冷たい温もり3
部活も終わり、選手達はシャワーを浴び終えて着替え始めている頃だろうかと、斜陽の中で、プールサイドの掃除をしながら感慨に耽っていた。
隣にいる麗奈は顔を苦悶に歪めて無言でブラシを擦っている。その額にはたっぷりと汗をかいて肩で呼吸をしている。
これは私達の日課だった。部活終わりには一年のマネージャーが必ずプールサイドをブラッシングする。先輩もそのまた先輩も、ずっと前の先輩達からの伝統だそうだ。
伝統に理由づけするのもどうでもいい気がするけれど、及川さん曰く、選手の苦しみを少しでも理解できるように、広いプールサイドを数少ないマネージャーで掃除するのだそうだ。
だからと言って、優しさがないわけではなかった。
以前までは素足のままでやり、柔らかな肌とザラザラとした床が触れ合って足の皮が剥けていたようだが、今は及川さんのおかげで、外履き用に使っていないサンダルなら履いてやっていいことになっている。
長い間前かがみになってブラシを擦るから腰が痛くなって、伸びをしながらやる。そうしていく内に時間がますますかかって、汗もじっとりかく。これからは日照時間も長くなるからこの苦しみが伸びていくのだと思うと、疲労感がより増えた気がする。
「だいぶ日焼け止めの塗り方上手くなったね」
麗奈は私とは比べられないほど辛いらしく、顔を歪めながら言った。
「何度もやってるから、少しは上手くなるよ」
私は自分の顔が見えないから分からないけど、最初よりかはマシになったのは分かっている。
麗奈は力無く、「そうだよね」と言って力なく笑う。
死にかけている麗奈が肉体労働をして体に鞭打つ姿は、痛々しくてとても見ていられるものではなかった。
「休んでて良いよ。もう半分は終わっているから」
いくら麗奈に恐怖を抱くことがあると言っても、今の麗奈には同情せざるを得ない。
「大丈夫、私はやれるから」
「こんなところで命をすり減らしてもしょうがないよ」
「それでもやらなきゃいけないの。例え明日死ぬとしても、普通のことを普通にやること。だからこそ今日を生きることに意味が生まれるの」
鬼気迫る麗奈に圧倒されつつも、私には麗奈が頭を抑えて蹲る姿が浮かんで、心配になる。
「私が心配なの。だから休んでて欲しい」
言ってから私はお父様のことと生きる実感を得るという望み以外の望みがあることに気がつく。
どうやら、私は麗奈に死んでほしくないようだ。
けれど、それがお父様のためになのか、単に麗奈に思い入れを持ち始めたのかは定かではなかった。
「分かった。でも、せめて小夜のそばにはいさせて」
「うん」
麗奈は白い壁に立てかけるようにしてブラシを置いて、掃除している私の隣に立つ。私は麗奈に気にせず、元どおりに床掃除を始める。
しばらく掃除をしていると影が伸びてきたおかげもあって、体育館の影があるところまで掃除が進む。日に直接当たらなくなれば、時折吹く風が汗で湿った体を冷やしてくれた。
余裕ができると、麗奈と何も話していないことに変に気をとられる。頭痛こそないものの、疲れているだろうから言葉がなくなるのは分かるけれど、夜が近づいているこの場所で二人きりになれば嫌でもいつもしていることを思い出す。だから、私は震えがくる前に麗奈に話しかける。
「及川さんと平岡さん、あの二人の関係は本当に壊れるの?」
「どうしてそう思ったの?」
麗奈の顔は涼しげに笑っているが声に覇気がなく、日陰にいるせいもあって肌が土気色に見え、平静を装っているだけにしか見えない。
「さっきの仲の良い姿を見れば、誰だって二人の関係がいつまでも続いていくように思うよ」
麗奈は少し静まり、おもむろに口を開く。
「小夜はさ、前に喫茶店で言った言葉覚えている? いつまで経っても変わらないもの」
「心と心の繋がりでしょう」
「そう。みんな本当は心と心が触れ合い、お互いのことを理解しているはずなの。それなのに、その繋がりに多くの人が気づかないか、何かしらの理由で自分の心が邪魔して気づかないふりをする」
麗奈はいつもの調子を取り戻したように、流麗に言葉を紡ぐ。私はその言葉の流れを止めないように、相槌を打つ。
「私はね、小夜、病気になって以降、もうじき死ぬかもしれないと、毎日思って震えていた。その時に、誰かの心にいたいと思った。私が死んでも誰かの心に私が巣食うことができるなら死んでも良いかも知れないと思ったの。だから、他人との繋がりがよく分かる」
「だったら、麗奈はあの二人とも繋がっているの?」
「そうだよ。だからこそ、私には分かるの。及川さんも平岡さんも本当は一人なんだ。及川さんは大人しい女の子なら誰でも良くて、平岡さんは自分の地位が欲しいだけ。可哀想な人達だよ」
私はさっきの領分の話を思い出した。
「でも、さっきは領分があるって」
「あの人達は別だよ。あの人達は私達の敵だから。敵のことは味方以上に知らないと」
麗奈は薄く笑った。
私には麗奈の及川さんと平岡さんに対しての見解が正しいのか確かめる術がなかった。でも、麗奈の一言一言にはどこか重みがあった。麗奈の命の重さそのものが言葉に乗っているように思えた。
「必ず終わりの日は来るんだね」
「うん、前にも言ったでしょう、人が独りぼっちなら必ず闇に落ちるようにできているから」
時間も相まって、宵闇に佇立する廃病院が私の脳裏に浮かんだ。
東の空を見ると、赤紫に色が変わている。
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次話は4/18に投稿予定です。




