第一話 用済みの勇者
潮の匂いがした。
波の音。きしむ木材。頬に触れる、ざらついた毛布の感触。
ノアは目を開けた。
見知らぬ天井だった。
粗く組まれた梁。隙間から差し込む、灰色がかった光。
「ここはどこだ——」
そう言葉に出すと、体が異常に重いことに気づく。指一本動かすのも億劫で、頭の芯が鉛を詰めたように鈍い。
(……薬か)
舌の奥に残る、わずかな苦み。それでようやく思い出した。思い出して——奥歯を噛んだ。
「……ノア? あ、起きた……!」
すぐ横で、鈴を転がすような声が跳ねた。
金の髪――
片側で結わえたサイドテールが、覗き込む動きに合わせてさらりと揺れる。大きな瞳に安堵の色をいっぱいに溜めて、魔法使いの少女——コレットが、ノアの顔を見下ろしていた。
「よかった……ほんとに、よかった。丸一日、起きなくて……」
「あっ!おにいちゃん、おはよ!」
反対側から、ぴょこりと顔が出た。
こちらも、誰が見ても愛らしい少女——にしか見えないが中身は男だ。
幼馴染のリオ
ノアの胸元にべったりと張りついて、へらりと笑っている。
「くっつきすぎ」
ぺし、とコレットがリオの頬に手の甲を当てて押しのけた。リオが「ひどい!」と頬を膨らませる。
二人のやりとりを、ノアはしばらくぼんやりと眺めていた。
なぜ、この二人がここにいる。
なぜ、自分はこんな場所で寝ている。
問おうとした唇が、動かない。代わりに——記憶が、堰を切って流れ込んできた。
◇
あれは、栄光だったはずだ。
魔王を討った。七年の旅の果て、仲間たちが倒れていく中...ただ一人、あの玉座に辿り着いて、剣を振り抜いた。同じ目的をもった四人の勇者達も「無理だ」と故郷へ帰っていくなか、最後まで膝を折らなかったのはノアだけだった。
凱旋の日、王都は歓声に沸いた。花が舞い、民が名を呼び、王が「大勇者」の称号を授けた。婚約者である王女イリスディアが、完璧な微笑みで隣に立っていた。
——そのすべてが、嘘で塗り替えられるのにひと月もかからなかった。
「魔王を討ったのは、クロヴィス殿であろう」
どこからか、そんな話が流れはじめた。公爵家の跡取り、剣技において確かにノアを凌ぐあの美しい騎士が、いつのまにか討伐の立役者ということになっていた。ノアの功績は、静かに、しかし確実に、別の誰かの手へと移し替えられていった。
理由は、単純だった。魔王を一人で斬った男は、強すぎた。民にとって、英雄は称えるものであると同時に——恐れるものでもあった。そしてその恐怖を、近隣の四つの国が利用した。
『あの化け物を、どこかへやれ』
魔王領の資源を巡る駆け引きのなか、ノアという存在は邪魔でしかなかった。はじめは庇おうとした祖国ヴァレスも、四国同盟の圧力にあっさりと膝を屈した。
そして——褒美が、言い渡された。
大陸の最果て。罪人だけが流される、交易も作物もない不毛の地。元々はヴェント辺境伯領であった、大森林に阻まれ開発が進まず、使い道は果ての孤島ということもあり、犯罪者達を隔離している。まぁ地図の端の染みのような土地。それが、世界を救った勇者に与えられた報酬だった。
「ウフフ、ごめんなさいねノア?」
別れ際、イリスディアは囁いた。完璧だった微笑みが、はじめて、別のものに変わって。
「わたくし、あなたのこと……ずっと、無理だったの。平民の名もない孤児なんて」
その隣で、クロヴィスが肩を抱いていた。二人の距離が、何を意味するのか。ノアがそれを理解したときには——もう、送別の杯が差し出されていた。
苦い酒だった。
意識が落ちる間際、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
◇
「——ノア、戻ってきて。ここにいるよ」
コレットの声に、意識が引き戻される。いつのまにか食いしばっていた奥歯が、ぎり、と鳴っていた。拳のなかに爪が食い込んでいる。
憤り、恨み——あの二人を殺してやりたいと願った。あの国を滅ぼしたいと思った。ヴァレス王国全てを....
腹の底で、黒いものがぐつぐつと煮えていた。
「……なんで」
掠れた声が、ようやく喉から出た。
「なんで、お前たちまで来た。お前らは、残れたはずだろう」
コレットとリオは、追放の対象ですらなかった。残っていれば、まともな暮らしが続いたはずだ。こんな、何もない流刑地に——
「何言ってるの」
コレットが、呆れたように、けれど泣きそうな顔で笑った。
「あなたがいないところに、わたしの居場所なんてないよ」
「僕も僕も! おにいちゃんがいるとこが、僕の家だもん」
リオが、ぎゅうとノアの腕にしがみつく。
——ノアは、何も言えなかった。煮えたぎっていたはずの腹の底が、その一言で妙に静かになっていくのを感じた。
復讐。そうだ、復讐してやる。だが——その前に。
重い体を、ゆっくりと起こす。板張りの、粗末な小屋。窓の外には、灰色の海と、痩せた土地が広がっていた。
(まずは……生きるか)
二人を食わせていかねばならない。腹を満たし、屋根の下で眠らせてやらねば...
復讐は、それからだ。
ノアは立ち上がり、軋む扉を押し開けた。
——そして、足を止めた。
小屋の外をみた。痩せこけた土地のそこかしこに、人影があった。ぼろを纏い、落ち窪んだ目で、こちらを見ている。十、二十——いや、もっと...
流刑者たちだ。冤罪の者。罪を着せられた者。追われ、捨てられ、この地の果てに流れ着いた者たち。
その全員が、無言で、ノアを見ていた。
歓迎ではない。畏れと——隠しきれない、憎しみ。
誰かが、低く、吐き捨てた。
「……勇者様が、こんな掃き溜めに、何の用だ」
どこかで、聞いたことのある声が耳に響いてきたのだった...




