あなたと帰る家
結婚して一か月、私は夫に話したいことを、夕食の後まで取っておくようになった。
養育院で小さな女の子が初めて自分の名前を書けたこと。庭の鉢を動かしたら、窓辺に座ったまま花が見えるようになったこと。大きな出来事ではないけれど、ユリウスに聞いてほしいことは、毎日いくつもあった。
その日は、夕方に使いが来た。
帰りが遅くなるので、夕食は先に、と短い手紙に書いてある。私は食事を済ませ、家政婦に、夫の分は帰宅してから出してもらえるようお願いした。
それから小さな居間へ移ったのだが、持ってきた本は、いつまでも同じページが開いたままだった。
王都で見つけたこの家は、侯爵家の屋敷よりずっと小さい。二人で暮らすには十分な広さで、家政婦も料理人もいる。私は家の中を走り回って夫の世話をしているわけではないし、彼から何かを押しつけられたこともない。
ただ、夫は忙しい。仕事から帰ると、私が疲れていないか確かめ、無理をして起きていないでくださいと言う。私も、朝早くから働いた方を夜まで引き留めたくなくて、今日は特に変わったことはありませんでしたと答えてしまう。
そうして取っておいた話が、このところ少しずつ増えていた。
玄関で声がしたので、本へ栞を挟んだ。立ち上がったところへ、ユリウスが入ってくる。
「ただいま、フィオナ。遅くなりました」
「おかえりなさい。お食事は、これから用意してくださるそうです」
上着を預けてきた彼は、私の頬へ短く口づけた。結婚してひと月が経っても、まだ少し驚く。嬉しくて手を伸ばすと、彼も私の背中へ腕を回した。
「待っていてくれたんですか」
「はい。でも、先にいただきました。お腹がすいてしまって」
「よかった。冷めるまで待たせていたら、申し訳ないと思っていました」
安心した声を聞いて、私は顔を上げた。
食事は済んだし、まだ眠くもなかった。今なら、してほしいことをそのまま言えるはずだった。
「食堂で、ご一緒してもいいですか。私はお茶だけですが」
ユリウスは少し驚いた後、嬉しそうに頷いた。
「ぜひ。私も、あなたに相談したいことがあるんです」
彼が食卓につき、温め直した料理が運ばれてくる。私は向かいに茶器を置いてもらい、養育院の女の子の話をした。ユリウスはパンをちぎりながら、その子が前に字を逆さに書いていたのを覚えています、と笑った。
それが聞きたかった。一緒に見てきた子供のことを、一緒に喜んでほしかった。
「庭の鉢も、動かしたんです」
一つ話したら、続きが出てきた。彼は窓の方へ顔を向け、明日の朝に見ようと言った。
私はそこでようやく、自分がずいぶんお喋りをしたがっていたことに気づいた。
* * *
食事の後、彼は机から一通の手紙と、あの湖の冊子を持ってきた。
私は表紙を見ただけで椅子から身を乗り出した。角が少し丸くなった冊子は、引っ越す時に二人の本棚へ並べておいたものだ。
「湖の宿へ、空いている日を問い合わせていました。二人で出かけられそうな日が、やっとできそうなので」
婚礼からすぐには、旅行へ行けなかった。
半年間待った結婚式は、朝から最後まで、何をしていても嬉しかった。誓いの言葉を言う時、ユリウスの声がわずかにかすれたことも、指輪をした私の手をなかなか離してくれなかったことも覚えている。
その後には挨拶回りや彼の仕事があり、落ち着いたら行きましょうと二人で話していた。
「覚えていてくださったんですね」
「もちろん。橋のそばのお菓子を食べてから、丘へ行くんでしょう」
そこまで覚えていてくれたことに笑いながら、私は卓の上へ置かれた手紙を読んだ。
空いている日が二つ書かれている。早い方なら、二週間後だった。
「こちらの日に休みを取れそうです。ただ、養育院へいらっしゃる日と重なっているので、もう少し先の方がいいでしょうか」
確かに、その月の読み聞かせの日だった。
私は手紙を置き、壁際の暦を見た。訪問の日には小さな印をつけてある。その前の日には、何も書いていない。
「母と院の方に、一日早く伺ってもよいか相談してみます。皆さんのご都合がつけば、私はそちらで行きたいです」
「無理に変えなくても大丈夫ですよ。私は、先の休みでも」
その言葉に、つい頷きそうになった。けれど、ユリウスの手が、冊子の表紙に置かれているのが見えた。
ここへ行こうと話してから、何度も一緒に開いた本だった。
「ユリウスは、早い方がいいですか」
彼は私を見て、少し迷ってから頷いた。
「ええ。できれば、早く。朝から晩まで、あなたと一緒にいられる日が欲しいです」
その言い方があまりに素直だったので、私は困った。私ばかりが、一緒にいる時間を欲しがっているつもりだった。
向かいから手を伸ばして、彼の手へ重ねた。
「私もです。お夕食も、本当は一緒に食べたいと思っていました」
「待たせるのは悪いと思って、先にとばかり書いてしまいましたね」
「お腹がすいたら、先にいただきます。でも、今日みたいに、お茶でご一緒するのは好きです」
食事を待つことと、帰ってきた人の顔を見たいことを、私はずっと一緒にしていたのかもしれない。先に食べてしまった日は、おやすみなさいと挨拶して引き上げていた。
ユリウスは私の指を握り、その手を持ち上げて甲へ口づけた。
「それなら、話したいことは残しておいてください。私も、聞いていただきたいことがあります」
明日の勤務が遅くまでかかるかどうかは、今は分からない。だから、毎日必ず同じ時刻に食卓へつく約束はしなかった。
代わりに、私は明日の朝、一緒に窓辺の花を見てほしいと頼んだ。彼は、朝食を少しゆっくり取れそうです、と答えてくれた。
「それから、お休みに出かけたい場所があったら、私も誘ってください。養育院のことは、その都度お話ししますから」
「では、さっそく。フィオナ、私と湖へ行っていただけますか」
冊子を間に置いて、ユリウスが改まった顔をした。
あの夜、私の方から頼んだ時には、声が震えて仕方がなかった。この方が同じように何かを望んでくださるたび、私は、何度でもよい返事をしたくなる。
「はい。とても楽しみです」
彼は私の手を握ったまま笑い、それから、宿へ何を尋ねればよいかを話し始めた。私は冊子の地図を開き、早朝に橋まで歩ける距離かどうかも確かめましょうと付け加えた。
* * *
翌日、母と養育院へ相談の手紙を出した。
読み聞かせを一日前へ変えてよいと返事をいただき、ユリウスの休みも決まったので、宿へ予約をお願いした。家政婦には三日間の留守を伝え、帰宅予定の日の夕食を頼んだ。
出発前日の養育院では、ユリウスは仕事のため来られず、私が本を読んだ。
「熊の声、違うね」
読み始めてすぐに言われ、私は思わず本から顔を上げた。
母が後ろで笑っている。私も笑い、そうなの、今日は私の熊なの、と答えた。
「次には、いつもの熊も来ます。私の熊にも、お鍋を貸していただけますか」
最前列の子が、両手で見えない鍋を差し出してくれた。それを受け取るふりをして、私は続きを読んだ。
自分の好きな時間を過ごしてから、好きな人との旅へ行く。そのことが嬉しくて、帰りの馬車でも、明日持っていく旅行記のどこに栞を挟むか考えていた。
湖へ着いた日の午後は、宿の周りをゆっくり歩いた。
窓から湖が見える部屋へ戻ると、ユリウスはしばらく外を眺め、それから長椅子へ座った。私も隣へ腰を下ろす。
「静かですね」
「はい。もう少ししたら、夕食の支度ができるそうです」
彼は頷いたが、返事の後で、大きなあくびをこらえ損ねた。
私は笑って肩を寄せた。馬車ではずっとお喋りにつき合ってくれたけれど、昨日も朝から働いていた方なのだ。
「少し眠っていてください。お食事の前に起こします」
「着いたばかりなのに、寝てしまうのは惜しいです」
「明日も、一緒にいられますよ」
口にすると、私まで嬉しくなった。
ユリウスはそれなら、と長椅子の背へ体を預けた。私が旅行記を開くと、ここにいてくれますかと尋ねられたので、彼の手の届くところへ自分の手を置いた。
しばらくすると、その手の力が緩んだ。私は本から目を上げ、眠っている夫の横顔を見た。
養育院で出会った頃は、この方の休日がどんなものかも知らなかった。今は隣に座って、起こす時刻まで一緒に待てる。それだけのことを、何度も確かめたくなった。
* * *
翌朝の市には、焼いた菓子の匂いが漂っていた。
本に書いてあった干し葡萄入りの薄い焼き菓子は、籠の中に積まれていた。私は店の女性に二つ包んでもらい、その包みを持ってユリウスの方へ戻った。
「ありました。これです」
熱いうちに一つずつ食べると、端はさくりとしていて、真ん中の葡萄は甘かった。ユリウスも、これは朝から売り切れますね、と言いながら、もう一口食べた。
私は本に挟んでいた紙を見た。橋を渡る前に果たしたかったことへ、小さな印をつける。
「私より詳しい案内人がいますね」
「まだ、この橋の先は本に書いてあることしか知りません」
「では、確かめに行きましょう」
差し出された腕を取り、二人で橋へ向かった。
湖を渡る風は冷たく、私は襟元を押さえた。岸から見た時には細かった橋が、実際に歩くと、思ったより長い。途中で足を止めると、両側の水面が朝の光を返していた。
「本当に、上を歩いているんですね」
変な言い方になってしまった。けれどユリウスは笑わず、一緒に欄干の向こうを見てくれた。
「あなたが話してくれた時から、ここでこうしているところを想像していました」
私は彼の腕へ、もう少ししっかり手を回した。
指輪を選ぶ前の午後に、庭で一人で喋りすぎたと思った話だった。彼は、あの時から一緒に来ることを考えてくれていた。
島の広場からは、湖を見下ろす丘へ道が続いていた。
ユリウスはその入口で立ち止まった。細いけれど、人の歩いた跡がある。案内の札には、先に見晴らしのよい場所があると書かれていた。
「行ってみたいです。少しだけ」
私から言うと、彼は嬉しそうに頷いた。
それでも、登り始めると平らな道とは違った。話す間隔がだんだん空き、途中の木陰で、私は足を止めた。
「休んでもいいでしょうか」
「もちろん。あそこに腰を下ろせそうです」
道端の腰掛けへ並んで座り、持ってきた水を飲んだ。彼は急いで先を見に行こうとはしなかった。
私が呼吸を整えている間、落ちていた木の実を一つ拾い、こんなに細長い実もあるんですね、と見せてくれた。
「この木の実を見るのは、初めてですか」
「ええ。木のことは、あなたの方が詳しいかもしれません」
「これなら分かります。実家の庭にもありますから」
名前を教えると、彼はその実を掌で転がして、覚えておきますと言った。彼が実を木の根元へ戻した時、私もそちらへ目を向けた。
低い枝の間に、さっき渡った橋が見えていた。
「ここからでも、よく見えます」
ユリウスが私の指す方へ顔を向けた。二人で座って眺めるには、ちょうどよい場所だった。
もう少し先まで行ってもよかったし、このまま戻ってもよかった。私は彼の肩へ頭を預けた。
「もうしばらく、ここにいたいです」
返事の代わりに、彼が私の手を取った。やがて、私もです、とすぐ耳元で聞こえた。
私はその手を握って、湖の上をゆっくり動く雲の影を見ていた。
* * *
三日目の夕方、王都の家へ戻った。
馬車から降りると、居間の窓辺に鉢植えの花が見えた。あの朝、出かける前のユリウスと並んで見た花だった。
玄関を開けてもらい、二人でただいまと言う。家政婦が迎えてくれて、食事はもうすぐできますと知らせてくれた。
荷を預け、部屋で外出着を着替えてから居間へ行くと、ユリウスは本棚へ湖の冊子を戻していた。
「次に行きたい場所も、ありますか」
振り向いた夫に、私は少し考えた。
旅行記には、まだ知らない町がいくつも載っている。でも、今日はまず、ここでしてほしいことがあった。
「今は、私の隣へ来ていただきたいです」
ソファへ座ってお願いすると、彼は本棚を離れた。私の隣へ腰を下ろし、肩を抱いてくれる。
私はその胸に寄りかかってから、夫を見上げた。
「帰ってきても、一緒にいられるんですね」
ずっと分かっていたことなのに、旅から戻ったら、改めて嬉しくなった。馬車で送り届けてもらって、この玄関で別れなくてよい。
ユリウスは私の頬を撫で、少し屈んだ。
「これから食事も一緒です。明日の朝も」
私は頷いて、自分から口づけた。
彼の腕が背中へ回る。その手に支えられて、もう一度唇を合わせたところで、食事の支度が整ったと扉の向こうから声がした。
「今、行きます」
ユリウスが返事をして、私たちは顔を見合わせて笑った。
立ち上がり、二人で食堂へ向かう。今日は湖の話をしようと思っていたのに、卓へつくと、窓辺の花に新しい蕾がついていたことから話し始めてしまった。
向かいで聞いていたユリウスが、明日はもう少し鉢をこちらへ寄せましょうかと言う。
「はい。朝、お手伝いをお願いしても?」
「喜んで、フィオナ」
名前を呼ばれて顔を上げると、私の好きな人が笑っていた。私も笑って、彼の皿へパンの籠を近づけた。
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