水の囁き2
昼休みの教室は意外にも人が少ない。食堂に行く子や屋上、中庭のベンチで昼食を取る子が多く、昼休みはいつもの半分程度に人が減った。それでも教室は、各人の弁当から溢れる食べ物の匂いが蔓延している。
私と麗奈と真奈美はいつも窓際の席、私と麗奈の席に、真奈美がやってきて昼食を取っていた。
机の上にそれぞれのお弁当が広げられると、麗奈のお弁当が一番健康に良さそうに見えた。
真奈美のお弁当はその背丈と体格に見合わず二段の大きなお弁当で一つの段に肉類、卵焼きとほんの少しの野菜が入り、もう一つの段にはお米と梅干しがのっかている。私のお弁当は自分で毎朝作っているために時間をあまりかけず、前日の残り物が大半なのでどうしても偏りが出てしまう。
私達のお弁当に比べて麗奈のお弁当は、野菜中心のお弁当で肉はなく、魚が一切れ入っていて体には良さそうだった。ただ、麗奈自身があまり食べられないから量自体は少ない。
「いつ見ても健康に良さそうだよね、麗奈のお弁当。お母さんが健康志向なの?」
真奈美は小さな口をおかずでいっぱいにしながら、リスのようにもごもごさせて言った。
食事の時はいつもの臆病な気質がどこかに消えてしまったように、恥じらいもなく食事する姿に私は三大欲求の三大欲求たるいわれが分かった気がした。
「そう、私昔から体が弱かったから少しでも体質が変わるようにって、食べ物も体に良いものを選んでいるの。でもちっとも良くならないからその考え方が良いのかは分からないけどね」
私はお父様が私に何を食べさせたのかを一瞬想像してみたけれど浮かばずに、代わりにお風呂場でたくさん飲み込んだ水のカルキ臭さを思い出す。
「美味しいものをたくさん食べられないのは辛いよね。私も食べ物屋さんに行ってコース料理を頼むと量が決まってて、何度も辛い思いしたことあるから分かるよ」
口に空白を作らないように真奈美は、次々におかずとご飯を口に放り込みながら話している。
「真奈美はそんなに食べて太らないの?」
心底麗奈に同情している真奈美に私は問いかけた。
「きっとわたしの燃費が良いから太らないんだよ」
少し考えながら、真奈美は自信ありげに答えた。
「燃費が良かったら太ってしまうじゃない。燃費が悪いから太らないの」
麗奈が笑って指摘すると、真奈美も朗らかに笑った。
「小夜のお弁当はわたしのお弁当よりかは体に良さそうだし、量も普通だよね。お母さんが作っているの?」
「ううん、自分で作っている」
「毎朝大変じゃないの?」
「朝は少し早く起きるから大変と言われれば大変かもしれない。でも、お弁当に入れるのは昨日の残り物がほとんどだからそんなに大変じゃない。むしろ明日の昼ご飯が決まるから、夜に何を作るのかを考える方が大変」
「えっ、夕ご飯も自分で作ってるの」
真奈美はまるで異文化を見ているかのように驚いた後、すごいと感動をあらわにする。その様子を温かく見守っていた麗奈が口を開く。
「意外とたくましいのね」
「生きていくってそういうことだから。生き物を殺して、食べられる場所を取り出して、食べやすく切って、味付けして、火を通して、食べる。私がしているのはその一部だけど、私が作らなかったら誰も作ってくれないからそうしているだけ」
私の答えに麗奈は、怜悧な瞳を向けて興味ありげに笑っている。
「お父さん、お母さんがそういう教育方針なの?」
真奈美も興味ありげな視線を向けながら聞いてきた。
「ううん、一緒に二人で住んでいる叔母さんが帰ってくるの遅いから私が作らなければいけないってだけ」
「えっ、叔母さんってお父さんとお母さんは?」
真奈美はさっきよりも驚いた。
「二人とももう死んだ」
私が首を横に振りながら答えると、今まで次々に口まで持っていった箸の動きを止めた。
「ごめん……変なこと聞いちゃったね」
真奈美はいつもの臆病気質が戻ってきて、顔をうつむかせた。それに反して麗奈は私をつぶさに観察するように鋭い視線を向けていた。
私は今更ながらに私の家庭事情を話していないことを思い出し、話すべきではなかったと思ったし、以前の私なら話さなかったとも思った。病院の屋上でのあの行為の効果がここにも出ているのだと確信した。
しばらく無言が続き、麗奈はそれを気にせず黙々と食べ、真奈美は気にして弁当をしまった。麗奈が弁当を食べ終えてからも沈黙は続き、居心地悪そうにしていた真奈美はそれに耐えられなくなってかおもむろに口を開く。
「小夜と麗奈って他のみんなとは違っているよね」
真奈美はありきたりなことを言った。今更だろうに、彼女の持っている暗さと考えは周囲と比べても特異なものなのは明らかだし、私は周りの人間と比べて喋らない。それは日々お父様のことを考えているからだけれど、周りと違っているのは明らかだと思った。
「気を使わなくて良いのに、変わっているって言えば」
麗奈は優しく言ったが、それでも真奈美は体をびくっと震わせて躊躇うように頷いた。
「人はみんな少し狂っているものなの。だけどみんな自分が狂っているなんて認めない。社会の常識や倫理によって理想の自分を作り上げられて、私はこうあるべきだって決めつけて型にはまる。私や小夜はその縛りから抜け出して、自分のおかしさを認めているから少し変わって見えるの」
「私も抜け出せるかなあ」
真奈美は躊躇いがちに言った。
「人はね、何にだってなろうと思えばなれるの。欲望に忠実であろうとすれば獣のようになれるし、理性に忠実であろうとすれば賢人にだってなれる。問題は何を望むかってこと、真奈美が型から外れたいと本当に望むなら変われる。それでも変われないなら、それは真奈美が本当に望んでいないだけ」
「自分自身の持っている心の闇を理解して、自分を理解すること。それがはじめの一歩だよ」
私は今までの麗奈との会話を思い出しながら話すと、麗奈は私に頷いた。
「心の闇って?」
「あなたの場合は不安や恐れの原因になっているものだよ。それが心の闇の正体、私にもあるし麗奈にもある。私達はそれが何かを理解している」
真奈美は目を強く瞑ってその正体を思案していたが、程なくして諦めたように目を開けた。
「うん、わたし頑張るよ。自分の心の闇が何かは分からないけど麗奈や小夜みたく、ありのままのわたしになれるように努力するよ」
真奈美の表情には私と麗奈にはない快活の色が見えた。その表情を見てか麗奈は思いついたように言う。
「今まで聞いたことなかったけど真奈美の趣味は何かないの?」
いきなり言われて真奈美は一瞬戸惑いながらも答える。
「絵を描くことかな。学校から帰ってから風景画とか雑誌に載ってるモデルさんとかをなるべくありのまま描いているよ」
私は少し意外に思った。真奈美の風貌的に漫画とかアニメとかそういう絵柄を書くように思っていたので写実的な絵を描いているなんて思わなかった。
「雑誌の中のモデルさんじゃなくて、現実にいる人物を目の前で描いたりしたことは一度もないの?」
「学校の授業とかでならあるけどそれ以外ではないよ。モデルになってくれる人とか周りにいなかったから……」
真奈美は苦笑しながら答えた。
「じゃあ今日学校終わってから私を描いてみない?」
麗奈は薄く笑いながら言った。
「い、いきなりすぎるよ」
真奈美は顔を赤らめて、俯く。
「変わるんでしょう?」
真奈美は落ち着き払って、顔を上げる。
「分かった。描かせて」
麗奈はその答えに満足したのか、優しく微笑んでいる。
「鉛筆とかスケッチブックは今持っているの?」
これで道具がなければせっかくの真奈美の決意も水の泡だと思い、私は真奈美に確かめた。
「いつも持ち歩いているからあるよ」
「本当に描くのが好きなんだね。もっと家だけでやっているのかと思った」
「外にいて描きたいときに描けないことほど辛いことはないから」
私は健康食を食べていたときの麗奈に言った言葉と似ていると思った。
「ご飯と同じなんだね」
と言うと、真奈美はまた顔を赤くしながらうぅと呻いた。
麗奈はそれを見てくすくすと笑っている。笑いが落ち着くと、麗奈はこれからどうするか話し始めた。
「描く場所は学校で描くのもなんだから、すぐそこの河川敷で描くのはどうかしら?」
「良いと思う」
真奈美の答えに私は驚いた。すぐそこの河川敷は普段人通りが少なくない訳ではないし、ましてや夕方は人の往来が激しくなる。そんな沢山人のいるところで絵を描くことを真奈美は渋ると思った。
けれども考えてみると、真奈美は風景画を描くと言っていたのだから、そう言うのは外で描くのが普通で当然人目にもつく。普段他人の言動にビクついている真奈美だけれど、食事の時がそうのように好きなことをしているときは、ありのままの自分でいられるのだろう。
「じゃあ決まりだね。今日は部活もないし学校が終わってからすぐに三人で河川敷行こう」
麗奈は軽く手を叩く。
私と真奈美は頷く。真奈美の顔からはいつもの不安や食事の時の興奮はなく、適度な緊張が感じられる。けれども、その瞳はいつもよりもまっすぐで決意のほどがうかがえる。
私はそれを見て、お父様が私に度々見せたあの純朴さを思い出す。まっすぐで曇りなく、目的を達成しようとするあの無邪気な笑顔を。
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本日は後3話ほど更新する予定にございます。




