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眠りの森の魔女  作者: 茉雪ゆえ
6/6

6 「アル」と「フィッテ」

 正直に述べよう。


 その時、彼に通じたのは、固有名詞だけ――つまり、わたしの名前だけだった。それも、わたしが己の名を告げる時、掴んだ手を自分の方に引き寄せたから通じたのだと思う。

 しかも、彼にとって『フェケテ』とは発音の難しい語感だったようで、どうしても『フィッテ』になってしまうのだ。もうフィッテでいいわと諦めた。

 そして、彼の名前が『アル』であるということが分かるまでには、さらに時間がかかった。どうも本当はもっと長い名前らしく、わたしがそれを固有名詞だと判断できなかったために、理解が遅れたのだ。異国語の長い名前はまるで文章のように聞こえたし、彼が『フェケテ』を発音できないように、わたしも上手く発音することができなかった。

 お互いに妥協に妥協を重ね、わたしたちはやっと、『女』と『少年』から『フィッテ』と『アル』になった。しかも、わかったことはこれだけだったというのに、ぐったりするほど時間がかかったのである。


 しかし、これはかなり、意義のあることだった。お互いに『少年』だとか『女』だとか認識していた相手に名前がつけば、それだけで意識が変わるのだ。名前も知らぬ使用人は家具のようだというけれど、名前を知れば身近な存在になる。名を知らねばただの雑草も、名を知ることで薬草になったりするわけだ。

 名を知っているかいないか、ということは人間の意識にとってとてつもなく大きなことなのだと、わたしは初めて知った。見習いから数えれば、魔女になってもう10年以上の年月が流れたというのに、魔女や魔術師が『真名』を秘め隠して大切にすることの意味を、ようやく本当に知ったように思う。名は存在を空間に描き出すのだ。だからこそ、魂を縛られないように、真名は隠さなければならない。


 ……話がそれた。

 ともかくわたしはフィッテになって、彼はアルになった。

 あの日どんな心境の変化があって、あの時何を聞いたのか、それはまだ分からない。己の置かれた状況を把握しようと思うだけ回復したのだと思えればいいのだけれど、彼の傷の状態は薬を拒み続けてきたせいで、それほど良くはないのだ。気まぐれかもしれないし、あの時少しだけ、気力が湧いたのかも。

 まあ、生きる気力がわいたのなら、きっかけなんてなんだって構わない。


「これは『紙』です」

「これはかみです」

「『紙』」

「かみ。かみ……」

「『紙』」

「かみ……かみ……」

「『紙』」

「かみ……フィッテ?」

「それは『ペン』、これは『インク』」

「それはぺん」

「『ペン』。これが……『インク』」

「ぺん……いん……?」

「『ペン』『インク』」

「ぺん、いんく」

「『ぺん』と『インク』」

「ぺん、と、いんく」


 ……あらかわいい。


 ――ではなくて。

 わたしの名前を把握したアルは、まるで幼子のように、自分の身の回りにあるあらゆるものの名前を知りたがった。なるほど、言葉が通じないのなら教えればいいし、覚えればいいのだ。本人のやる気次第とはいえ、そんな当たり前のことを失念していたのだから、わたしも愚かなものだ。


「フィッテ、***……み……ず」

「喉が渇いた?」

「のど が かわい た」

「はい、水」

「***……みず。……あ りがと う」

「どういたしまして」


 うむ、かわいい。


 ――ではなくて。弟子をもったこともなく、先代の大魔女さまの最後の弟子で、つまり妹弟子もいなかったわたしは、教師としては非常に出来が悪いだろうと思うのだが、彼は非常に賢い生徒だった。発音は難しいらしく、口から出る言葉はたどたどしいものの、教えた単語をすぐに覚えてしまうのだ。

 しかし、その流れの中でわたしは彼が、別の世界から来たのであろうという思いを強くした。何しろ、指し示されて教えた全ての単語が、彼の身には馴染みのないもののようなのだ。何を見ても、アルは首を傾げる。


 基本的に森を離れない『森の魔女』とはいえ、長年引き継がれ続けている魔女の庵には、異国のものも少なくない。同じ世界で生きていれば、ひとつくらいは、どこかで聞き及んだことのある響きのものが混じっているものではなかろうか。

 彼はどこから来たのだろう。

 蒼の魔術師様とわたしがあの時推測したように、裂け目の向こう――そういえば、わたしたちとは理の違う世界かもしれないと彼は言ったっけ――なのだろうか。

 ならば、彼の傷を癒やしたなら、どこへ帰せばいいのだろう。

 わたしは近頃、そればかり考えていた。完全に気を許したわけではないだろうけれど、わたしへの警戒をようやく薄めつつある彼は、たとえ薬が足らずとも、その若さゆえか日々快方に突き進んでいる。このまま行けば、春がくる頃にはほとんど治るだろう。まあ、傷跡は残ってしまうだろうけれど。

 遠からず、完治はするだろう。けれど、その時に彼をどこへ送ればいいのかが分からない。この世界ならば、そちらの方面に向かう隊商や役人に預けることができるし、魔術師の力を借りて、転移させることもできるかもしれない。けれど、別の世界なら、彼をどうやって帰せばいいのだろう。

 もちろん、アルが同じ世界の、わたしたちの知らないごく遠方の地の人間である可能性もまだ残っているし、できるならそうであれば良いと思う。森の魔女は、亡命者を癒やし、送り出すところまでが使命だ。界をまたいで送り届けなければならないとしたら、それはかなり難易度の高いことである。そもそも、界を超えることなど、魔術や魔法でどうにかなるものなのだろうか。少なくとも、森に属し森の力を魔法とする『森の魔女』の手には負えない。


 ともかく、彼の状況を知るためには、彼自身に聞くしかない。それには彼に言葉を覚えてもらう必要がある。けれど、まだ寝床から離れられないアルの隣に、魔女としての仕事――薬の生成や結界の維持、ちょっとした魔道具の作成や修理くらいだけれど――があるわたしが張り付いて、言葉を教えることも難しい。

 そして、もう一つ懸念していることがある。魔女としての言葉しか持たないわたしと暮らして、彼が己を語れるだけの語彙が果たして手に入るものだろうか、ということだ。なにせ彼は男の子で、わたしは女だ。彼には魔力がなく、わたしは魔女である。高い地位にあるかもしれない彼に対し、魔女の暮らしは自給率の高い、よく言えば清貧といったものだ。おそらくは全く違う文化の中で、水準の違う暮らしをしていただろう彼が、わたしとの暮らしの中で覚える言葉で、その生い立ちを語れるだろうか?


「それに……わたしとばかり喋ってると、女言葉を覚えちゃうかもだし」

「フィッテ」


 呼ばわれ、わたしはぼんやり、声の方を向く。


「はい、なんですか?」

「ひと いり、ぐち」

「……うん?」

「おと……こ? いりぐち」


 覚えたての言葉を懸命に紡ぐアルに、わたしは思考の渦から起き上がった。魔女は思考に沈みがちないきものだが、わたしのようにひとりで庵を結ぶ者は、特にその傾向が顕著だ。日頃、人のいない暮らしをしているせいで、思い立ったら思い立ったところで考えこんでしまうのだ。例えば朝目覚め、布団から出る前に思考が展開し、気づけば昼であったりとか。外で薪を割りながら考え事をして、気がついたら日が沈もうとしていたりとか。スープを口に運びながら思いついて、ハッとした時にはアツアツだったはずのスープが冷たい汁物になっていたりだとか。

 ここ数日は、アルがわたしを不思議そうに呼ばわることで気がつくことが多くなっている。


「入り口?」

「ひと」


 何事? と首を傾げるわたしに、アルはもどかしげに眉根を寄せる。彼の居場所となっている居間の入り口へ目をやるも、誰も居ないし、何もない。

 わたしでは気配を感じられない精霊か何かが来ているのだろうか? と考えたところで、ゴンゴン! とノッカーが無骨な音を立て。


「『森の魔女』フェケテ! 在宅か!」


 と、聞き覚えのある、よく通る男声が響いた。






突然放り込まれて全く知らない世界の言葉を覚えようとする時ってきっと、赤子のような感じで自分の周りに合わせて言葉を習得してしまうだろうと思うんだけど、それが元々自分のいた環境と全く違うとしたら一体どうやってその差異をすりあわせていくのだろうなぁとかすげーまじめに考えたんですけど語学苦手なせいかいい考えはさっぱり浮かびませんでした。

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