい。暫く沈黙が続いた後、公洋は何かを思い出したように顔を上げた。
「そう言えば……帰国して半年ほど経った頃、寧々が珍しく私にお願いをしてきた事があります」
「お願い、ですか」
「ええ。高校を変わりたいと言ってきました」
鳴海は僅かに眉を寄せる。
「こちらに戻って来た時、日本の高校事情はよく分からないからどこでも良いと言っていました。住まいの近くの公立高校で構わないと。それが翌年の春になって、突然別の高校に行きたいと言い出したのです」
「反対はなさらなかったのですね」
「特に反対する理由もありませんでしたから。寧々が自分で決めた事なら、それで良いと思いました」
公洋はそう言うが、その声音はどこか弱い。
「高校を変わりたい理由は聞きましたか。どうして明星を選んだのか、とか」
「あ……いえ。特に尋ねませんでした」
語尾が小さくなる。鳴海はその沈黙の意味を考える。疑問を感じなかったのか、それとも感じても口に出せなかったか。おそらく前者だ。公洋は無意識に寧々に対して深く考えることを停止していた。多分、公洋自身、気づかぬうちに。
「そうですか……」
あの学校には、山下岳や三芳梗子と浅からぬ関係を持っていた上條浩太や佐藤和がいる。その事実がどうにも引っ掛かる。本当に偶然なのだろうか。もし偶然だとすれば、あまりにも出来過ぎている。運命の糸に手繰り寄せられたとでも言うしかない。しかし、その糸が何を結び、何を断とうとしているのかは分からない。
桃花も嫌な予感がする、と口にしていた。鳴海も同じ感覚を抱いている。ただの思い過ごしであれば良いのだが。
「あの……こんな事をお聞きして良いのか迷ったのですが」
鳴海は慎重に切り出す。
「何でしょうか」
「朱音の事件についてです。紫園さんは、犯人に心当たりはありますか」
言い回しを幾つか頭の中で巡らせたが、結局、回りくどい言葉は見つからなかった。核心を避ける事に意味は無いと判断した。
「単刀直入ですね」
公洋は僅かに苦笑する。
「済みません。もっと遠回しに伺うべきかとも思いましたし、今更蒸し返すべきではないのではないか、とも考えました。ただ、どうしても確認しておきたかったのです」
鳴海は視線を逸らさずに続ける。
「些細な事でも構いません。違和感や、引っ掛かりでも結構です。あの事件には、見ていない事実があるように思えてならないのです」
場の空気が再び張り詰める。公洋の表情がゆっくりと変わる。過去の扉が、軋みながら開こうとしているようだった。
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