第78話 【書類】偉くなっても、うちの仕事はやるんですね
【現在:開業103日目】
営業終了後の静かな午後。
店内に漂うのは、少し落ち着いたコーヒーの残香と、温泉から立ち上る清浄な湯気の匂いだけだ。
俺はカウンターの端にタブレットを広げ、唸り声を上げていた。
「……全然、書き終わらない」
格闘しているのは、探索者協会への「正式な報告書」だ。
先日判明した、深淵側で休眠状態にある知的生命体の可能性。
そしてルウやドルといった古代種との交流。
これらについて、協会から詳細な「学術報告書」の作成を求められたのだ。
ピコン、と端末が通知を告げる。
相手は、今や協会本部でも要職に就いているはずの倉橋さんだ。
『進捗はどうだ。未発見の知的生命体の「休眠」という事例は、協会の歴史上前例がない。本部の学術部門が非常に高い関心を示している。特区の管理者として、正確な記述を求める』
「口で言うのは簡単ですけどね……。倉橋さん、偉くなっても結局うちの書類やってるじゃないですか」
通信を繋ぎ、俺が半ば呆れ気味にツッコむと。
スピーカーの向こう側から、いつも通りの硬くて事務的な声が返ってきた。
『……うるさい。お前が想定外のことばかり起こすから、私の仕事が増えるのだ。現場の責任として、正式な記録を残しておく必要がある』
一呼吸置いて、彼は本題を切り出した。
『報告書の内容は概ね了解した。だが、一点、安全管理上の問題がある。ルウたちが掘ったあの「穴」だ。現状では物理的な安全措置が何もない。即座に、生物の通過を遮断する障壁を設置しろ』
「障壁ですか。でも、あそこを完全に塞ぐと彼らが来られなくなります」
『格子にしろ。ルウとドルが通れるサイズの隙間は残していい。だが、それ以上の大きさのものが通過できない構造にしろ。強度は最低でもSSランクの物理攻撃に耐えうるものでなければならない』
SSランク。
今の地上で、そんな強度の素材を調達しようと思えば、国家予算レベルの費用が必要になる。
「……そんな素材、どこで手に入れればいいんだ……」
俺が頭を抱えていると。
ゴトリ。
店の隅で、ずっと自分の甲殻を研いでいたドルが、重い音を立てて動き出した。
ドルは俺の前に這い寄ると、自分の背中にある最も厚い鉱石の甲殻を、カシャ、カシャリと精緻な音を立てて削り始めた。
自分の体の一部を、最も純度の高い素材として精製する。
深淵の職人だけが持つ、神秘。
──『ドル:……これでいいだろう』
翌朝。
ドルの目の前には、見たこともない鈍い銀色の光沢を放つ、美しい結晶模様の走る格子が置かれていた。
俺は半信半疑で、手元にあった一番重い鉄のハンマーを、全力でその格子に叩きつけてみた。
……ガキィィィン!!
耳を劈くような金属音。
弾き飛ばされたのは俺の腕の方で、格子には傷一つ付いていなかった。
格子の隙間は、光とコーヒーの匂いを通すが、ルウたちが通る時だけは彼女たちの魔力に反応して、ほんの少しだけ隙間が広がる。
まさに、ドルの職人技が詰まった芸術品だ。
倉橋さんに現物の写真を送ると、しばらくの沈黙の後に返信が来た。
『……これを一晩で作ったのか。この職人は恐ろしいな。防犯構造も強度も申し分ない。許可する。……それと、お前のコーヒーも送れ。以上だ』
プツン、と通信が切れる。
相変わらず事務的で、けれどどこかこちらを案じているような、彼らしいやり方だった。
◇
「よし。格子もはめたし、あとは報告書を書き上げるだけだな」
俺が再びタブレットに向き直ると。
ふわり、と。
カウンターの上に、見慣れた金色の毛玉が飛び乗ってきた。
「きゅうっ! あかり、なでて!」
──『コハク:あかり、なでて。しごと、あとで』
コハクは当然のような顔をして、俺の作業中の画面の上にどっしりと座り込んだ。
「おわりじゃないよ、コハク。格子をはめてから、これを書き上げるまでが仕事なんだ」
俺が苦笑いしながらコハクをどかそうとすると、彼女は「きゅうぅ……」と不満げな声を出しながら、俺の指先にしがみついてきた。
指先を甘噛みされ、さらさらとした冬毛が手に触れる。
手のひらから伝わってくるのは、本気で作業を邪魔する気満々の、高くて柔らかな体温。
そのまま彼女は、俺が動かそうとするタッチペンの先を目で追い、追いかけっこを始めてしまった。
「あー、もう……。退いてくれー。グレイ、なんとかしてくれ」
俺がカウンターの奥に助けを求めると。
そこには、完璧な所作で明日の仕込み用カップを拭いていたグレイがいた。
彼は黄金の瞳を一度だけ俺に向け、そのままコハクを鼻先で軽く突いた。
──『グレイ:……仕事しろ』
画面端に落ちた、短くて鋭い字幕。
コハクに対してなのか、それとも俺に対してなのか。
絶妙な一言に、俺は思わず苦笑してしまった。
「……はいはい。やりますよ」
俺は降参するように手を挙げ、コハクを膝の上に抱え直した。
喉の奥でゴロゴロと鳴るコハクの振動を足に感じながら。
俺はゆっくりと、深淵の隣人たちとの物語を、言葉にして書き進めていった。
格子のはまった出入り口を見つめると。
穴の向こうには、昨日置いた湯の花結晶の淡い光が、深淵の暗闇にほんの少しだけ届いている。
「これで安全も確保できた。……あとは、待つだけだ」
いつか、あの光に誘われて目を覚ます誰かがいるかもしれない。
俺は心地よいコハクの重みを感じながら、最後のピリオドを打った。




