17
アンコールまでの全てのプログラムが終了して、退場を促すアナウンスが流れてきても、彩はぼんやりと椅子に座り込んだままだった。ありえない、と思うのと、やっぱり、と思うのとが交互に頭の中を回っていて、うまく思考が整理できなかった。
動揺しているのだ、と思う。簡単に言ってしまえば、ステージにいる貴樹は別人のようで、不覚にもかっこいいとまで思ってしまった自分が恥ずかしかった。
今までに見てきた東城貴樹とは、全く別の顔。それでいて、確かに変わらない部分。ステージの彼も、いつも見せていた彼も、同じなのだと見せつけられた。
この次、どんな顔をして会えばいいのか、わからない。大体、こんな人気のあるアーティストだったことも知らなかったなんて、貴樹はどう思っていたのだろう。ほとんどの曲は知らなかったが、街中で耳にしたことのある曲も数曲混じっていた。でも、それだけだ。何しろ、それが誰が歌っているものかなんて、今まで気にしたこともなかったからだ。それを考えると、居た堪れなかった。
「……彩、どうする? 立てる?」
心配そうに、大輔が覗き込む。
そういえば、大輔が一緒に来ていたのだった、と、思い出す。そうしてから、大輔はこのことを知っていたのか、と気になった。彼は気づいていたのに自分が気づいていなかったのだとしたら、我ながら間抜けすぎて穴を掘って埋まりたい。
「大輔は……知ってた?」
恐る恐る聞けば、大輔は肩をすくめた。
「俺が知るわけないだろ。まあ、でも、最近妙に仕事増えてて、何か有名人が俺のことスキーって騒いでたらしいってのは聞いてたんだよね。誰なのかまではちゃんと聞かなかったけど。だから、それがこいつか、ってくらい?」
「そっか……」
はあ、と溜め息をついて、周りの帰ろうとしている雰囲気に気を取り直す。ライブは終わったのだ。いつまでもそこにいるわけには行かないことに気づき、のろのろと立ち上がる。周囲を見回しても、残っている人はそれほどいない。会場に入る時に渡されたアンケート用紙に記入している少女たちがいるのを見て、その存在を思い出した。
こういうものは、何か書いた方がいいものなのだろうか。
少し悩んで一言だけ書いて、出口に向かおうとする。その彩の背後から、誰かが肩を叩いた。
「三枝彩さん?」
不意に名前を呼ばれたことで、彩は驚いて飛び上がるようにして振り返る。こんな場所に知り合いがいるとは思いもしなかったのだから、当然の反応だった。
そこにいたのは、長身の青年だった。彩は知らない顔だと咄嗟に思ったが、どこかで会ったような気もする。だが、それがどこでなのかは思い出せなかった。
誰だろう? と考えていると、彼は、彩が手にしているアンケート用紙をちらりと見やって、わずかに微笑んだ。
「もしかして、そのまま帰ってしまうつもりですか?」
「そのつもり……ですけど……?」
「せっかく来てくれたんでしょう? アンケートにまで記入して下さるなんて、嬉しいですね。どうせ来ていただいているんですから、あいつに会って行って下さってもいいのではありませんか?」
そう言われて、思い出した。
この青年は、貴樹の関係者だ。こっそりと羽田空港に行った時、貴樹の傍にこの人がいた。貴樹はこの人ととても親密そうに話していたように思う。
「……でも」
彩は、迷う。
このまま、彼について行ってもいいものなのかどうか、判断がつかなかった。と言うよりも、混乱していてどうしたらいいのかもわからなかったのだ。
自分の中で、たくさんの気持ちが渦を巻いているような気がして。
「遠慮は要らないと思うな。まあ、あいつは全力疾走の後だから、しばらくは口もきけないかもしれないけどさ」
彼はにっこりと笑って、戸惑う彩の手を取った。
「え、あの」
「行けばいいじゃん」
「……大輔」
「じゃ、俺は帰るから、後はよろしくお願いしますね」
と、大輔は勝手に青年に彩を押し付けるようなことを言い出し、青年は請け負うようにうなずいた。
「もちろん、お任せを。……ああ、それから」
青年は思い出したように大輔に向き直る。
「間違いでなければ、ミサカ先生ですよね? もし、差し支えなければ名刺を交換させていただいても?」
「かまいませんよ」
大輔は少し驚いたようだったが、すぐにそれに応じた。青年は慣れた様子でやり取りをしてから、まじめな顔で言った。
「仕事の依頼は、編集部を通した方がよろしいですか? 直接でも問題ない?」
「直接でいいですよ。受けるかどうかは、内容と納期次第ですが」
「……わかりました。詳しい話は、いずれまた。では、行きましょうか」
青年は大輔に軽く挨拶をすると、彩を促して歩き出す。
ライブの余韻に浸り、そこかしこで立ち止まって興奮気味に会話を交わしている観客の間をすり抜け、彼は人気のない方へと向かう。
奥へと続くドアの前に立つガードマンに片手を上げるように挨拶をして、彼はそのドアを開けると、彩に「どうぞ」と言った。
ドアをくぐってそこを閉め、外のざわめきが聞こえなくなってから、彼は彩へと向き直る。
「はじめまして。俺は、REAL MODEのプロデューサーを務める、天宮順平といいます。まあ、会社で言うのなら、あいつの上司みたいなもんかな。ライブハウスで歌っていたあいつを拾ってきたのは俺だし。……それで」
と、彼……天宮が彩を覗き込む。
「ライブは、どうだったのかな? あいつが全てを懸けている場所だ。楽しんでもらえたんだと、俺は思っているんだけど?」
その問いかけに、何をどう答えたらいいのかわからなかった。
そんな彩の沈黙をどう取ったのかはわからないが、天宮はそのまま先へと進んでいく。それに遅れないようについて行きながら、頭の中で今までのことがぐるぐると回っていた。
貴樹は、大切な仕事だと、言っていたことがある。その内容までは聞かなかったけれど、今日のライブを見れば、彼がどれほどこの場所を大事にしているのか、わかる。そして、そんな貴樹の一面を目の当たりにして、自分がどうすればいいのかを考えつけなかったのだ。出て来るのは月並みな言葉ばかりで、アンケートだってたった一言しか書けなかった。
感動しました、と、それだけ。
こうして天宮が現れたのでなければ、彩はそのまま家に帰って、一人で考えるつもりでいた。なのに。
わざわざ迎えに来るなんて、思いもしなかった。こんなことは、不意打ち過ぎて戸惑うばかりだ。
「……ああ、そうだ」
と、天宮は思い出したように手を打って、足を止めて彩を振り返った。
「君を迎えに行ったのは、俺の独断。貴樹に頼まれてのことじゃないからね」
そう言って、またにっこりと笑った。何となく、その笑みには侮れないものが含まれているような気がして、彩は曖昧にうなずいた。
そして、彼はひとつのドアの前で立ち止まり、それを乱暴にノックする。
「おい、貴樹。俺だ。入るぞ」
それだけ言い放ち、中からの返事も待たずに彼はドアを開けた。中には何人もの人影が慌ただしく行き交い、ざわめいている。
その中で、一番入り口から遠い場所。
ソファーの背もたれにぐったりと身を預け、宙を仰いで乱れた息を整えようとしている人影。ラストに見た衣装もそのままに、乱れたヘアスタイルが汗で頬に纏わりついている。
貴樹だ。
見慣れているはずなのに、見たこともないような気がして、彩はうろたえた。
「……順平ちゃん? いきなりどこに消えてたの?」
彼は億劫そうに顔の向きを変えて振り向く。そして、考えていた相手だけではない人物が立っていたことに驚いて目を見開き、絶句して硬直した。
「……彩」
しばらくの無言の後、かすれた声で一言、名前を呼ぶ。
彩もうろたえていたが、貴樹のうろたえぶりの方が顕著だった。傍目にもわかるくらいに、彼は一瞬で表情を変えた。そんなうろたえぶりは悪戯を見つけられてしまった子供のようで、何だか微笑ましい。
「俺が呼んで来てやったんだ。嬉しいだろう?」
にやりと笑って天宮が付け加えると、貴樹は目を剥いて叫んだ。
「な……っ、そっ、そんなこと頼んでないし!」
立ち上がって抗議をしようとして、足がもつれる。よろけて倒れかけたのを一人のメンバーが支え、彼は貴樹を問答無用でソファーへと突き倒した。
「さっきまで酸欠でひっくり返っていたんだから、おとなしくしていろっての。こけて怪我したら目も当てられないだろ」
「うるさい……っ」
「酸欠?」
「あー、気にすることないですよ、三枝さん。これもいつものことですから。こいつはバカなので、許容量オーバーで走り回ってひっくり返るんです。まあ、こいつの自業自得ですのでお気遣いなく」
ぜえぜえ言っている本人の代わりに天宮が答え、入り口の傍で固まったままだった彩を貴樹の方へと押し出す。
「うううう、ひどいよ、順平ちゃん。俺は頑張っているだけなのに、何でそんないじわるなの」
「気持ちの悪いことを言うな。それより、言いたいことがあるんだろ」
大仰な仕草で嘆いて見せていた貴樹は、天宮の言葉にぐっと押し黙り、それから、彩の方を窺うように視線を向けた。
「……あの、彩……俺」
そう言いかけてから、貴樹はうつむいて視線をそらす。
言葉を探すように唇を噛み締め、まだ額に滲む汗を手にしていたタオルで勢いよく拭った。そして、所在なさそうにそれを弄びながら、ぼそぼそと続ける。
「……えと、その……ライブ、楽しかった?」
「貴樹って、バカなの?」
質問の答えではなく、思わず彩がそう言ってしまうと、貴樹はショックを受けたように眉尻を下げた。
「ば、馬鹿って、ひどい! 俺は、いろいろ悩んで……それで」
「もっと早く、本当のことを教えてくれたらよかったのに。私、こんなに人気のある人を知らなかったなんて、物知らずで恥ずかしかったじゃない。ついでに言うなら、何も教えてくれなかったせいで余計なことを考えちゃったし、余計なことで怒ったことになるじゃない」
「で、でも」
「私は、貴樹が芸能人でもそうじゃなくても、別にどっちだっていい。でもね、すごく、カッコよかったと思う。貴樹がこの場所を大切にしているって言う意味が、よくわかった」
きっと、それは、魔法の言葉。貴樹が、何よりも待ち望んでいた言葉だった。
こだわっていたことも、怖いと思っていたことも、漠然とした不安も、彩のたった一言で全てが消えて行く。そう思った。
前のようにREAL MODEの東城貴樹を否定されてしまうのが嫌で、それが原因で彼女が離れて行ってしまったらと考えるのも怖くて、ずっと、言い出せずにいた。
前の恋人と彩とは違う。それはわかってはいても、一度傷つけられた痛みは自分で考えている以上に厄介で、どうしようもなかったのだ。
けれど。
「彩……!」
「ところで」
「えっ」
「この前、北海道に行くって言った時に空港で見かけたんだけど。あの、高校生のような女の子たちを侍らせていたのは、一体何?」
「……は?」
全く身に覚えのない『侍らせる』という言葉に、貴樹は固まる。
「追っかけのことじゃないのか?」
天宮が事も無げに言い放ち、そこでようやく思い当たった事実に貴樹は青ざめた。
「まさかとは思うけど……あの日、見ていたとか?」
「……うん。貴樹は嫌だって言うから、こっそりと見送るだけのつもりだったんだけど……つい」
「あ、あれは、追っかけで、俺が好きで引き連れて歩いているわけじゃないよ!」
「ふうん」
微妙に冷たく返した彩に、貴樹は慌てたように立ち上がる。あまりにも勢いよく立ち上がったために、何だか視界がぐるぐるして眩暈がしたが、そんなことはかまっていられなかった。
この誤解を解かなければ、生きていけない!
「お、俺が好きなのは彩だけだから! だから、お願い! 俺のこと捨てないで!」
「恥ずかしいことを大声で言わないで!!」
彩は怒って怒鳴ったけれど、彼女がいなくなるかもしれないと思ったことに比べれば、全然怖くなかった。まだふらつく身体を騙しつつも彩に歩み寄って、彼女を抱きしめる。
「大好き、彩!」
彩は羞恥のために顔を真っ赤にして、貴樹を引き剥がそうともがく。それを見ていた周囲の面々が、アホな犬がいる、と思ったのは、間違いではなかったはずだ。
そして、ここから踏み出すのだ。
何もなければ出会うはずのなかった二人の世界の境界線を越えて、新しい一歩を。
―――君と、出会うために。