第100話 【1周年】最下層カフェは今日も開く
【現在:開業365日目】
チリロ、チリリン。
天井に張り巡らされたツタの上から、チルが今日という特別な始まりを告げる、澄んだ鈴の音を響かせた。
俺は真新しいエプロンの紐をしっかりと結び直し、深呼吸を一つしてから、魔石中継器のスイッチを入れた。
──────【LIVE】同接:158,200──────
※探索者協会認定・第五十階層特別安全区(特区)
: 待機!!
: 1周年おめでとうおおおおお!!!
: 同接15万超えとか伝説すぎるだろww
: ついにこの日が来たか!
: 公開日イベント! 画面の前で正座して待ってる!
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「いらっしゃい。今日も最下層カフェは、のんびりと営業中ですよ」
俺がカメラに向かって手を振ると、コメント欄は滝のようなお祝いの言葉とスパチャで完全に埋め尽くされた。
今日、三百六十五日目。
この地下五十階層の底で、俺とグレイが一杯のコーヒーから始めた小さな店は、無事に一周年を迎えた。
そして今日は、倉橋さんが通してくれた制度による「年一回の公開日」。
特区の安全を厳格に維持するため、協会が総力を挙げて護衛態勢を敷く中、特別なゲストたちがこのカフェに集結していた。
「深山店長! 本日は警備の責任者として、不審者の侵入は絶対に防ぎますのでご安心を!」
入り口の植物アーチの前では、すっかり頼もしくなった藤堂が、胸を張って警備にあたっている。
その後ろから、防護コートを羽織った『歩く六法全書』こと倉橋さんが、やれやれと肩をすくめながら入ってきた。
「藤堂、気合いが入りすぎだ。ここは特区だぞ。……深山、一周年おめでとう」
「ありがとうございます、倉橋さん。一番上の棚のカップ、用意してありますよ」
俺が笑って答えると、倉橋さんは僅かに口角を上げ、いつもの丸太の椅子へと向かった。
「ヤッホー! 灯さーん、グレイ店長! 一周年おめでとーっ!!」
続いてアーチをくぐってきたのは、トップ配信者の蒼井ヒナさんだ。
彼女は自分の配信用カメラを回しながら、コハクの元へ駆け寄って「コハクちゃん今日もモフモフ!」と全力でじゃれついている。
さらに、その後ろからは。
「灯さん、おめでとうございます。これ、地上のお店で作った記念の特製アロマです」
微笑みながら贈り物を持ってきてくれたのは、すっぴんで晴れやかな表情の楠木さんだ。
彼女はカウンターにタブレット端末を置き、画面を俺に向けた。
『灯さーん! グレイ店長! こっちのお店も忙しくて、今日はそっちに行けないのが悔しいです! 一周年、本当におめでとうございます!』
画面の向こうからは、地上の『アロマカフェ・深淵の雫』のカウンターで忙しそうに手を振る澪ちゃんの姿があった。
地上と最下層が、通信越しに繋がった瞬間だった。
「澪ちゃんも楠木さんも、ありがとう。そっちの店も大繁盛みたいで何よりだよ」
俺がタブレットに向かって笑いかけた、その時。
ザッ、と。
入り口のアーチから、静かで、しかし隙のない足音が響いた。
「深山店長。……遅くなりました」
そこに立っていたのは、見違えるほど精悍な顔つきになった、元Sランク剣士の鷹村さんだった。
彼の手には、以前届いた手紙と同じ、上質な封筒が握られている。
「鷹村さん! わざわざ地上から……」
「ええ。患者としてではなく、一人の客として来ると、手紙に書きましたから。……改めて、一周年おめでとうございます」
鷹村さんが深く頭を下げる。
彼の手はもう、微塵も震えていなかった。
さらに、壁の格子窓の扉が開き、「きゅう!」と満開のピンク色の花を咲かせたルウと、新しい紫水鉱のお皿を抱えたドルが入ってくる。
常連の角鹿親子も、のんびりとした足取りでいつもの席へと向かい。
外の広大な空間からは、「グルルゥゥ……」という古竜の低く穏やかな鳴き声が、地鳴りのように響いてきた。
過去に出会ったすべての人と、魔獣と、古代種たち。
この一年で繋がった温かい縁が、この小さな空間に大集合していた。
「それじゃあ、店長。……俺たちも、最高のおもてなしをしようか」
俺がカウンターの奥へ視線を送ると、SSランクの銀狼――グレイは、無言のまま短く鼻を鳴らし、特大のミルを回し始めた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
重厚な音が、賑やかな店内に響き渡る。
ポッカが完璧な温度で湧き水を沸かし、スミが邪魔にならないよう素早く床の埃を吸い取っていく。
俺は、グレイが淹れた極上の深淵珈琲に、特製のミルクを注ぎ込み。
スキル【全声共鳴】で相手の喜びの波長を感じ取りながら、一杯ずつ、特別なラテアートを描いていった。
鷹村さんには、力強く上を向いた『大剣』のラテアートを。
楠木さんと画面の向こうの澪ちゃんには、二人の店名にちなんだ『雫と花』を。
ヒナさんには、彼女の配信のマスコットキャラクターを。
倉橋さんには、公平と秩序の象徴である『天秤』を。
そして、ルウやドル、角鹿たちにも、それぞれが一番好きな形をミルクの泡で描き出し、カウンター越しに差し出していく。
「うわぁ……! すごい、飲むのがもったいない!」
「……相変わらず、見事な腕だ」
「きゅうっ!」
それぞれの席から、感嘆と喜びの声が上がる。
「さて、皆さんにコーヒーが行き渡ったところで」
俺はカメラに向き直り、今日のために用意していた小さなイベントのボードを取り出した。
「一周年記念特別企画! 視聴者の皆さんが選んだ『グレイ店長のベスト字幕』の発表です!」
──────【LIVE】同接:175,000──────
: きたああああ!!
: これめっちゃ迷って投票したわww
: あれしかないでしょ!
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「数ある名言(?)の中から、見事第三位に選ばれたのは……ルウの特訓の時に出た『やり直し』!」
「きゅうぅ……」
ルウが思い出したのか、頭の花を少しだけ青くして身をすくめた。俺は苦笑して彼女の頭を撫でる。
「続いて第二位! 倉橋さんが初めて来た時に毒気を抜かれたあの一言……『客、座れ』!」
倉橋さんが、わざとらしく咳払いをして視線を逸らした。
藤堂が横で必死に笑いを堪えている。
「そして……栄えある第一位は、やっぱりこれでした!」
俺はボードのシールを一気に剥がした。
そこには、視聴者の圧倒的な票を集めた、この店の代名詞とも言える三文字が書かれていた。
第一位:『冷めるぞ』
──────【LIVE】同接:180,000──────
: 知ってたwww
: 圧倒的王者の風格
: これが出ないと一日が終わらない
: 店長の愛が詰まった最高の一言
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店内に、ドッと温かい笑い声が響いた。
俺がカウンターの奥を振り返ると。
グレイは「何が面白いんだ」とでも言いたげに目を細め、フンと鼻を鳴らしてそっぽを向いていた。
だが、その巨大な尻尾が、お湯の中でバフッ、バフッと嬉しそうに揺れているのを、この場にいる全員が微笑ましく見守っていた。
◇
やがて、公開日の時間は終わりを告げた。
名残惜しそうに帰っていくゲストたちを見送り。
配信用の魔石中継器の電源を切り。
片付けと掃除を全て終える頃には、すっかり夜の深い時間になっていた。
祭りの後の、心地よい疲労感と静寂が、最下層カフェを包み込んでいる。
丸太の椅子の上では、遊び疲れたコハクがへそ天で爆睡し、「きゅぅ……」と寝息を立てていた。
石の炉ではポッカが小さな火種となって眠り、スミもカウンターの隅でつるんと丸くなっている。
俺はエプロンを外し、布巾でカウンターの木目をゆっくりと撫でた。
静かだ。
外の世界の喧騒が一切届かない、地下五十階層の暗闇の底。
「…………」
俺はカウンターの前に座り、天井の発光結晶が放つ青白い光をぼんやりと見上げた。
「……一年前」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと声がこぼれる。
「ちょうど一年前の今日。俺はギルドを追い出されて、四十九階層から落ちてきて……この場所で、死にかけてたんだよな」
全身を打ち付け、ポーションもなく、ただ暗闇の中で死を待つだけだったあの日。
もしコハクが俺を見つけてくれなかったら。
もしグレイが俺を食わずに、最初の客になってくれなかったら。
俺の命はあの日の冷たい岩の上で終わっていて、こんなにも温かくて優しい奇跡のような一年に出会うことは、絶対に一生なかった。
「不思議だよな。世界で一番危険なはずの場所が……今じゃ、俺の全部だ」
俺は目を閉じ、胸の奥底から込み上げてくる熱いものを抑え込むように、深く息を吐き出した。
すると。
スッ、と。
俺の目の前に、静かに湯気を立てる木製のマグカップが押し出された。
目を開けると、カウンターの奥から、SSランクの銀狼が、長く美しい鼻先を伸ばしていた。
深く透き通るような黄金の瞳が、俺を真っ直ぐに見つめている。
グレイが、俺のためだけに淹れてくれた、今日最後の一杯だ。
俺の脳内に、スキルを通じて、この一年間で何度も何度も、数え切れないほど見てきた『あの一言』が、静かに落ちてきた。
──『グレイ:……冷めるぞ』
「…………」
俺は、思わず泣きそうになるのを堪えて、ふっと笑いをこぼした。
「……ははっ。そうだな、せっかくのコーヒーがもったいない」
俺は両手でカップを包み込み、その絶対的な温もりを手のひらで感じながら、ゆっくりと口に運んだ。
湧き水が引き出す、澄み切った深いコク。
冷えかけていた身体の隅々にまで、極上の味が染み渡っていく。
何も変わらない。
出会ったあの日から、この圧倒的で優しい味だけは、何一つ変わっていない。
これからもきっと。
俺たちはこの場所で、訪れる誰かのために、ただ温かいコーヒーを淹れ続けるのだろう。
俺はカップを置き、静かな店内の空気と、コーヒーの芳醇な香りがいっぱいに満ちた空間を見渡した。
「――今日も最下層は、平和ですよ」
誰に宛てたわけでもない、心からの呟きが。
世界で一番深く、温かいダンジョンの底に、優しく溶けていった。




