第5章 17.フェニーチェの素顔
「いやっ…、来ないで……」
(こんな恥ずかしい姿…人に見られたくない…、ましてやリグなんかに……)
フェニーチェはリグから1センチ1ミリでも逃げようと、足元が覚束ないまま後退りながら首を後方に背けた。
しかし、フェニーチェのそんな切実な思いとは裏腹に、リグはじわりじわりと彼女との距離を縮める。
「お願いっ……見ないでぇ…!」
フェニーチェは潤ませた瞳を目元から涙が飛び出る勢いで強く閉じて、悲痛な思いで哀訴する。
ところが……
ファサッ…
次の瞬間、彼女の上半身から膝辺りまでが、柔らかで肌触りの良い感触と程良い人肌の温もりに包まれた。
リグが自身の着ていた厚地のコートを彼女の肩にそっと掛けたのだ。
「え…どうして……?」
「さすがに今の時期、この格好じゃキツイだろ。風邪引いちゃうぞ?」
「で、でも…、こんなことしたら叔父様に……」
「大丈夫だ。俺の経験上、父上がここに来るのは大体2時間後…、それまでは一度も見周りには来ないよ。最後、父上が来た時だけ、脱いどきゃいいんだ」
リグに対する羞恥心は消えず、寒さも相まって頬を真っ赤にしながら俯いたままのフェニーチェだが、一方で自分の元に現れてくれた彼に心を許し始めたのも事実だった。
「これからまだまだ長いし、立ちっぱなしじゃしんどいぞ?、とりあえず座ろうぜ。縛られて手が使えない時は、全部の体重を足のつま先にかけて、ゆっくりしゃがんでいったら上手いこと座れるからさ」
リグに教えられた通りに、フェニーチェは何とか尻餅を着くように地面に体を下ろした。
「随分と手馴れているのね…」
「そりゃまあ、俺ぐらいになればな!」
「自慢して言うことじゃないでしょ…」
アルテグラから罰を受けた経験をあたかも武勇伝のように話すリグを見て、フェニーチェは呆れたように苦笑いをした。
「あ、そうだ、体冷えてるだろ? これ飲めよ」
そう言ってリグが持参した鞄から取り出したのは、ポットに入ったホットミルクとパンだった。
手が使えないフェニーチェのために、リグはカップにミルクを注ぎ、彼女の口にカップを付けて溢さないようゆっくりと飲ませる。
さらにパンを一口大にちぎって、しばらく何も口にしていなかった彼女に食べさせた。
手を縛られて失禁した状態で、馬鹿にしていた男子に物を食べさせてもらうという何とも倒錯的な状況に、フェニーチェの頑冥な自尊心は心の中で轟音を立てて崩れ去った。
それでも…
「おいしい…」
冷えた体に染み渡るミルクの温かさ…、飢えた口一杯に広がる仄かなパンの甘み…、そして再びやり直すための勇気とモチベーションを与えてくれるリグの優しさ…
下らない意地や先入観はいつしかフェニーチェの心の内から完全に消え去り、彼女は穏やかな表情で素直な気持ちを言葉にしていた。
それからしばらくして…、フェニーチェがリグに対しては珍しく控えめな様子で尋ねた。
「ねえ…、何でわたしにここまで優しくしてくれるの? わたし、あなたに対して色々酷いこと言っちゃったりしたのに…」
「そりゃあ、困っている奴がいたら助けるだろ…。それがましてや女ならな…」
「……アンタって本当はいい人だったのね…」
「なんかそれと似たようなセリフ、大昔にクラリスに言われたような気がするなあ…。まあ、俺のこと見直したなら、今後は俺のこと『お兄様』とでも呼んで、敬ってくれよ」
「バッカじゃないの? 嫌よ、そんなの…」
「おい、お前言ってることバラバラじゃねえか!」
「だって、アンタわたしより子供っぽいし、年上って感じがしないもん。『リグくん』でいいでしょ? お姉様もそう呼んでることだし…」
「まあ、ずっと『アンタ』呼ばわりに比べたらマシか…」
諦め顔で苦々しく笑って退けたリグは、そのまま言葉を続ける。
「でもさ、これでわかっただろ?、父上怒るとめっちゃ怖いって。お前ブルブル震えてたじゃん」
「アンタはいつも一言多いのよ!」
フェニーチェは手を縛られた体ごと、タックルをするようにリグにぶつけた。
怒ったと思いきや、今度は一転、小幸せそうに薄っすらと微笑む。
「確かに怖いけど…、でも…わたしは怒られて…、ちょっと嬉しかったかな……」
「どういうことだよ…?」
「だって、わたしのお父様、わたしのこと全然叱ってくれなかったんだもの…。でも、叔父様はちゃんとわたしのことを叱って罰まで与えて…。罰は嫌だけど…最初に会った時言ってたように、本当にわたしのことを娘だと思ってくれてるんだなあって……」
「そうか…お前も色々とあったんだな…」
こうして、どこか蟠りのあった二人は完全に打ち解け合い、他愛のないお喋りをしながら充実した罰の時間を過ごした。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
フェニーチェが縄に繋がれて、もう2時間が経とうとしていた。
「そろそろ時間か…」
リグは名残惜しそうにそう呟くと、フェニーチェをゆっくりと立たせコートをそっと脱がす。
「あと数分…頑張って耐えろよ」
「うん…」
「じゃあ、俺そろそろ行くから…」
するとフェニーチェは、去ろうとするリグを背後から真っ直ぐな瞳で見据えて…
「リグくんっ…!」
フェニーチェは突然、感極まったように声を上げた。
彼女からいきなり聞き慣れない呼称で呼ばれて、びっくりしたリグは咄嗟に振り向く。
「ありがとう…!」
そう大きな声で礼を言ったフェニーチェの顔は…、これまでリグどころかクラリスにすら見せたことがないであろう、一切の邪念のない純真な笑顔だった。
「本当は父上の入れ知恵なんだけどなあ…。まあでも、いいモノが見れたからいいや」
廊下でそう独り言を呟きながら…、屋敷に戻って来たリグはとても上機嫌な様子だった。
程なくして、アルテグラがフェニーチェの元にやって来て、縄を解いた。
「叔父様…ご迷惑お掛けして申し訳ありませんでした…」
「私になんぞよりも、お前が謝るべき人間は他にいるだろう。早くその元に行ってあげなさい…」
「はい…」
「あとだ…今この場では私はお前の叔父ではない、父親だ」
「……はいっ…お父様……!」
涙を流しながら力強く答えたフェニーチェの心は、この家の人々への情愛に満たされていた。
そうして、彼女が屋敷内に入ると、クラリスとフェルカ、リグが出迎えてくれた。
「フェニーチェちゃん……」
クラリスがフェニーチェに引け目を感じつつも声をかけようとするが、一歩先に言葉を被せるようにフェニーチェが発言していた。
「お姉様、ごめんなさい!」
フェニーチェは、手を重ねて腰をしっかりと曲げて、芯の強い声でクラリスに謝罪をする。
クラリスは心の陰気が霧散するように表情を綻ばすと、頭を下げているフェニーチェの目線に合わせるように膝を曲げて優しく言葉をかけた。
「いいのよ、フェニーチェちゃん…、頭を上げて? 私の方こそ、手を上げてしまってごめんね…」
「いいえ…いいんです…。痛かったけど…その分、お姉様の愛を感じられましたから…」
フェニーチェは言葉を紡ぐようにいじらしく想いの丈を伝えた。
「フェニーチェちゃん…」
クラリスは彼女の幼気な健気さにすっかり心を打たれたようだったが…、その時だった。
「でも…、わたしを打ったことを悪いと思うんでしたら、わたしのお願いを聞いてください」
「えっ…?」
「わたしと一緒にお風呂に入って、今夜一緒に寝ていただけませんか?」
そう勿体ぶるように言ったフェニーチェの顔は、クラリスがもはや懐かしいとまで思った無邪気であざとい…、いつもの彼女の笑顔だった。
「もう…しょうがないなあ…。いいわよ、さあ行きましょ」
クラリスは一本取られたように力なく微笑んで、冷えた体のフェニーチェを風呂へと連れて行った。
その様子を後ろから眺めていたリグとフェルカは、互いに顔を合わせて軽く笑いを交わした。




