3-2
「僕に叶えられることなら」
コーディが火傷痕の残る右手を胸に当てた。騎士の礼だ。
「……もし、もしですよ? もしも、この先の未来で私があの人にとって、足枷になってしまったら、どうか……私をどこか遠くの修道院に連れて行ってください」
予想だにしていない言葉だったのだろう。コーディの目が見開かれる。
「なにを……っ」
「それだけの覚悟が必要なのです」
クラリスは、コーディの言葉を遮って微笑んだ。
切ったと思っても切れないのが血縁。まさにその通りで、クラリスにはあの恐ろしい父の血が流れている。
「ずっと、考えていました。愛人の娘である私では……ロナルド様の枷になる、と。でもヴィム先生に怒られたんです。ロナルドは、たったそれっぽっちのことで没落するような男じゃない、と。その時も確かにと思いましたが、時間が経つにつれ、あの人の愛を感じるにつれ、その通りだと思ったのです。ロナルド様は、私の身分一つでどうにかなるような人じゃない」
「当たり前です。そもそもあの人、駆け落ちしようとか血迷ったことを言いだすほど、貴女が好きなんですよ?」
「ふふっ、あの時は驚きました。でも、あの言葉、本当はちょっと、いいえ、とても嬉しかった。……いらないと言われた私を、私が私でも意識しなかった悲しい顔をした途端、迷いなく選んでくれたことが、本当に嬉しくて、寝る前に自分の部屋でちょっと踊りました。恥ずかしいので、皆には内緒ですよ?」
うふふっと照れくささを隠しながら笑うと、コーディも小さく笑った。
「ロナルド様の隣で、彼が望む限り、私は歌っていたい。でも、もし、私の生まれや、存在があの人の人生を壊してしまいそうになった時は、いいえ……」
首を横に振って、一度、言葉を切る。
目を閉じれば、母の遺品をかき集めるあの血走った眼差しを思い出す。あれより恐ろしいものをクラリスは知らない。
「……他ならない私があの人に執着して、愛が変質してあの人の何もかもを奪おうとした時、どうか私を修道院に連れて行ってほしいのです。ロナルド様は立場あるお方です。この国を守る英雄です。だからこそ、真っ直ぐにあらねばならない。私はこの国の平穏を揺るがす女にはなりたくはありません」
言い方は悪いが、母は下町の平民だった。だから揺らいだ世界は、母の世界とアシュリー伯爵家の世界だけだった。でも、ロナルドはそうではない。彼にはより重い責任と立場があるのだ。
「……もしもそんな事態に陥った時、コーディ様なら、きっと誰より公正に判断が出来ると思ったのです」
「ヴィム先生は……ちょっと私情が挟まりすぎますかね」
「ちょっとだけですけど」
クラリスは親指と人差し指でわっかをつくって、少しだけ指と指の間に隙間を開けた。
コーディはクラリスから視線を外し、目を伏せた。数拍の静寂が馬車の中を覆い、車輪の音かやけに大きく聞こえた。
「……僕の実家は王都から大分離れているんですが、村には小さな教会があります。身寄りのない子どもたちの世話をしながら、数人のシスターと神父様が生活していて、何もない田舎ですけど、穏やかな土地です」
「でも、コーディ様のご実家なんてすぐにばれてしまいませんか?」
「灯台下暗しですよ。ロナルド様は僕が裏切るなんて、夢にも思っていませんから。僕が貴女を隠してしまうなんて、考えもしないでしょう」
コーディの覚悟が決まる瞬間は、とても静かだった。
「貴女が魔力を込めた魔石なんかも、四六時中傍にいる僕ならなんとかあの人の病を鎮めるために忍ばせることもできます」
「心強いです」
「……でも、これは、本当に最終手段ですよね?」
ふいにコーディが眉を下げ、不安そうに言った。クラリスは、もちろん、と頷く。
「私、本当に自分に自信がなくて、ロナルド様の病に私の魔力や歌が有効だと言われても、何も信じられませんでした。ロナルド様やヴィム先生の診断がというわけではなくて、私自身が信じられなかったんです。だって、私の歌も魔力も目には見えないでしょう? でも……最近、ロナルド様が部下の皆さんとのお話を聞かせて下さるんです。このお店は誰誰が教えてくれたとか、この庭は誰誰の趣味だって……ロナルド様、すごく楽しそうに話してくださるんです」
「それは本当ですよ。クラリス嬢のおかげで体調が安定して、団員といつでも交流が持てるようになったんです。師団長との訓練の申し込みなんて予約が取れないと嘆かれるほどなんですから」
コーディがどこか誇らしげに胸を張る。
ああ、本当に、コーディは彼を慕っているのだと実感して、自然と頬が緩む。
「……でも、あの、失礼ですが、クラリス嬢、ずっと迷って、おられましたよね? 師団長との関係を……」
コーディが不思議そうに首を傾げた。
「……私もびっくりしたのですが、さっき、ロナルド様が君以外を選ばないと宣言して、私は頷きましたが、私の迷いを見透かして、肩に顔を埋めたでしょう?」
「はい」
「あの時、ロナルド様、拗ねたようにこうおっしゃったんです。『本当なのに』って」
「実は、まあ、あのー……聞こえてました」
少しだけばつが悪そうにコーディが頭を掻く。
嗅覚ほどではないにしろ、獣人族である彼は人族よりずっと聴覚が優れているのだから、不思議な話ではない。
「ふふっ、あの時、驚くほどすんなり覚悟が決まったんです」
「え? あれでですか?」
「はい。自分でも不思議なのですが……こんなふうに拗ねちゃう可愛い人を守らなきゃと思ったんです」
「は、はぁ」
コーディはあまり腑に落ちていない様子だった。
ロナルドを崇拝するコーディにしてみれば、彼は「格好いい」という対象なので致し方ない。ロナルドを可愛いというなんて、この世でクラリスとモニカぐらいだろう。
だが、本当にあの一瞬で、クラリスは自分でもびっくりしてしまうほどすんなりと覚悟が決まってしまったのだ。
それはもちろん、モニカやアラン、ヴィムやコーディの支えもあるし、ロナルドからの惜しみない愛情だって根底にはあるけれど、拗ねるロナルドの愛おしさに迷いが全部、押し流されてしまったのだ。
「あんなにうじうじ悩んでいたのが嘘みたいです」
くすくすとクラリスは声を上げて笑った。
コーディはあっけに取られて固まっていて、クラリスは身を屈めて、彼の手を取った。火傷の痕が残る、信頼できる手だ。
驚きに手を引っ込めようとしたコーディより早く、その手を両手でぎゅっと握った。
「コーディ様、どうか約束を」
身勝手で酷い願いだと分かっている。コーディは誰よりもロナルドを尊敬し、忠誠を誓っている。
だが、そんな彼だからこそ、クラリスがロナルドの人生を壊してしまう存在になった時、冷静に対処してくれるだろうと思ったのだ。
弱虫なクラリスには、どれだけの覚悟をして、身分差や生まれを乗り越えることができたとしても、この体の中に流れる血をどうにかすることはできない。
だからどうしてもこの約束が必要だった。
コーディの手がそっとクラリスの手を握り返してくれた。
「……ただ、これは本当にどうしようもなくなった時の最終手段です。お二人の選ぶ道にはたくさんの困難があるかもしれません。ですが、僕やヴィム先生や多くの仲間たち、モニカさんやアランさん、そして、殿下……たくさんの人々がお二人の幸せを願っているということを、クラリス嬢も絶対に忘れないでください」
「はい」
彼はクラリスの返事に満足そうに頬を緩めると、「離しますよ」と断り、手を離した。もう座席に立てかけてあった剣を手に取り、体の正面に構えるとわずかに剣を抜いた。
「コーディ・ハールトークは、騎士の名に懸けて約束いたします」
カチン、と小さな音を立てて剣が戻される。
前にシュティーの仲間たちを元に戻す時、ブルーノたちが秘密を守ると約束する時にしていた騎士の誓いだった。あの後、ロナルドが「騎士の誓いは絶対なんだ。生涯、破ることは許されない」と教えてくれた。
その、生涯をかけた約束をコーディはしてくれたのだ。
「ありがとうございます、コーディ様」
「いえ、こちらこそ」
「ちゅんちゅん?」
話しは終わった?とでも言うように座席の背もたれでじっと大人しくしていたシエルがクラリスの膝の上に飛んで来た。
「大人しく待っていてくれて、とても良い子よ、シエル」
「ちゅん!」
ふふんとシエルは誇らしげに胸を張った。クラリスはその小さな頭を指先で優しく撫でた。
「ところでクラリス嬢、あの、僕が指一本触れないという師団長との約束を破ったことは、どうか内密に……!」
座席に座り直したコーディが心なしか青い顔で告げた。
「ロナルド様は、そんなにお心の狭い方では……それに触れたのは私ですもの」
「いや、でも……」
「コーディ様は、いざという時、ロナルド様が私を任せるくらい信頼の厚い方ですもの」
そう告げるとコーディは、頬を染めて「そうでしょうか」と照れくさそうに頭を掻いた。彼の素直な尻尾がぶんぶんと揺れている。
「あ、そろそろ着きます」
コーディが赤い頬を誤魔化すようにカーテンをわずかにめくって外を確認して言った。
「どなたのお屋敷なのですか?」
「ブルーノ師団長ですよ。話をしたら快く協力してくださいました。あまり姿を見られるわけにはいきませんので、今日は挨拶などは大丈夫です」
「重ね重ね、ありがとうございます」
「こちらこそ協力いただいているわけですから。……着きましたね」
馬車がゆっくりと速度を落として停まった。
コーディが剣を手に立ち上がる。
「それではまた一時間ほど経ったら、馬車が動き出しますので」
「はい。コーディ様もお気をつけて……あ」
クラリスの声にドアを半分開けた状態でコーディが振り返る。
「あの……もしよろしければ、コーディ様の好きな歌も教えてくださいませ。長いお付き合いになりそうですから」
コーディの顔が、ぱっと輝いて笑みが返される。
「はい、ぜひ! 考えておきます! 行ってまいります!」
「行ってらっしゃいませ」
クラリスが手を振れば、コーディも手(と尻尾も)を振り返してくれた。嬉しそうな笑顔がドアの向こうに消えた。
ひとりきりになった車内で、クラリスは、ふっと息を吐く。
あんなにも悩んでいたのに、ためらっていたのに、なんとも不思議だ
もっとドラマティックに、あるいは、もっとシリアスに決まるかと思っていた覚悟は、ロナルドの可愛らしい拗ねた一言であっけなく決まってしまった。
「ロナルド様にどうやってお伝えしたらいいのかしら」
覚悟しました、結婚しましょう? いやいやいや、それは気が早すぎるし、何かが違う気がする。
「な、なんてお伝えしたらいいのかしら……」
コーディ様に相談すればよかったわ、とクラリスは、せっかく持参した楽譜を広げるのも忘れて、うんうんと悩む。
「でも、その前に……」
母に「いらない」と言われたことを伝えなければ、と思った。
クラリスの人生で母を喪ったことの次に悲しい出来事だ。クラリスは、このことを乗り越えて行かなければならない。
そうしないといつまでも「だって私は『母にいらない』と言われたから」と逃げ続ける口実になってしまうから。
母にはそう言われてしまったけれど、でも、クラリスは自分の力で居場所を見つけることができたはずだから。――だから、ただの過去として、ロナルドに伝えられたら、きっと、また違う感情を抱ける気がするのだ。
「ねえ、シエル。私頑張るから、応援してね」
「ちゅんちゅん!」
任せとけ、と返事をくれる可愛い相棒にクラリスは、ほっと表情を緩めたのだった。




