後編
ドカドカと、荒い足音が複数きこえた。
人々をかき分け黒髪の青年が現れた。肩を揺らして、大きく息を吐いて、一目散に。彼の後ろから、家臣らしき集団が遅れじとついてきた。誰もが、主の花の発見に興奮して顔を紅潮させている。
青年は食い入るようにリリシアを見つめ、黒い瞳をギラギラさせていた。
「蝶が…。ああ、僕の花!」
リリシアに飛び付くように抱きつき、銀の髪に指を突きいれキスをしようとする。
「ならぬっ!」
青い瞳を底光りさせたアレックスが、リリシアの右手を引っ張って青年からひきはなす。だがリリシアは、その右手を振り払った。
アレックスは、身の毛が逆立つような怒りに骨の髄まで蝕まれながら、狂おしい目をリリシアに向けた。
「私の花だ!私のリリシアだ!」
「いいえ。私はもう、殿下の婚約者ではありません」
言葉の槍がアレックスの胸に突き刺さる。
「リ、リリシア。私をずっと愛してくれていただろう?はじめてあった時から」
封印されていても番だと本能が叫ぶ。愛さずにはいられなかった。そしてアレックスは、リリシアが自分を深く愛していることを承知の上で、傷つけ続けた。彼もまた、心の奥底ではリリシアにひかれていたが、それを認めたくない故に。リリシアを傷つけることで、愛していないことを証明するために。
「残念ながら、もう愛しておりません」
その言葉にアレックスは絶句する。
「これまでの私になさった仕打ちを、覚えていないのですか?もし覚えているのならば、私がまだ愛しているなどと言う戯言をいえないはずです」
名も呼ばせなかった。
10年間も、虐待にちかいことをしてきた。
アレックスは胸を押さえた。
愛されることに胡座をかいて、リリシアはずっと側にいるのだと思っていた。婚約破棄も一時的なもので、政略なのだから結婚するもの、と。
しかし、とうにリリシアには切り捨てられていたのだ。
「リリシアと言う名前なのですか?」
黒い瞳の青年が愛しげに名前を呼ぶ。
「僕はナイジェルといいます。愛しい人、愛しい花、愛しいリリシア」
ナイジェルは、リリシアを抱きしめて離さない。
「探していたのです。何年も、何年も。あなたを、あなただけを。ずっと放浪の旅をしていました。もう、離しません」
大広間は、異様な雰囲気につつまれていた。
ナイジェルとリリシアを中心に、彼の家臣がぐるりと守るように取り囲み、王国の貴族や騎士は国王の言葉を待って、黙って様子をみている。
もはや花は咲いてしまった。
ナイジェルとリリシアを、引き離すことはできない。女神の祝福をうけた二人を害することは、女神の怒りに直結する。そんな危険なことはできない。
「ーー是非も無し」
国王はガックリと肩をおとした。
何故、他国の青年が、王宮の中心部にある大広間まではいってこれたのか。彼の家臣たちのマントに施された紋章を見れば、誰でも理解するだろう。大陸の半分を支配する大国ナシアスの紋章を。
国王は封印が解除されたリリシアが、右手の花を咲かせる、と思っていたのだ。だがリリシアは、右手を拒絶して、見知らぬ左手の蝶を受け入れた。まるで、この時を待っていたかのように。
甘かった。アレックスが愛されているとばかり思っていた。ようやく、国王はリリシアの真意を思いしった。
おそらく、リリシアは怒りをためていたのだ。誰も気がつかなかったが。
誰にも気がつかれないように、ずっとチャンスを待っていたのだ。
封印が解除される日を。
そう、リリシアはずっと密やかに待っていた。
アレックスを愛していた。しかし、愛されなかった。
周囲は、いずれ時がくればと言うばかり。アレックスの仕打ちに、ゆっくりと壊れていくリリシアの心を、誰も思ってくれなかった。たまらずリリシアが封印の解除を願っても、双花だからと、万が一があるかもと、許されなかった。
リリシアが、どれほどアレックスだけを愛する、と誓っても。
花蝶の絆は信じても、リリシアの愛の誓いは誰にも信じてもらえないのだと思いしらされた時、リリシアは自分に誓った。
左手の蝶が、自分を愛してくれるのならば、自分を信じてくれるのならば、生涯右手の花は咲かせない。そのためならば、右手を切られてしまってもかまわない、と。
「私は双花です。よろしいのですか?」
「それが何?君は、これっぽっちも彼のことをみていない。僕をみてくれている。不安なんてないよ」
ナイジェルがきっぱりと言いきる。
傷みにも似た歓喜が、リリシアの爪先から頭のてっぺんまで熱となって、吹き抜けていった。
「私を、信じて下さるの?」
「双花だから?本能で愛してしまうから?でも好意は、はじまりのきっかけに過ぎないよね。咲いた愛の花を、散らさないために、枯らさないために、僕のほうが君に信じてもらえるように、毎日愛を誓うよ」
リリシアは瞳をうるませた。
左手の薄紅色の花が、さらに色鮮やかになっていく。蝶は、嬉しげに花によりそっている。
右手の花は、いつの間にか消えていた。アレックスの蝶も。
アレックスは体を強張らせたまま立ちつくしていた。
今にもガクリと膝から床に落ちそうになる体を、王子の矜持で何とか保っていたが、リリシアの右手の花が消えた時、怒りと失望のあまり血を吐きそうになった。食道は渇きに渇ききっており、何度も喉仏を上下に動かして唾を落とし込む。
隣にいるマリーナが、アレックスの袖をひいていることにも気がつかない。
ただ、地を舐めて這う溶岩の情念をおもわせる目でリリシアをーーナイジェルをみていた。
ナイジェルは、周囲の全てを無視した、国王さえも。どれだけでも傲慢にふるまえる地位に、彼はいた。彼にとって、小国の国王など、自国の伯爵ほどの価値もなかった。
「リリシア。君を僕の国にさらってもいいだろうか?」
リリシアは小さく頷いた。
すでに、家族も国もすべてをすてる覚悟はできていた。
「おめでとうございます、ナイジェル様」
「おめでとうございます、婚儀の準備を」
「おめでとうございます、国に報告の早馬を」
他国の宮廷にいるというのにナイジェルの家臣は、あたりに人がいないがごとく傍若無人にふるまう。彼らの背後には、強大なナシアスの存在がある故に。
その夜から、リリシアの左手には、つねに薄紅色の花が咲き続けることとなった。
それは、白い女神も美しいと思う、満足させる色であった。