第一章 ミッドウェーの幽霊
時空嵐の先、燃える海
「――ピーッ! ピーッ! ピーッ!」
鼓膜を突き破るようなマスターアラームの警告音が、薄れかけていた意識を強制的に現実へと引き戻した。
全身を押し潰すような強烈なG(重力加速度)が抜け、胃袋がフワリと浮き上がるような無重力感が一瞬だけ体を包む。
「……っ!」
航空自衛隊1等空尉、坂上真一は、酸素マスクの奥で荒い息を吐き出しながら、瞬きを繰り返した。
視界を覆う特注のHMD内蔵ヘルメットのバイザーには、無数の赤字のエラーコードが滝のように流れている。
空間そのものが捻じ曲がるような異常な乱気流――『時空嵐』とでも呼ぶべき未知の現象に巻き込まれたのは、数分前のことだ。護衛艦「いずも」から発艦し、高度三万フィートでの戦闘訓練空域に到達した直後、突如としてレーダーが全方位の異常を告げ、空が紫色の閃光に包まれたのだ。
「いずも、こちらゴースト1。応答せよ。……いずも、ゴースト1、聞こえるか?」
スロットルレバーから手を離さず、通信チャンネルを切り替えながら呼びかける。だが、返ってくるのは無機質な砂嵐のみ。データリンクも完全に切断されており、味方機の反応もゼロ。
さらに致命的なことに、GPSのシグナルが完全にロストしていた。衛星とのリンクが絶たれている。現代のネットワーク戦闘を前提とするF-35BライトニングⅡにとって、これは目隠しをされたに等しい。
「システム再起動。慣性航法装置(INS)のみで現在地を割り出せ」
坂上は北辰一刀流の修行で培った『明鏡止水』の呼吸法で、脈拍を強制的に落ち着かせた。パニックは死に直結する。いかなる状況下でも冷徹に状況を俯瞰する。それが、出雲艦隊で「ゴースト」のTACネームを拝命した彼の強みだった。
メインシステムが復旧し、バイザー越しの視界がクリアになる。
分厚い積乱雲を突き抜けたF-35Bの眼下には、見渡す限りの広大な青い海が広がっていた。
太平洋だ。波のうねり、太陽の角度から推測して、ここは確かに太平洋上空であることは間違いない。
しかし、坂上の異常なまでに研ぎ澄まされた動体視力と空間把握能力は、眼下の海面に「あり得ないもの」を捉えていた。
「なんだ、あれは……」
高度二万フィートから、HMDの光学センサー(EOTS)をズームさせる。
海面に白い航跡を引いて進む、複数の巨大な艦影。最新鋭のイージス艦でもなければ、彼が先ほどまでいた空母型護衛艦「いずも」でもない。
平らな飛行甲板、そしてなにより、その甲板が「木」でできている。艦首付近には、巨大な「日の丸」が描かれていた。
赤城、加賀、蒼龍、飛龍――。
軍人である坂上にとって、それは嫌というほど見慣れた、しかし絶対にそこに存在するはずのない旧日本海軍の主力空母群だった。
「馬鹿な……映画の撮影か? いや、そんなスケールじゃない」
さらに坂上を驚愕させたのは、その空母群の遥か上空、高度一万五千フィート付近を飛ぶ無数の機影だった。
レーダーが捉えるその飛行物体は、現代の戦闘機とは比べ物にならないほど遅い。時速三百キロから四百キロ程度。
光学センサーが捉えたその機体は、単発のプロペラ機。逆ガル翼のシルエット。そして、機体に描かれた白い星のマーク。
「アメリカ海軍……SBDドーントレス急降下爆撃機……!」
歴史の知識が、パズルのピースのようにカチリと組み合わさっていく。
GPSは機能していないが、左手首に巻かれたミリタリー仕様のスマートウォッチが、内蔵されたジャイロと気圧計、カレンダー機能から現在地と日時を弾き出していた。
北緯30度、西経178度付近。ミッドウェー環礁の北西。
時計の針は、1942年6月4日、午前10時20分を示している。
「タイムスリップ……だと?」
現実離れした仮説だが、それ以外にこの状況を説明できない。
そして、時刻が「10時20分」であることの意味を、坂上は正確に理解していた。
歴史上における「運命の5分間」。
日本海軍の南雲機動部隊が、米軍の急降下爆撃によって壊滅的な打撃を受け、太平洋戦争の敗北を決定づけるまさにその瞬間だ。
事実、眼下の空では、ドーントレス爆撃機部隊が、獲物を見つけた鷹のように、赤城や加賀に向かって致命的なダイブ(急降下)を開始しようとしていた。日本側の直掩機である零戦は、直前に襲来した雷撃機部隊の対処に気を取られ、低空を這い回っている。上空は完全にガラ空きだ。
このまま見過ごせば、数分後にはあの木甲板に爆弾が突き刺さり、艦隊は紅蓮の炎に包まれて海の底へと沈む。
それを皮切りに、日本は泥沼の敗退戦へと転げ落ちていく。
坂上の脳裏に、祖父の顔がよぎった。
太平洋戦争の末期、特攻隊として散った祖父。幼い頃、仏壇の遺影を見ながら「おじいちゃんは、国と家族を守るために命を懸けたんだ」と教えられて育った。
そして、その後に訪れる悲劇。故郷である広島に落とされる原子爆弾。東京大空襲。焼け野原となる日本。無数の命が失われる未来。
「……俺は、その歴史を知っている」
操縦桿を握る手に、じわりと汗が滲む。
坂上の手元にあるのは、このF-35BライトニングⅡただ一機。
搭載している武装は、機内兵装庫に収められた25mm機関砲と、精密誘導爆弾(JDAM)のみ。
燃料も無限ではない。訓練用の設定で飛び立ったため、アフターバーナーを使えばあっという間に空になる。
そして、弾薬も燃料も、この時代で補給することは絶対に不可能だ。
つまり、このF-35Bは「一回限りの魔法の杖」だった。
一度使ってしまえば、ただの鉄の塊と化す。
魔法の杖を振るうべき時は、今なのか? それとも、もっと決定的な局面まで温存すべきなのか?
下手に歴史に介入すれば、自分がどのような運命を辿るか分からない。最悪の場合、未来から来たスパイとして拷問されるかもしれない。
(仕事と私、どっちが大切なの!?)
不意に、別れた元カノの言葉がフラッシュバックした。
数年前のあの日、坂上は「国防」という重責と「彼女への愛情」を真剣に天秤にかけ、頭の中でシミュレーションを回し……結果として10秒間、無言になってしまった。
バカ正直に嘘をつけない性格が災いし、力一杯のビンタを食らってフラれた。
「あの時、どう答えるのが正解だったのか」と、今でも時折考えることがある。
だが、今のこの状況下で、10秒も迷う猶予はない。
ドーントレスの急降下は、もう始まろうとしているのだ。
「……見殺しには、できねえよな」
坂上は、Gスーツの胸ポケットに手を伸ばした。
取り出したのは、使い込まれた真鍮製のオイルライター。愛用している「メビウス10ミリ」に火をつけるためのものだ。
酸素マスクをしているため、当然タバコは吸えない。
だが、坂上はそれを左手で握り込むと、親指で蓋を弾いた。
――カチンッ。
硬質で冷たい金属音が、コックピット内に響く。
それが、坂上真一の思考を切り替え、すべての迷いを断ち切るスイッチだった。
「祖父ちゃんが命を懸けた国を……あんな焼け野原にしてたまるか」
ライターをポケットに仕舞い、坂上は操縦桿とスロットルレバーを力強く握り直した。
HMDのバイザーに、攻撃システムの起動を知らせる緑色の光が灯る。
「いずも艦隊所属、F-35Bゴースト1……これより、作戦空域に突入する」
坂上は、スロットルレバーを一気に押し込んだ。
プラット・アンド・ホイットニーF135ターボファンエンジンが、空気を切り裂くような猛烈な咆哮を上げる。
アフターバーナー点火。
F-35Bの機体が、目にも留まらぬ速度で加速する。
レシプロ機の限界速度が時速数百キロの時代。
音速の壁を越えたステルス戦闘機は、まさに物理法則を無視した死神そのものだった。
「さあ、歴史の修正の時間だ」
坂上を乗せた黒い機体は、白い衝撃波の円錐を纏いながら、獲物に向かって急降下する米軍爆撃機の群れへと、一直線に突っ込んでいった。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




