その二十
三角屋根の屋根裏部屋は当然三角形の空間になる。その屋根と天井板が接するスレスレのところの一角に屏風囲いがしてあって、その上からぼんやりと光が漏れている。
そこに誰がいるのか、考えるまでも無かった。暗闇の中に浮かび上がる、シュラフだったり毛布だったりに包まれて寝息を立てているのは、花耶さん・珠美ちゃん・恵美ちゃん。芋虫のようになった寝具の塊の大きさですぐ判別できる。
よって、屏風の向こうに誰かいるとすれば、あと一人しか考えられない。
よし、予定変更だ。夢の中の住人たちに気を遣いながら静かに夜明けを待つより、目覚めている者同士で一緒に時を過ごすほうが良いに決まっている。
屏風のそばに歩み寄り、驚かせないよう、そっと声をかける。
「真耶さん、入っていいですか?」
と。たぶん、真耶さんは断らないけど。
「ダメ」
……あれ? なんてことは思わない。だって、
「なんて、うそ。入って入って」
って、言ってくれるに決まってるから。
「お、おはようございます」
「おはよ」
例のもこもこ女子力満開ルームウェアにウサ耳のついたピンクのパーカーを羽織り、ウサギの足をかたどったスリッパをはいて、ふわふわのクッションに着座。
そんなメルヘンな格好に似合わず、マグカップを両手で包むように持って口にしながら読んでいるのは何かの教科書か、専門書だろうか? おそらく、ノートと鉛筆がその隣に整列してところを見ると、論文の推敲でもしているのだろう。
「あ、座って座って? 野草茶でいいかな?」
ぼくの方へ振り向くと、フードのウサ耳が左右にふわふわ。
「ありがとうございます。お茶、いただきます」
この野草茶は真耶さんが、天狼神社の境内と嬬恋家の庭で集めた草花を干して作ったもので、カフェインが入っていないのが特徴。飲みやすい。お茶請けの塩豆もお手製だ。
「ずっと起きてたんですか?」
「おんなじ。ヒメちゃんと」
真耶さんは途中を省いて答える。ぼくが急に目覚めて眠れないことも、そのためにのこのこやって来たことも、お見通しなわけだ。
「あたしの方が、一時間くらい早かったかな。だいたい、あの子たちが解放してくれる頃合いは分かるから、その辺で目覚めちゃうのは仕方ないよね」
「というか、ぼく的には、あんな押しくらまんじゅう状態で寝られる方が不思議です、逆に」
「慣れちゃったもん。ずーっと、あの子たちのお姉ちゃん役だったし」
神使になるということは、自らが崇め奉られる対象になることでもある。真耶さんはそういう立場にいながら偉そうなところが全くないので、むしろ余計に尊敬を集めるし、手に届かない存在というより、親しみやすい人物として人々からは捉えられる。
そしてもとより、嬬恋家の一族や家族のあいだでは身近な位置にいるぶん、親しみと愛情をより強く、かつストレートに真耶さんへとぶつける。それが高じた結果、真耶さんが甘えられすぎというか、むしろ可愛りすぎというか……。そんな具合だから、ぼくを快く屏風の中に迎え入れてくれることも予想通りなわけで。人を快く自分の元に招くことに全く抵抗がみられない。
一匹狼という言葉もあるけれど、それとは対極にいるような真耶さん。それでも、オオカミの神使だ。
オオカミを神使に迎える神社が複数あるのには、肉食という特徴から来る強さや勇猛さといったイメージが影響していると推測される。その一方で、天狼神社のごとく人間の少女がオオカミに取って代わるとなれば、古くからある女性のイメージとの不整合が生じる。
オオカミという生き物の印象重視なら、少年を神使の役に付ける手もあったろう。
だが「伝統的」な男女の関係性からして、男子は神官、女子は巫女、そう役割を振るほうがしっくりきたのかもしれないし、たとえ相手が神とはいえ、男を「使い」の身におくのは良しとしない価値観があったのかもしれない。
まして木花咲耶姫という女神の御使である。神話では相当に勇猛果敢な逸話を残す神様だが、そうだとしても女性に男性が仕える形を昔の人は嫌ったのか(少なくとも数百年前の日本のではあり得ることだ)天狼神社における神使のオオカミは雌だったと伝えられる。
ゆえに、雌のオオカミが神使から神に昇格したあとの役目を務めるのも、必然的に女子であるべき、となる。
ま、それはそれとして。
「お姉さん役、ですか。でも、ずっとだと疲れませんか」
ねぎらいの意味も含めてぼくは尋ねたのだが、
「え? 全然疲れないよ? だって、あたしだって楽しんでるトコあるし」
と、全く苦にしていない様子。そしてさらに、こうも言った。
「この役回りに慣れちゃってるし。今さら自然のままにとか、本来のポジションに、とか言われても困っちゃうよ」
それでもなお、心配になってしまうこともある。真耶さんは村じゅうの人々から尊敬をあつめる存在で、本人もそれに応えようと品行方正に生きている。
でも、
「人のためになりたいとか、そういうことじゃ無いよ。あたしは、人が喜んでくれるのが嬉しいの。だから結局はあたしのためってこと」
真耶さんは、こんなことを前に言ってくれたことがある。なるほど、それは一理あると思うし、人の善意ってそういう面も大いにあるとは思う。
ただ真耶さんの場合、自分を完全に打ち消して、百パーセント利他的だよね、としか思えない事をたまにする。まるで偽善という言葉の「偽」という字を知らないかのように。
たぶん真耶さんは、神使の立場を今でも務めているということについても、それが村の人たちのためだから、と思っているんだ。
真耶さんは、いま担っている役目は自分のためだと言う。神使の役目も、姉としての役目も。それは真実でもあるだろう。
でも真耶さんは他人のため「だけ」に何かを出来る人だというのも否定できない。人間、AかBのどっちかだけに傾いて行動を決めるなんて単純な生き物ではないだろう。
天狼神社の神使は、遅くとも昔で言う元服の頃までにはその任を解かれていた。新たな神使が天から遣わされる、すなわち後を継げる条件を持つ女児が産まれてくることで、その地位は継承される。それだけ昔は子だくさんの家庭が一般的だったのだろう。
ところが少子化の傾向が、神使ひとり当たりの任期を長期化させてしまっている。現に真耶さんが二十代になってもなお、新たな神使は授けられていない。
真耶さんは大学院の修士論文の作成に忙しい。そういう年齢だ。もともとマメな性格なのでおおよそ出来てはいるようだが、細かいところを詰めていくとキリが無いらしい。
「一本、新しい論文が出ただけでそれまで積み上げたものがひっくり返ったりもするから大変なんだよね」
そう真耶さんは言うが、その試行錯誤も楽しんでいるように見える。もともと勉強が好きなのは、論文に取り組んでいるときの充実した表情を見れば分かる。
「真耶さん、後期には進むんですか?」
大学院には修士課程と博士課程、または前期・後期と分ける真耶さんの修士課程、すなわち前期は、この論文が論文として認められれば修了となる。
その後、後期課程に進むかどうかは人によって判断が異なる。修士号をもらえれば学部卒よりハクは付くし、博士号はなかなかの難関であることも多いので、修士号をとった段階で何らかの職につく人も少なくない。
「うーん、まだわかんないな。後期も行きたいけど、でもそれってあたしが一番したいことなのかな? ってちょっと思っちゃうし」
真耶さんはまだ迷っている。学問以外にも、したいことはあるということを、ぼくは察している。少なくとも、これから何をして生きていくかの選択肢は山ほどある。
だからこそ、こんな言葉が真耶さんの口からも出てしまう。
「でもそれだったら、学部出た時になんでやらなかったの、って話でもあるでしょ? そこが悩みどころ」
それは一理ある。真耶さんは、学部生のとき同級生と同じタイミングで就活を始めたのだけど、そこから大学院進学に目標を変えた。
決して、大学院進学は「仕方なく」とかではない。けれど他にもやりたいことがあったことも聞いているし、そのために就活をしてきたことも知っている。
でもぼくから言わせれば(口には出さないけど)どうでも良いような理由により、それを断念させられたことだって、ぼくは知っている。
だから、ぼくは答えに窮してしまう。
二十年を超える長きにわたって一人の神使がその役を務めるという深刻な後継者不足。そこに少子化が営業していることは否定出来ないし、まして神使は女子でなければいけない。そもそもこの条件がある限り、ざっくり言って一族が授かった赤子のうち、およそ半分は性別によって「ただの人間」となる。計算上。
かくも神使の条件が狭いとなれば、神使が不在となってしまう事態も生じうるし、過去にそういう事例もあった。
もちろん、神使がいないというのはこの神社にとっては非常事態なので、神使の条件が緩和されるのだという。だが、そんな時でも絶対に超えてはならない一線はある。それが、
「神使は女子であること」。
だが、もしもの話。
神使が長らく不在であった時、そこに授かった子どもがもし男子だとしたら?
この「もしも」への答えは、
「存在しない」
言い換えれば、
「それはあり得ない」。
——
天の神とて、神使の不在をそのままにしておくはずがない。出来る限り早く、次なる神使をこの世にお授けになるに違いない。
したがって、一族の者が胎内に命を宿したならば、その命は如何なる場合においても、
女子である。
天狼神社の神使の座が長らく空位となっていたとき、真耶さんはこの世に生を亨けた。産まれた子の性別は取り上げた助産師の口を借りるまでもなかった。
嬬恋真耶。性別、女。
ただし、宗教上の理由による。




