第2章 4.裏切られた想い
そうして今、私は屋敷内の廊下で、一人佇んでいる。
一人で勝手に思い詰めて、居た堪れなくなって、あの場から衝動的に逃げ出して来たわけだが、時間が経ち平静を取り戻すにつれて、私は自身の取った行動の愚かさと未熟さを痛烈に恥じていた。
アルタスは確かに口は悪いが、決して間違ったことは言っていない。
あの場は、むしろ私の方から語らなければならなかったのだ。
それなのに、たかが自分よりも小さい男の子の言葉程度で、動揺させられて…。
本家の次女としても、しっかりしなくてはならないのに、本当に情けない…。
とりあえず、いつまでもこんなところにいても仕方がない…、皆のところに戻ろう…。
そう決心した時だった。
廊下の対向からピッシリとタキシードを着こなした、一人の長身の若い男性が歩いて来る。
それは……、長男のトテムだった。
ここで、フェルカとリグが彼のついて私に語った言葉が、脳裏を過る…。
『性格は最低最悪』
『距離を置いた方がいい』
…………………………
正直、今このタイミングでは会いたくなかった。
それでも、一方で私は信じていた。
あの二人の兄なのだ…、そしてとても厳しいがとても優しい、あのお義父様の息子でもある。
そんな人が根っからの悪人なわけがない…と。
彼が歩を進めて、すれ違おうとした瞬間に、私は彼に声をかけた。
「ごきげんよう、お兄様…」
やはり、いつものように無視されるか…、そう思った時だった、彼は私に言葉を発した。
しかし、その言葉は……
「馴れ馴れしく僕に話しかけるな。何が『お兄様』だ…。汚らわしい奴隷の娘め!」
その彼から吐き出された辛辣な言葉は、確かに私の耳に入って来た。
しかし、私の意識がそれを受け入れるのを拒絶した。
私の自我を防御する理性を狙い撃ちするかのように、彼はさらに罵声を浴びせ続ける。
「父上をどう誑かしたかは知らんが、我が家に潜り込んで、この家を乗っ取ろうとする魂胆だろう。そうはさせんぞ…。僕が家督を受け継いだ時には、必ず貴様をこの家から追い出してやる…。覚悟しておけっ!」
「そんな……私はそんなつもりじゃ……」
咄嗟に掠れるような小さな声で、そう言葉が漏れたが、それはトテムの耳には全く届かず、仮に届いたとしても、彼の心には全く行き届かなかっただろう。
彼の悪辣な言葉は私の理性の壁をいとも容易く打ち破り、私の自我は音を立てて崩壊していった。
「二度とその醜い姿で僕の前に現れるなっ!」
彼はそう言い捨てて立ち去って行った。
私はその場で、そのまま立ち崩れた。
とても悲しく辛くやるせない出来事だったが、とても衝撃的で戦慄的な出来事でもあったので、涙すら出なかった。
『奴隷』というトテムの口から出た言葉に、ここ最近はほとんど意識の表層に表れなかった、ガノンでの悍ましい記憶がフラッシュバックする。
「はぁ…はぁ…はぁ……」
心の中が、恐怖と不安と悲哀とで混沌として、私はただただ打ち震え、動悸が激しくなり過呼吸に陥った。
私はこの家にいてはならない存在だったのか……。
フェルカやリグを始め、この屋敷の皆が良くしてくれているので、私は皆に受け入れられていると思っていた。
この時、それは思い上がりに過ぎなかったことを、私は痛烈に思い知らされた。
それから、どれほどの時間が過ぎたかはわからないが、私はその場に立ち崩れたまま佇んでいた。
すると遠くから…、もはや懐かしさすら覚える、聞き慣れた声が聞こえて来る。
「クラリスちゃーん、どこなのー?」
「おーい、クラリスー!」
フェルカとリグの声だった。
きっと、あれから私のことを探し回っていたのだろう。
今、あの二人の前でこんな姿を見せたら、勘違いをされて余計に面倒なことになる。
何より、あの子たちが私のことで言い争う姿だけは、もう二度と見たくない…。
トテムに心を打ちのめされた私は、残っている気力を振り絞って、精いっぱいの空元気で、駆け付けた二人を迎えた。
「クラリスちゃん、よかった〜!、探したのよ……」
「クラリス大丈夫か? あのアルタスの野郎、マジで許せねえ…。後でボコボコにしてやる!」
「こらっ、リグ! そういうこと言わないの。余計にクラリスちゃんが困るでしょ!」
二人が私のことを、本気で心配してくれていることはよくわかった。
「ごめんね、リグくん…、もう大丈夫だから…。私のためにあんなに怒ってくれたんだね…ありがとう……」
「べ、別にお前のためじゃねえよ…。たまたまあいつにムカついただけだ…」
私が力なく礼を言うと、リグは不自然に視線を逸らして、辿々しく言い訳をする。
「お姉様もごめんなさい…。ご心配お掛けして……」
「ううん…いいのよ。少しは落ち着いたようね。どう、戻れる…?」
「はい…大丈夫です……」
本当は全く大丈夫ではないのだが、私がいなければ、お義父様の顔に泥を塗ることにもなりかねない。
二人の声を聞いて、ほんのわずかだけ気が楽になった私は、彼らと一緒に大広間に戻った。




