2.
「ルー」
その人が突然現れたのは、カイルが眠り続けて五日目のことだった。
「……エリス様」
カイルが眠るベッドの枕元に置いた椅子からよろめきながら立ち上がると、エリス様は後ろに従っている侍女に目配せをした。侍女は部屋の外に出て、ドアを閉めた。
「カイルは、まだ目を覚まさないのね」
そう問いかける声も、カイルを見下ろす目にも、かつて彼に向けられていた愛情が何も感じられない冷ややかなものだった。
カイルには悪いけれど、もしやエリス様がウォルティス様との結婚を後悔し、彼と添い遂げると言い出すのではないかと不安で揺れていた私は、正直安堵した。
今のエリス様は、以前と全く変わってしまった。昔の溌剌とした明るさは無く、相変わらず美しいけれど、そこには拭いきれない影がある。三年という月日が、彼女をこうも変えてしまったのだ。
「あなたも、まだ傷が癒えないのに、カイルに付きっきりなのだそうね。神官から聞いたわ」
それは事実なのだが、エリス様からそう言われると居心地の悪さを感じた。
共に命を掛けて旅をしてきた仲間の介抱をするのは当然ではないかと思う一方で、独身の女が男を付きっきりで看病することは、無用な憶測を招くこともあるのだろう。
「カイルは、一緒に旅をしてきた大切な同士ですから」
それは事実だった。ただ、私の気持ちを全て表してはいないだけで。
すると、エリス様の美しい顔が醜く歪んだ。
「ねえ、ルー。今、ここにはあなたと私しかいないわ。だから、本当の事を教えて。あなた達、本当は愛し合っているのでしょう?」
「……え?」
思いがけない言葉が脳内で処理されるにつれ、私の中で湧き上がってきたのは怒りだった。
「何を言っているのですか」
私がどんなにカイルの事を思っても、彼が愛していたのは唯一人、今、私の目の前にいるあなただというのに。そのあなたの口から、そんな言葉を聞くことになろうとは。
眉を顰める私に、エリス様は挑むような口調で尚も言い募る。
「魔王を倒した後、あなた達は国に戻らずにどこかで一緒に暮らしていたんでしょう? でなきゃ、考えられないわ。魔の森から帰ってくるのに、三年もかかるなんて。その間、ずっと音信不通だなんて」
「ですから、それは……」
「国へ戻ってきたらカイルは私と結婚することになってしまうから、それが嫌でどこかに駆け落ちして暮らしていたのだと噂になっているわ。一緒に命懸けで戦っている間に、情が移ったの? それとも、あなたがカイルを誘惑したのかしら」
一方的に向けられる事実無根の憎悪に、ただただ愕然とするしかなかった。
すると、エリス様は不意に、泣きそうな子供のような表情を浮かべた。
「私はずっと待っていたのよ。瘴気が晴れて、魔王が倒されたのだという噂を聞いて、やっとカイルが戻ってきてくれるのだと喜んでいたのに。待てど暮らせど、戻って来ないどころか何の便りも無くて、どこにいるのかも分からなくて。魔の森の外で戦っていた軍の報告で、魔王城自体が消えてしまったという話を聞かされて。私がどんなに絶望したか分かる?」
ああ。やっぱりエリス様は、私達が死んでしまったのだと思っていたのだ。
「それでも諦めきれなくて、カイルの帰りを待ち続けて、身も心もボロボロになった時、傍にいて励ましてくれたのはウォルティスだったわ。……でも、彼はあなたに求婚していたそうね?」
返す言葉もなかった。それは、事実だったから。
ウォルティス様は貴族で、この国でも高名な魔法使いだ。もし彼が魔王討伐に向かう魔法使いにと志願していたら、私はカイルの相棒の座を手に入れることはできなかったかも知れない。それ程の実力の持ち主であり、私にとっては尊敬すべき恩師だった。ただ、彼は貴族家の跡取りだった為、家族の反対もあって志願することはできなかったらしい。
旅立つ前、彼は私にこう言った。もし、自分が力ずくで君を阻止しようとすればできる。旅に出て欲しくない、今からでも辞退してくれないか。批判に晒されたら自分が護る、一生守り続けるから、と。
けれど、カイルの事ばかりしか頭にない私は、その言葉を笑って受け流した。辞退するつもりはない、心配してくれるのはありがたいけれど、私はカイルと一緒に行きたいのだと答え、彼は私の意志を尊重してくれた。
その代わり、生きて戻ったら、その時は自分とのことを考えておいてくれと言われた。それが求婚だったということは、後になってから気付いた。だから、神殿で新郎となった彼を見た時、複雑な心境になったのは否めない。
「ウォルティスは、絶望して泣き暮らす私を励まし、支えてくれた。ずっと傍にいると言ってくれたのよ。……彼を愛して、何が悪いの? どうして私が非難されなきゃいけないの? 何故待ってあげなかったのかって、……三年も待ったのに! どうして今更、戻ってきたりしたのよ!」
「エリス様!」
ドアの外に待機していた侍女が飛び込んできて、取り乱すエリス様を引き摺るように連れ出そうとする。
それを振りほどいて私に飛びかかってきたエリス様は、胸元を掴んで鬼のような形相を浮かべた。
「カイルだけじゃなく、今度はウォルティスまで私から奪う気なのね? あなたの気味の悪いその瞳が、そうさせるの?」
突如、世界が色あせて見えた。
侍女がエリス様を羽交い絞めにして部屋から連れ去る光景が、まるで別の世界で起きていることのように見える。
エリス様が気に入ってくれたから、私は育ての親も自分自身さえ気味が悪いと思っていたこの瞳でも生きて来られた。それなのに……。
足の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
「カイル……」
カイル、カイル、助けて……。
どんなに心の中で泣き叫んでも、彼は気付かない。
それは、昔からずっとそうだった。今もそう。私が本当に助けて欲しい時に、彼は手を差し伸べてはくれない。
それで良かった。私は、彼が幸せになれればそれでいいのだと思っていた。彼が幸せになれば、自分も幸せになれる。彼の助けなど必要ない、私が彼の力になってあげるのだと思っていた。
でも、今、無性にカイルに抱き締めて欲しかった。大丈夫だよと慰めて欲しかった。誰もが気味が悪いと言っても、俺は君のその瞳が愛しいのだと言って欲しかった。それが叶わない夢であっても、そうして貰えなければこのまま自分が崩れ去ってしまいそうだった。
そう、いっそこのまま砂になって、さらさらと消えてなくなってしまえればどんなに楽だろう。
けれど、砂にはなれなかった私は、代わりに神殿を飛び出していた。
カイルが死ねば自分も死ぬ、ずっと一緒だと心に決めていたのに、私はもうカイルの傍にいることはできなかった。
エリス様の言葉で知ってしまった。世間には、私達が魔王を倒した後、駆け落ちしたのだと思っている人達が多数いるのだと。空間の捻じれによって時を超えてしまったという私の主張も、彼らは下手な言い訳だと思っているに違いない。
だから、私がカイルの傍にいれば、彼は婚約者がある身で他の女と駆け落ちしたという、あらぬ疑いをかけられてしまう。例え、もうエリス様と結ばれないのだとしても、彼にそういう不名誉なレッテルを貼られたくはない。
……私は、カイルの傍にいない方がいい。いてはいけないのだ。
けれど、神殿を出た私に行く当てなどなかった。元いた魔法学校にはウォルティス様が今も教師として勤めているから、エリス様をこれ以上刺激しない為にも近づかない方がいい。それに、今はもう育ての親も亡くなった片田舎の宿屋には戻る理由さえない。
神官から聞いた話では、魔王が倒されて魔物も消えてしまった為、各地で戦士や魔法使いが多数失業しているらしい。そんな彼らを抱え込んで、今度は人間同士の戦争を始めようという動きも出ているようだ。
カイル。……ねえ、カイル。魔王を倒せば、生きて戻れば、幸せになれるはずだったのに。どうしてこうなってしまったの? 何が悪かったの?
私があなたの傍にいたいと願ったから、こうなってしまったの? 大人しくウォルティス様の言葉に従ってこの国に残っていれば、エリス様はあなたが戻るまで待ち続けていてくれたのかも知れない。そうしたらあなたは幸せになれていたはずなのに。
深い絶望と後悔の中、私の中に湧き上がってきたのは、この世界を壊してしまいたいという思いだった。
こうなるはずじゃなかった。カイルもエリス様も私も、幸せになるはずだったのに。この世界は間違っている。……そう、間違いを正さなければ。
その時、私の脳裏を過ったのは、魔界の扉の存在だった。
あの扉を再び開くことができれば、歪んだ時空を超えて三年前からこの世界をやり直せるかも知れない。
何の根拠もない、ただの思い付きだった。それでも、私はその馬鹿な思い付きに縋って、旅に出ることにした。
魔物のいない世界を旅するのは、一人でも平気だった。ただ、手持ちの資金が乏しかった為、途中で商隊の護衛をして金を稼ぎ、それでも足りない時は身に付けていたものを売った。
旅の加護に、と以前エリス様から送られて肌身離さず身に付けていた守りの金のペンダントは、真っ先に売り払った。それから、魔王や魔物と戦う為に必要だった武器防具の類も、ほとんど売ってしまった。野盗相手には、魔法で充分だったから。
けれど、大怪我を負ったままで旅を続けて祖国に戻り、その傷が治りきらないうちにまた無理な旅を続けたせいか、魔の森の手前にある街で倒れた私は、そのまま何日も寝込むことになってしまった。
……このまま、死んでしまえばいい。
カイルが死んだという話は聞かなかったが、回復したという話も聞かなかった。
例え死んでいるにしろ、世界を救った勇者が辿った哀れな末路を、国として公表できないで隠しているに違いない。その証拠に、もう一人はこうして国を出て、旅先でひっそり死にかけているというのに、祖国の者は追ってくるでもなくほったらかしではないか。
噂では、魔の森の周辺は今、戦場になっているらしい。元々あった国は魔王に滅ぼされていて、東西の隣国がその土地を折半して併合したらしいが、中心にある魔の森を巡って、ついに武力衝突へ発展してしまったそうだ。
私達は、こんな事の為に命懸けで魔王を倒したのか。若い命を散らしていった他国の勇者や聖戦士達の無念を思うと、悔しくて仕方がない。
熱が引かなくても、明日にはこの宿を発たなければ。でないと、最後まで手放すことができずにいた、カイルから貰った髪飾りを売り払うことになってしまう。
これだけは、最後の最後まで持っていたい。例えこれが、旅の途中に私達を夫婦だと勘違いしたしつこい商人から無理矢理売りつけられたカイルから、仕方がない、と渡されたものであったとしても。
けれども熱はますます高くなり、宿を発つどころかベッドから起き上がることもできなかった。無情にも髪飾りは取り上げられた挙句、伝染病を疑った宿屋の主人に宿から追い出され、ついでに街からも追われた。
街外れで行き倒れた私は、何となく、これで良かったんだと思った。
もし、魔の森に辿り着いて、魔王城の奥に今もあるあの扉を開いていたら。きっと、私の魔力を持ってすれば、再びあの扉を開くことは可能だっただろう。けれど、そうできなくて良かったのだ。
きっと、私は神殿を出た時から、何かに憑りつかれていた。再び魔界の扉を開かせようとする、魔王の呪いのようなものに。
大きな木の根元に座り込み、幹に背を預けて目を閉じる。
死んだら、あの世でカイルに会えるだろうか。もし会ったら、彼は何て言うだろう。
できれば、お前のせいで不幸になっただなんて、責めないで欲しい。お互い、あんなに頑張ったのにあの結末はないよな、なんて笑ってくれたらいい。
そうしたら、私も誰に気兼ねすることもなく、カイルに本当の気持ちを伝えよう。例え、受け入れられなくてもいいから。私がどんなにカイルを好きだったか知っていて欲しい……。
「ルー」
聞きたくて仕方がなかった声で名を呼ばれて、微睡から覚めてゆっくりと目を開ける。
目の前にいるカイルはすこぶる健康そうで、そのまま死んでしまいそうな顔で眠り続けていた彼とは別人のようだった。どんな死に方をしようとも、あの世では健康な姿に戻ることができるのか。
カイルは、少し怒ったような顔をしていた。やはり、私のせいで失意のうちに死ぬことになったと怒っているのだろう。
「どうして、俺を置いていなくなった?」
彼は私に覆いかぶさるように身を屈めると、そっと私の頬を撫でた。
「どうして、こんな無謀な旅に出た?」
息が掛かるほどの距離で、彼は何度も繰り返した。どうして、どうして、と。
答えようとしても声が掠れて何も言えない私に代わって、カイルは喋り続けた。
私が姿を消した日の夜に、彼が意識を取り戻したこと。
神殿を出た私の事を、誰もが魔法学校に戻った、あるいは田舎の実家へ戻ったと思い込み、失踪したとは思っていなかったこと。
体力を回復したカイルが、どこにもいない私を探し回り、ふと魔の森に向かったのではないかと思い立って旅に出たこと。
途中、蚤の市で私が持っていた守りのペンダントを見つけて確信を抱いたこと。
戦火に焼かれて灰になった魔の森を見て、私も巻き込まれて死んだのだと絶望したこと。
戻る途中、街で見覚えのある髪飾りを売ろうとしている少年を捕まえ、それが少年の雇われている宿屋の客から代金代わりにふんだくったものだと言われたこと。
その客は伝染病に罹っているらしく、街を追い出されたこと。
それから、血眼になって私を探し回り、ようやく木の根元に倒れている私を見つけられたこと。
偶然通りかかったこの街の有力者に協力して貰い、屋敷の一室を提供して貰っていること。
魔王を倒した報酬にと国王陛下から与えられた、体力を回復する神器を使って、失われかけていた私の命を救ってくれたこと……。
カイルの話を全て聞き終える頃には、ここがあの世ではなく、どこか裕福な家の一室で、私はベッドに寝かされているのだと状況を理解していた。
話している間も、話し終えてからも、カイルはずっと不機嫌そうだった。
「お前を探している間、俺がどんなに不安だったか分かるか?」
まるで報復だとばかりに、カイルは私のおでこを指で弾いた。全く痛くはなかったのに、カイルは指先で自分が弾いた部分を撫で、それからその手の位置をずらして私の薄菫色の髪を何度も梳いた。
「俺もエリス様の結婚を知って、一時は死んでしまいたいほど絶望した。……お前も、ウォルティス殿に振られて、それはショックだったかも知れんが」
「……え?」
清々しいまでの勘違いに驚く私に気付くことなく、カイルは喋り続ける。
「だが、せっかく魔王を倒して凱旋したのに、失恋した挙句に野垂れ死にするなんて馬鹿らしいじゃないか」
……あんなに思い詰め、悲嘆に暮れながら辿ってきたここまでの旅をそういう風に表現されると、本当に馬鹿らしく思えてきた。死にかけるほど思い詰めていたこれまでの日々は、一体何だったんだろう。
カイルの一言でこんなにあっさりと吹っ切れるのに、もし彼に助けられていなかったら、カイルを絶望のまま死なせてしまったと思い込んだまま死んでいたのだ。そう思うとゾッとする。
カイルの話から推測するに、彼は懸命に私を探してくれていたようだ。彼がそんな行動を取るだなんて思ってもいなかった私は正直驚いたけれど、もしかしたらエリス様が言った通り、共に死地を潜り抜けているうちに少しばかり私に情が移ったのかも知れない。
でも、少なくとも王都に戻った時には、カイルはまだエリス様のことを愛していた。だから、先走って勘違いしてはいけない。彼は、共に戦った同士に同情してくれているだけなのだ。
そう警戒する私に、カイルは思いがけない提案をもちかけた。
「辛いことがあれば、これからは俺に相談しろ。な? 失恋を忘れるには新たな恋をすればいいなんて言うが、俺で良けりゃいつでも相手になってやるから」
「本当に……?」
思わず、飢えた子供の様に縋り付くと、一瞬目を丸くしたカイルがふわりと笑う。
「ああ、本当だ」
「……でも、そうなったら、誤解されてしまうわ」
三年、駆け落ちしてどこかで暮らしていたのだというあらぬ噂が、真実としてまかり通ってしまう。それは、カイルにとっても不本意だろう。
すると、カイルは苦笑を浮かべ、それから見ているこちらが腰砕けになりそうなほど艶やかな視線で私を見つめた。
「言いたい奴には、言わせておけばいい」
そのまま、ゆっくりとカイルの顔が下りてくる。
カイルがどこまで本気なのか分からない。
失恋を忘れる為に恋がしたいのは、私じゃなくてきっとカイルの方だ。けれど、彼がそう言う気持ちになっているのなら、恋人の座を他の誰にも渡したくはない。絶対に。
初めての口づけを交わした後、カイルは私の瞳を見て微笑んだ。
「お前の瞳は、相変わらず宝石みたいで綺麗だな」
湧き上がる幸福感に包まれた私の目尻から、涙がポロリと零れ落ちる。
例え、どんな始まり方でもいい。彼の思いが、今は愛とは少し違うものであってもいい。
今度こそ、この人を幸せにしてあげたいと心から思った。
読んでいただいてありがとうございました。