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エピソード37 珍道中

 ベランダから吹き込む風の冷たさに伊織は目を覚ました。ソファでうたた寝していたのか?こんなに泥のように眠ったのは久しぶりだ。体を起こすと毛布がするりと落ちた。曹瑛がかけてくれたに違いない。のろのろと起き出してベランダから空を見上げる。ビルで切り取られた狭い空は紫色に染まっていた。もう夕方か、ゆっくりと覚醒していく意識。ベランダの鍵を閉めてリビングに戻る。

「瑛さん・・・あれ、いないの?」

 ソファの前のテーブルに封筒とメモが置いてあるのに気づいた。メモには“出かける”と走り書きで一言だけ。心臓がドキンと脈打った。このパターン、前にもあったような気がする。まさか、一人で行ってしまったのか。封筒には封がされていなかった。中を開けると万札が入っていた。この厚みなら50万はある。ガイドのバイト料にしては多い、が曹瑛なら色をつけてこの金額を出しても不思議ではない。もうここには戻らない、というメッセージに思えた。伊織はのんきに寝ていた自分を呪った。しかし、後悔をしていても何も始まらない。


 どうすればいい?どうにかして行き先を突き止めたい。でも自分が行っても邪魔にしかならないのではないか、伊織は悶々をしながらリビングをぐるぐる歩き回った。携帯に電話しようと思ったが、伊織は曹瑛の番号を知らない。このバイトを依頼してきた元同僚の山口もおそらく知らないだろう。曹瑛ならおいそれと番号を教えていない気がした。

「ああ、もう馬鹿だ俺!」

 伊織は頭を抱えた。落ち着け、深呼吸だ。深呼吸3回目にして突然ひらめきが走った。クローゼットから乱暴にコートを引っ張り出す。烏鵲堂で孫景が伊織のポケットに無理矢理ねじ込んだ名刺があるはずだ。ポケットに突っ込んだ手がカード状のものに触れた。正直、孫景とは付き合うこともないだろうと思っていたのだが、今はあのずうずうしさがありがたい。


 伊織は名刺を手に取った。真っ黒なカードに金文字で名前が書いてある。正直趣味が悪い。肝心の電話番号は、ある。伊織は震える指で名刺の番号を押す。

「喂!」

 すごい勢いでウェイってどんだけべらんめえなのだろう、いやこれは中国語の電話の挨拶か。

「あ、あ、ニーハオ!」

「おお、なんだ伊織ちゃんか、どうした?」

 いつもの孫景の声だ。

「孫景さん、瑛さんが部屋にいないんです!どうしよう!」

 伊織のテンパった様子が手に取るように分かった。孫景は落ち着け、と伊織をなだめる。

「やっぱりな、取引は今日だったか」

「どこに行ったか知りませんか?」

 孫景は一呼吸間を置いた。

「伊織ちゃんはそれを知ってどうするの?」

「え・・・それはもちろん・・・迎えに行きます!」

「とんでもない修羅場になってるかもだぜ?」

 孫景はわざとのらりくらりしゃべってはぐらかしていた。伊織の必死な様子を楽しんでいるが、伊織本人はそれどころではなかった。

「そ、それなら助けます!俺、ガイドのバイトなのに、日本で困ってる人をほっとくなんてできません!」

 孫景は大声で笑い始めた。

「面白いわ、伊織ちゃん」

「孫景さん、お願いします!俺、瑛さん助けたいんです」

「わかった、負けたよ。とりあえずマンションに迎えに行く」


 伊織はマンションの入り口で左右を見回しながら孫景の姿を探していた。安っぽいクラクションが鳴り、目の前に白い軽四が止まった。運転席を見れば窮屈そうに大きな体を縮めて孫景がハンドルを握っていた。伊織は急ぎ助手席に乗り込んだ。

「孫景さん、瑛さんはどこにいるんですか」

「俺も知らないんだが・・・これかな」

 孫景がタブレットの画面を見せる。のぞき込めば地図にポインターがついている。場所は、地名からして横浜の海沿いのようだ。

「こういうこともあろうかと、あいつのスマホにGPS仕込でおいて良かったぜ」

「横浜か、車で40分くらいだけど、今は渋滞してるから1時間はかかるかも」

「よし、じゃあドライブだ」

 不意にコンコンと窓ガラスを叩く音がした。伊織がはっとして振り向くと、助手席の窓の前に高谷が立っていた。

「高谷くん・・・」

「俺も、連れていってください。邪魔をするつもりはありません」

「ついでだ、乗れよ」

 孫景が後部座席のスライドドアを開けた。高谷は礼を言って静かに乗り込んだ。


 首都高速に乗り、湾岸線へ。街の灯りがフロントガラスの向こうを流れていく。渋滞は思ったほどではなかった。この調子なら1時間かからずに目的地につけるかもしれない。

「孫景さん・・・運転いつもこうなんですか?」

 伊織は恐る恐る訊ねる。

「ああ、何で?」

 前の車が遅ければクラクションを鳴らしまくり、あり得ない車間で車線変更を繰り返しながらどんどん前に進んでいく。アクセルもブレーキも派手に踏み込むので、いちいち体が前につんのめってしまう。伊織は車の運転が荒いと有名な漁師町で育ち、父親の軽トラの助手席に乗ってずいぶん鍛えられていたが、高谷は本当に参っているようだった。伊織はシートベルトがきちんと締まっているか再確認した。中国人の車の運転は荒い、と聞いたことがある。それをまさか日本で体験できるとは思わなかった。しかし、おかげでナビが示す横浜までの所要時間はずいぶん短くなっていた。


「孫景さんは瑛さんとどのくらいの付き合いなんですか?」

「そうだな、10年にはなるかな。初めて会ったときは俺は用心棒みたいなことをやっていたんだぜ。あいつは昔から殺し一本」

 後部座席で車酔いをしている高谷がチラと顔を上げる。ヤクザである榊の弟だけあって、そういう話にも現実味が全くないわけではなさそうだ。

「無口だし、無愛想で誰とも組まない、仲間もいない。暗殺者なんてそう好かれる仕事じゃないがな」

「でも、孫景さんは今回の件、一緒にやろうって」

「ああ、初めてだよ声をかけたのは。でも断られたけどな」

「なんで、一緒にって思ったの?」

「何でだろうな、組織をぶっ潰すって面白そうだろ?それに、俺も龍神の売り方は気にくわないからな」

 孫景は激しくクラクションを鳴らしながらめちゃくちゃなハンドル捌きで前方の車を強引に追い抜いた。


「・・・高谷くんはどうするの?」

「榊さんを連れて帰ります」

 車酔いで気分が悪そうだが、口調はしっかりしていた。連れて帰る、生きていても死んでいても、そう取れた。曹瑛の仕事の成功は榊の死を意味する。伊織は複雑な気持ちになった。榊は高谷のただ一人の家族、その話を聞いて曹瑛はどう思ったのだろうか。それを想像することはできなかった。


 目的地は港の倉庫街の一角、休業中の鉄工所のようだ。軽四は海沿いに停めて3人で鉄工所へ向かう。メイン道路から奥まった場所にあり、悪い奴が取引するには最適な場所だ、と伊織は思った。駐車場に停まる車もフルスモークの高級車かバンで、異様な光景だ。

「あれ、榊さんの車です」

 高谷は黒いBMWを指さした。ここに曹瑛もいるのだろう。半分降りたシャッターの隙間から灯りが漏れている。ここが取引の場所で間違いない。

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