長い夜の予感
(死……!)
西馬の脳裡をかすめたのは、この一文字だった。
彼はすでに死んでいる。だからこそ、こっちの世界(いわゆるあの世)にいるのだ。それなのになお「死」という言葉が頭をよぎった。
その後に思い出したのはカマキリだった。カマキリのオスは交尾後、メスに食われて死ぬらしい。そのことが今は他人事と思えない。目の前にいる、パッと見や美しい女。彼女とあんなことをしたら、自分の体がいくつあっても足りない。もちろん、悲惨な意味でだ。
現に目が合っただけで、ギランギランに刃を茂らせた木の枝が、すんごい勢いで四方八方に伸びたのだ。
今、ブラッディ・マリーを飲みながら、トウ子は少し落ち着いたらしい。しかし油断はできなかった。
「なんでですか!」
西馬の声は小さかったが、そこには隠しきれない必死さがあった。
「あの獄卒は終わりだ」
「は!?」
「あいつはバグを起こしているから。獄卒としての役割をもう果たせない。だから、いずれ消される身だ」
「だから?」
「お前が成仏させてやれ」
黒猫が、猫と思えないようないやらしい笑いを浮かべた。そして、言った。
「お前がいかせてやれ」
「……は?……え?それはどういう……」
「はぁ!?」
黒猫が軽蔑の色を浮かべた。
「お前はアホか?分かるだろ?ドウテイじゃないんだから」
西馬の頭に一瞬、文学的なフレーズが浮かんだ。僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる的な。
「ゴホン」
咳払いが聞こえたので振り返ると、閻魔大王がニヤニヤしている。その向こうで、トウ子が酒を飲んでいる。その横顔は透けるように白く、髪は艶やかで、艶めかしかった。
(いやいや)
西馬は頭を振った。少しでも煩悩に流されると、たちまち刀葉の地獄に連れて行かれる。男だけが与えられる地獄の苦しみが待っている。その苦しみを与えるのが、トウ子たち女獄卒の使命なのだから仕方がない。いや、まぁ、仕方がないとは思いたくないのだけれども。
「男になれ」
閻魔大王が諭すように言った。
「いえ、結構です」
即答する西馬。
「人間界ではよく言うのだろ」黒猫が言う。「据え膳くわぬは男の恥」
「こっちにだって選ぶ権利が……!」
コトリ。カウンターにグラスが置かれた。見ると、トウ子の前に空になったグラスが置かれていた。伏し目がちな彼女は憂いを漂わせ、ものすごい絶対的な色気をもっていた。
(なんで普通の女性じゃないんだ……!)
「それは地獄の者だからだ」
黒猫がさらりと言う。勝手に心を読んでくることがあるので油断できない。西馬は気を引き締めた。
「たぶん、このままの状態が延々と続くぞ。それで良いのか?」
黒猫が西馬の顔をじっと見て言った。
「そんなこと言ったって……」
西馬はタンブラーにトマトジュースを注ぎ、ウォッカのボトルを開ける振りをしたあと、マドラーでなんとなく混ぜる真似事をした。
「もし、そういうことをしたとして、この体が原型をとどめていられる保証はあるんですか?」
「さぁ」
黒猫が肩をすくめた。西馬は閻魔大王の顔を見た。
「さぁ」
閻魔大王も肩をすくめた。
「無責任すぎませんか!?」
「いや」
「だって」
「実際どうなるか分からない」
「そうだ。分からないのだ」
「案ずるより産むがやすしだ」
「そうそう。閻魔大王様の仰る通り」
閻魔大王と黒猫が交互に言い募ってくる。言葉の波状攻撃だ。
「いや他人事!」
「そうだ他人事だ」
「……!」
なるべくトウ子の目を見ないようにしながら、西馬はヴァージン・マリーをトウ子の前に置いた。いつでも木の枝を避けられるよう、逃げの体勢をとりながら。
しかし、今回は何事も起こらなかった。思わずため息をつく西馬。
そりゃもう、いろんな意味でのため息だった。
トウ子はバグを起こしている。彼女が西馬の前に現れる限り、刀葉の木の枝の攻撃にいつ晒されてもおかしくはない。
そんな彼女を「いかせてやれ」という。ダブルミーニングだ。
トウ子は美しい。しなやかであり、透けるような肌をしている。彼女は何もかも持っている。必要以上に持っている。女が持っている凶暴性を極限まで増幅させた感じなのだ。くわばらくわばら。
「そろそろ帰るとするかな……」
閻魔大王が席を立った。そして、黒猫の頭を撫でた。黒猫はされるがまま、閻魔大王に身をゆだねていた。
「え?え?……」
西馬は言われっぱなしだ。
「また来る」
閻魔大王が言った。そして、トウ子のことを目線で示して、
「成仏させてやれ」
と言った。そのままドアに向かって歩き出した。
「いかせてやれ」
含み笑いしながら黒猫が言った。
「今夜はお前たちだけにしてやる」
それだけ言うと、カウンターの上から飛び降りると、閻魔大王の後をついて行った。
カランコロン。
ドアベルが鳴って、閻魔大王と黒猫は出て行った。
バーの中は、ふたりきりになってしまった。
どうする西馬……。
どうする!




