第15話 旗は誰を覚えるか
リメルの棚ができてから、第七魔法競技部の部室は少しだけ部室らしくなった。
少しだけ、というところが重要だ。
雨漏りは相変わらずだし、壁の作戦図は多すぎるし、ロイ・キャベルが気を抜くと窓が震える。ジャック・バーネルは窓枠に座るし、ノル・フェインは机で寝るし、ネル・アーレンとレイナ・オルコットは一日に最低一回は口論する。
だが、壁際にリメルの棚がある。
古い木材で作られた棚。
深い青の布。
登録書類の箱。
部誌。
割れた警告札。
古い旗の支柱。
クララ・ヴェルムが写した古代文字の紙。
その全部が、散らばらずにそこへ収まっている。
置く場所があるだけで、ものは少しだけ落ち着いて見える。
人間も同じかもしれない。
などと考えてしまい、俺は自分で嫌になった。
第七部にいると、すぐそういう方向へ思考が寄る。
良くない。
「今日は、リメルの反応実験を行います」
コレット・セインがそう宣言した時点で、さらに良くない方向へ進むことは決まっていた。
昼休み。
部室の机にはリメル。
その前にはクララの記録紙、ノルの部誌、アルフ・メイナードの作戦盤、ロイの警告札、なぜかガレス・モルンの芋。
「最後のは何だ」
俺が聞くと、ガレスは短く答えた。
「休憩」
「実験に芋は必要か」
「いる」
いるらしい。
ロイが小さく手を上げる。
「緊張するとお腹が空くので、助かります」
「もう緊張しているのか」
「旗に覚えられるかもしれないと思うと」
「妙な緊張だな」
リメルが布の端をロイの方へ揺らした。
ロイはそれだけで嬉しそうになる。
単純だ。
だが、悪くない単純さだ。
「目的は三つです」
クララが紙を持って説明を始める。
「第一に、リメルが部員ごとに異なる反応を示すか確認すること。第二に、その反応が各自の欠陥魔法の性質と関係するか確認すること。第三に、競技時の旗設計へ応用できるか検討すること」
「研究っぽい」
ネルが言う。
「研究です」
「部活だよね?」
「第七部では両立します」
「嫌な両立」
リリィ・クロフトが微笑む。
「でも面白そうです。旗に嫌われる人がいたら、今後の人間関係が見ものですね」
「そういう楽しみ方をするな」
俺が言うと、リリィは涼しい顔で返した。
「毒舌担当ですので」
「正式な担当にするな」
ジャックが窓枠で笑った。
「俺は嫌われそうだな」
「自覚があるなら直せ」
「直したら俺じゃねえだろ」
「便利な言い訳だな」
ガレスが芋を割りながら言った。
「嫌われてない」
全員がガレスを見る。
ジャックも見る。
「何で分かんだよ」
ガレスはリメルを指差した。
リメルは布の端をジャックの方へ向けていた。
逃げてはいない。
むしろ、少し近づこうとしているようにも見える。
「壊すけど、見捨てないから」
ガレスはそう言った。
ジャックの顔が固まる。
ネルが何か言いかける。
俺が目で止めた。
こういう時は、茶化さない方がいい。
ジャックは窓枠から顔を背けた。
「……知るかよ」
耳が少し赤い。
リメルが布を小さく揺らす。
「記録します」
クララが言う。
「ジャックさんへの初期反応、接近傾向。破壊性を警戒しつつ、拒絶はなし」
「勝手に記録すんな」
「実験です」
「だから嫌なんだよ」
ジャックは文句を言うが、窓から逃げはしなかった。
つまり実験は続く。
「順番は?」
アルフが聞く。
「まず、魔法の危険性が低い人から」
クララが答える。
全員の視線が、なぜかノルへ向いた。
ノルは寝ていた。
危険性が低いというより、起きていない。
「ノル先輩は?」
ロイが小さく聞く。
「夢を通じてリメルと接続するため、実験後半に回します」
「起こさなくていいの?」
ネルが聞く。
ノルは寝たまま手を上げた。
「聞いてる……」
「便利ね、ほんと」
「眠い……」
聞いているらしい。
最初はロイになった。
理由は、リメルがすでにロイの音に慣れ始めていること、警告札との連携があること、そして本人が一番やる気だったこと。
「僕からでいいんですか」
「いい」
俺が言うと、ロイは少し背筋を伸ばした。
「何をすれば」
「まず普通に近づく」
「はい」
ロイがリメルへ近づく。
リメルは少しだけ布を震わせた。
怖がっている。
しかし逃げない。
ロイはそこで止まった。
「近づきすぎ?」
「少し」
俺が言うと、ロイは半歩下がる。
リメルの震えが止まる。
「音を覚えているな」
アルフが言った。
「音量ではなく、距離を見ている」
クララが記録する。
「ロイさんへの反応、警戒。ただし距離調整に応答。音を危険としてだけでなく、合図として認識し始めている可能性」
「リメル、僕の音、嫌いじゃないですか」
ロイが聞く。
リメルが布を一回揺らす。
ノルが寝たまま言う。
「うるさいけど……大事……」
「うるさいけど大事」
ロイが噛みしめるように繰り返した。
「はい」
彼は嬉しそうだった。
うるさい、も含めて受け取ったらしい。
次はネル。
ネルはリメルの前に立ち、腕を組んだ。
「何すればいいの」
「一瞬魔法を直接当てずに、周囲へ使う」
クララが言う。
「直接当てたら?」
「リメルが驚きます」
「じゃあしない」
ネルは即答した。
その答えに、リメルが布を少し揺らす。
「信用された?」
ネルが聞く。
ノルが寝たまま答える。
「少し……」
「少し」
ネルは微妙な顔をした。
「まあ、いいけど」
彼女の指先に魔力が灯る。
一瞬。
机の上の小さな布が跳ねる。
リメルは逃げない。
布の動きを追い、次にネルを見る。
もう一度。
そう言うように。
「もう出ない」
ネルが言う。
リメルが布の端を少し垂らした。
残念そう。
たぶん。
「魔力が切れた後」
俺は言った。
ネルがこちらを見る。
「足」
「分かってる」
彼女は机に置いた棒を指で弾いた。
魔法ではない。
ただの動作。
棒が転がり、リメルの近くで止まる。
リメルが嬉しそうに跳ねた。
ネルは少しだけ目を丸くした。
「そっちの方が喜ぶの?」
「魔力が切れた後も動けることを覚えているんだろ」
俺が言うと、ネルは少し黙った。
そして小さく笑う。
「旗に励まされるの、変な感じ」
「俺も経験済みだ」
「先輩面しないで」
クララが記録する。
「ネルさんへの反応、瞬間魔法よりも魔力切れ後の物理行動に強い好反応。欠陥後に残る行動を評価している可能性」
「リメル、分かってるじゃない」
ネルは少し得意げに言った。
次はレイナ。
彼女は妙に緊張していた。
「旗にまで失敗を見られるのは、複雑ですわ」
「昨日まで箱に品位を求めていた人が何を言ってる」
俺が言うと、レイナは睨んだ。
「それとこれは別です」
「そうか」
彼女はリメルの前に立ち、指先に魔力を灯す。
一度目。
失敗する。
光が散る。
リメルが跳ねた。
驚いたのではない。
追った。
失敗して散った光を、布の端で追いかける。
レイナが固まった。
「……今の」
「嫌がってないな」
俺は言った。
「むしろ見ていた」
二度目。
成功する魔法。
きれいな光の帯が机の上を滑る。
リメルはそれも見た。
だが、一度目ほどは跳ねなかった。
レイナは唇を結ぶ。
「失敗の方が、反応が大きい?」
クララが記録する。
「レイナさんへの反応、一度目の失敗魔法に強い関心。成功魔法には安定反応。失敗を欠陥ではなく予兆、または前段階として認識している可能性」
レイナは何も言わなかった。
ただ、リメルを見ていた。
失敗を見られることを恐れていた彼女が、失敗に反応する旗を前にしている。
それはきっと、笑い話ではない。
「レイナ」
ネルが言った。
「今の、ちょっと綺麗だった」
レイナが驚いた顔でネルを見る。
「失敗の方?」
「うん」
ネルは少し照れくさそうに顔をそらす。
「むかつくけど」
「なぜ最後にそれを付けますの」
「癖」
レイナは少し呆れ、それから小さく笑った。
「では、半分だけ受け取ります」
次はミラ。
彼女はリメルの前に立つと、何もせずにしゃがんだ。
「持っていい?」
リメルが布を揺らす。
ノルが言う。
「背中……好き……」
「背負う?」
ミラが聞く。
リメルが三回跳ねた。
ミラは慣れた手つきで、リメルを背中の簡易帯に通した。昨日の模擬戦でやった形だ。
リメルは落ち着いている。
むしろ、誇らしそうだ。
ミラが少しだけ筋力強化を発動する。
ほんの短く。
体の線が変わる。
リメルは驚かない。
ただ、布をしっかり張る。
「山の荷みたい」
ミラが言った。
「失礼じゃないのか」
俺が聞く。
ミラは真面目に首を横に振る。
「山では、大事なものほど背負う」
リメルが一回揺れる。
肯定。
たぶん。
クララが記録する。
「ミラさんへの反応、背負われる形を好む。強化魔法そのものより、運搬と保護に関心。山岳地方の実用魔法との親和性あり」
ミラは少し嬉しそうだった。
次はリリィ。
彼女はリメルの前に立ち、深々とお辞儀した。
「さて、何が出ても怒らないでくださいね」
「旗に先に謝るな」
「危機管理です」
召喚陣が光る。
出てきたのは、小さな紙の鳥だった。
紙でできた鳥。
それが机の上をぱたぱた飛び、リメルの周りを回った。
リメルは布を大きく揺らす。
驚き。
興味。
少しだけ警戒。
紙の鳥はリメルの支柱に止まり、くちばしで古代文字のあたりをつついた。
クララが身を乗り出す。
「そこは未読部分です」
「私の召喚、珍しく仕事しました?」
リリィが言う。
「かなり」
クララは紙の鳥を見つめる。
リリィは少し驚いたように瞬きした。
「そうですか」
毒舌が出ない。
リメルは紙の鳥を嫌がらなかった。
むしろ、その鳥を通じて何かを伝えようとしているように見えた。
クララが記録する。
「リリィさんへの反応、召喚対象次第で大きく変動。紙の鳥に対し、未読術式への誘導反応。ランダム召喚に見えるが、リメル周辺では必要な媒体が出る可能性あり」
「それ、ランダムじゃないってこと?」
リリィの声が少し低くなる。
「断定はできません。ただし、完全な無作為ではない可能性が出ました」
リリィは紙の鳥を見る。
表情が読みにくい。
計画通りにいかない自分の魔法。
それが、実は何かに応答しているかもしれない。
嬉しいのか。
怖いのか。
たぶん、両方だ。
次はアルフ。
彼はリメルの前に立ち、淡々と言った。
「一方向結界を張る。危険なら避けてほしい」
旗に対しても説明が丁寧だ。
アルフらしい。
結界が張られる。
一方向。
リメルの正面。
リメルは少し考えるように揺れ、それから自分で結界の横へ移動した。
「避けた?」
ロイが聞く。
「違う」
俺は言った。
「守られる方向を選んだ」
アルフが目を細める。
リメルは結界の横、斜め後ろに立つ。
そこなら、正面から来る攻撃は結界で防げる。
横から来るものは逃げられる。
逃げ道がある。
「二方向目を旗自身が補っている」
アルフが言った。
「興味深い」
クララが記録する。
「アルフさんへの反応、一方向防御を理解し、旗自身が逃げ道を調整。守られるだけでなく、守備構造に参加する」
アルフは少しだけ満足そうだった。
本当に少しだけ。
次はジャック。
部室の空気が少し緊張した。
「やめとくか?」
俺が聞くと、ジャックは鼻で笑った。
「逃げたと思われる方が嫌だ」
「誰に」
「旗に」
意外な答えだった。
ジャックはリメルの前に立つ。
魔力は出さない。
ただ、手を差し出した。
リメルはすぐには近づかない。
布を小さく震わせる。
警戒。
当然だ。
ジャックの攻撃魔法は、一番壊してはいけないものを狙いやすい。
旗にとって、かなり怖い相手のはずだ。
「ま、そうだよな」
ジャックが手を引こうとした。
その時、リメルが一歩近づいた。
支柱で、ジャックの指先をこつんと叩く。
触れた。
逃げない。
ジャックの顔から、少しだけ表情が消えた。
「……何だよ」
ノルが寝たまま言う。
「壊さないで、じゃなくて……壊すなら、ちゃんと選んでって」
ジャックは黙った。
ガレスが彼を見る。
ジャックは視線を逸らす。
「旗にまで説教されんのかよ」
声は不機嫌だった。
でも、いつもの棘は少し薄い。
クララが記録する。
「ジャックさんへの反応、強い警戒の後、限定接触。破壊性を拒絶せず、選択的破壊を要求している可能性」
「リメル、なかなか厳しいですね」
リリィが言う。
「毒舌の素質があります」
「旗をお前の側に引き込むな」
最後は俺だった。
いや、コレットとノルとガレスもまだだが、なぜか全員が俺を見た。
「だから見るな」
「リメルが一番反応するの、ルカじゃない」
ネルが言う。
「だから最後?」
「嫌な締め方をするな」
コレットが少し心配そうに俺を見る。
「無理はしなくていいわ」
「近づくだけだろ」
「うん」
「魔法は使わない」
「分かってる」
リメルは机の上で待っている。
青い布。
古い支柱。
忘れ物の旗。
俺は一歩近づいた。
リメルは逃げない。
二歩。
まだ逃げない。
三歩。
リメルが、部誌の俺の名前を叩いた。
こつん。
次に、リメルの登録名を叩く。
こつん。
そして、俺の手元へ来た。
支柱の先で、俺の指に触れる。
その瞬間、頭の奥で薄い布が揺れた。
忘れる時の感覚に似ている。
俺は反射的に手を引きかけた。
だが、引かなかった。
違う。
何かを失う感覚ではない。
何かが、向こうから触れてくる感覚。
古い部室。
雨の匂い。
誰かが笑う。
知らない生徒たち。
青い旗。
そして、俺ではない誰かの声。
忘れるな。
ほんの一瞬だった。
景色はすぐに消える。
俺は息を吸った。
「ルカ君?」
コレットの声。
「大丈夫だ」
「何か見えた?」
「見えたというか」
言葉を探す。
記憶ではない。
俺のものではない。
リメルのもの。
あるいは、この部室のもの。
「古い部室と、誰かの声」
クララがすぐにペンを取る。
「内容は」
「忘れるな、って」
リメルが布を揺らした。
ノルが目を開ける。
完全に起きていた。
「リメル、ルカに記録を渡そうとした」
「渡す?」
「全部じゃない。端だけ」
ノルはリメルを見て、次に俺を見る。
「ルカが消えそうだから、覚えさせようとしてる」
部室が静かになった。
覚えさせようとしている。
俺が失うものを、リメルが覚えるだけではなく。
リメルが覚えているものを、俺に渡そうとしている。
それは救いか。
危険か。
分からない。
知らない記憶を受け取ることが、俺に何をするのか。
ただ一つだけ分かる。
リメルは、俺をただ記録対象として見ているわけではない。
覚えろ、と言っている。
消えるな、と。
俺はリメルを見た。
「無茶を言うな」
リメルが布を一回揺らす。
ノルがぼんやり訳す。
「お互い様……」
部室の何人かが笑った。
俺も少しだけ笑いそうになった。
旗に言い返された。
しかも正しい。
無茶を言っているのは、たぶん俺たちも同じだ。
欠陥魔法を抱えたまま、巡業リーグへ行く。
忘れられた部室の旗を正式登録する。
壊れたもので棚を作る。
忘れないように、記録する。
無茶ばかりだ。
でも、リメルは逃げなかった。
俺の指先に、まだ小さな温度が残っている。
旗は誰を覚えるか。
今日の答えは、たぶんこうだ。
リメルは、欠けたところを見る。
欠けた後に残っているものを見る。
それは第七部と、少し似ている。




