屋上 前
八月の二十四日。暑さに道は揺らめき、セミの声すらも疲れて聞こえた。
階段を上りきった突き当りのドアを開くと、空に近い屋上に出た。見下ろす街の風景は炎天に歪んで見える。少年はふらりと屋上に出ると、虚ろな瞳で蒼い空を仰ぎ見た。手を伸ばせばその中に浸せそうなほど、濃密な空色がそこには在った。自分が立っている屋上の白とその空の蒼、その鮮やかさに目が眩んで、少年は一瞬、自分が異世界にでも迷い込んだのではと錯覚した。
ドアを閉じると、光に眩んだ視界が明瞭になる。フェンスに囲まれた広い屋上には、真夏の熱い風が吹いていた。
少年は、暫時ぼうっとしてその屋上に立ち尽くしていた。白く華奢な体は、くたびれた半袖の学生シャツに着られているようで、黒いズボンも裾が幾分余っている。髪は男としては長い方だろうか。項の辺りで纏められた髪が、風にそよいで揺れていた。大人になりかけのような、幼さがまだちらつく大きな双眸は、けだるげに、屋上から見える街を見下ろしていた。
風が止み、音が消える。少年は、まるで一人、世界に取り残されたかのようにぽつんとそこに立っていた。
「……ここは……?」
かなり時間が経ってやっと、少年はぽつりとそう漏らした。そして視線を巡らせ―――フェンスに指を引っ掛けている、少女と目が合った。
いつから居たのだろう、と少年は少しばかり面食らう。少女は無言で少年を見詰め、それから少年が何も言わないでいると、フェンスに向き直って指に力を込めた。
「え?」
そして少女は、するするとフェンスをよじ登り―――少年はほぼ反射的に走りだし、空中へと飛び出しかけたその少女に後方から抱き着いた。
「きゃあっ!?」
少年に引っ張られ、少女は転ぶ。その下敷きになり、少年は呻いた。
「あっ……危ないじゃないか!」
少年は少女を起こして座らせ、肩を掴んで怒鳴る。
「何でこんなことしたんだよ、死ぬじゃないか!」
「……はあ?」
少女は、意味が分からない、と言いたげに顔を歪める。
「死のうとしたんだから当たり前でしょ」
「死のうって、何で!」
「死にたいからに決まってるでしょ」
少女は苛立ったように言う。でも、と少年は困ったような顔になった。
「……死んじゃ、駄目だよ」
「どうして?」
「どうしてって、そりゃ、」
「私は死にたいの。死んで構わないの。怖くないの。何で死んじゃいけないの?」
「な、えーと……とにかく、駄目なものは駄目!」
少女の余りにも真っ直ぐな視線に射すくめられ、少年は顔を逸らしながらそう言った。少女はむっとして、ぐいっ、と少年の顎を掴んで自分を向かせる。
「何それ、あんたも先生と一緒じゃん」
「……うええー?」
少女はふいっ、と横を向いてフェンスに寄りかかって膝を抱えた。少年はその隣に座って少女を見遣って首を傾げた。
「……何?」
「ん……別に」
少年はそして、顔を背けた少女をじっと見つめる。ふてくされたような顔だが、長い睫毛に小さな形の良い唇、黙っていれば相当な美人である。
どうしようかな、と少年は視線を空に向ける。自殺を止めた上に筋の通らない理由を押し付けて、彼女にとって自分は煙たいだけの他人だろう。
「……名前」
「ん?」
「あなたの、名前は?」
少女は少年を横目で見遣って言う。少年は小さく微笑んだ。
「天野、翼だよ」
そう言っただけで少しだけ、距離が縮まったようで嬉しく感じる。そうして少年、翼は自分の感情を自覚した。
一目惚れなんてものが、実在するなんて。
真夏の炎天下、名前も知らない、自殺志願者の少女に。自分は初めての恋をした。




