第35話 炉心の再起動と「定時」の訪れ
『万能霊樹の雫』によって生み出された純白の蒸気は、地下ドーム全体を清らかな冷気で満たしていた。
体長十五メートルの変異巨獣が黒い砂となって消え去った後、リーゼロッテは息を乱すことすらなく、すでに作業用工具箱を開いていた。
腰のホルダーから取り出したのは、魔導工学用の特殊レンチと、ミリ単位の歪みを測定する真鍮製の魔力分光計。
深緑の髪をポニーテールに束ねた彼女の眼差しは、先ほど巨大魔獣を両断した凄腕の剣士から、冷徹で緻密な現場エンジニアのそれへと完全に切り替わっていた。
「……まずは、この見習い以下のデタラメな配管からね」
リーゼロッテは手袋を嵌めた手で、バルタザールらが強引にねじ込んだ安価な銅合金パイプを掴むと、局所的な身体強化の魔力を込めて一気に引き抜いた。
バキィッ! と鈍い金属破壊音が響き、不純物で目詰まりを起こしていた粗悪な金属管が床へと投げ捨てられる。
続けて、焼け焦げた術式刻印板を指先でなぞった。
爪先にわずかな魔力光を灯し、煤けた石板の上へ、流れるような筆致で新たな術式ラインを刻み込んでいく。
無駄な装飾を一切削ぎ落とした、超高効率の魔力循環幾何学――彼女がかつて完成させていた、独自の三重螺旋制御術式である。
「逆止弁を三十度左へ傾斜。冷却バイパスの第2ラインと第4ラインをクロスさせ、炉心圧力を五点分散……よし、これで流量の同期は取れるわ」
淀みのない手際。
まるで熟練の時計職人が複雑な歯車を組み上げるように、巨大な炉心の心臓部が、彼女の手によって瞬く間に本来の美しい秩序を取り戻していく。
作業開始から、わずか二十分。
張り巡らされた魔導配管の亀裂はすべて塞がれ、冷却液の循環ラインからは、澄んだせせらぎのような快いエーテルの流動音が響き始めた。
「最終調整。――魔力調律、起動」
リーゼロッテは素手を炉心の中央コアへとそっと触れさせた。
手のひらから放たれるのは、淡い琥珀色の温かな光。
彼女自身の精密な魔力波長が、コア内部の荒れ狂っていたエーテル粒子と完全に同調していく。
トクン……トクン……。
炉心の奥底から、力強く、そして穏やかな心拍のような脈動が甦った。
赤黒い澱みは完全に消え去り、コア全体が抜けるような美しいスカイブルーの光を放ち始める。
地下空間を満たしていた焦熱と悪臭は跡形もなく消え失せ、代わりに澄み切った高山植物のような清涼な空気が満ち渡った。
ゴオォォォォォォ……ッッ!
炉心の再起動に伴い、地下から地上へと伸びる主送魔ラインが一斉に息を吹き返した。
莫大にして純粋な魔力エネルギーが、王都全域の防壁基部へと一気に送り込まれていく。
***
その瞬間、王都の地上では、数万の人間が息を呑んで空を見上げていた。
外郭正門の防壁の上で、剣を構えていたガレス大隊長が、目を見張る。
天を覆い尽くしていたドス黒い瘴気の雲。
その分厚い闇の中心を突き破るようにして、王宮の尖塔から一条の青白い光の柱が天高く噴き上がったのだ。
キィィィィィィン――……。
鈴を転がすような澄んだ共鳴音が、都市全体を優しく包み込む。
光の柱は天蓋の頂点で傘のように広がり、瞬く間に王都全域を覆い尽くす巨大な光膜を形成していった。
完全なる『王都大結界』の復活。
かつての出力など比較にならない。
不純物を徹底的に削ぎ落とされ、完璧に調律された防護結界は、まるでダイヤモンドのように硬質な輝きを放ちながら、空を覆っていた汚染瘴気を一瞬にして浄化し、吹き散らした。
垂れ込めていた暗雲が消え去り、燦然とした夕暮れの陽光が、荒れ果てた街並みを黄金色に染め上げる。
さらに、結界が放つ神聖な魔力波長に当てられた魔獣の群れは、侵略の本能を完全に挫かれ、蜘蛛の子を散らすように街道の彼方、森の奥深くへと逃げ惑い始めた。
「消えた……瘴気が、晴れたぞ……!」
「結界だ! 王都大結界が戻ったんだ!」
「空が見える……青空だァッ!!」
市街地から、防壁の上から、そして避難所となっていた広場から、地鳴りのような歓声が爆発した。
涙を流して抱き合う市民たち。
血まみれの甲冑のまま、地面に膝をついて感涙に咽ぶ近衛騎士たち。
数時間前まで国家滅亡の淵に立たされていた都市が、今、完全なる奇跡によって救われたのだ。
***
大歓声に沸く地上から遅れること数分。
王宮の地下通路から、ひとつの人影がゆっくりと歩み出てきた。
黒ミスリル鋼の軽鎧を纏い、背中に巨大な漆黒の大剣を背負ったリーゼロッテである。
大立ち回りを演じ、地下の焦熱地獄を一人で鎮圧してきたはずの彼女の姿には、煤ひとつ、返り血の一滴すら残っていなかった。
纏っていた防汚魔法によって、作業着代わりの鎧は新品同様の輝きを保っている。
王宮の裏庭、夕暮れの風が吹き抜けるテラスへ足を踏み入れたリーゼロッテを出迎えたのは、石畳に腰を下ろして煙管を吹かしていたカインだった。
ボサボサの茶髪を掻きながら、左耳の通信ピアスを軽くトントンと叩く。
「……おいおい。外郭の魔導計器が振り切れたぞ。炉心の再稼働どころか、大結界の出力が過去最高値を叩き出してやがる」
「あら、当然よ。循環パイプの無駄な直列配線を全部並列に繋ぎ直して、圧力損失をゼロにしておいたもの。向こう百年はノーメンテナンスでもびくともしないはずよ」
リーゼロッテは作業用手袋をパチンと外しながら、至って平然と言い放った。
世界を救った自覚など微塵も感じさせない、ただの水道管の修理を終えた職人のような口ぶりである。
「百年ノーメンテって……王立魔導院の存在意義を根こそぎへし折る気かよ」
カインは呆れ果てたように深くため息をつくと、立ち上がって外套の埃を払った。
「まあいいや。これで契約上の義務は全部完了だ。王宮の正面玄関じゃ、国王以下、残った貴族どもが総出でお前の凱旋を待ち構えてるぜ。『我が国の救世主、真の英雄』を迎えるための、仰々しい式典の準備をしてやがる」
「英雄の凱旋式典?」
リーゼロッテは琥珀色の瞳をわずかに細めると、腰のポーチから銀の懐中時計を取り出した。
カチリ、と蓋を開ける。
文字盤の短針は、ちょうど数字の『5』の真上に重なっていた。
「……十七時ジャストね」
パチン、と乾いた音を立てて蓋を閉じる。
リーゼロッテは優雅に微笑むと、背中の大剣の位置を直しながら、正面玄関とは真逆の方向――王宮の通用門へと踵を返した。
「本日の業務――外注による臨時出向作業は、これにて定時終了です。残業代の出ない無駄な式典に付き合う義理はございませんわ」
「はっ、違げえねえ」
カインもまた、査察手帳を懐へとしまい込み、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
「定時退社は労働者の神聖なる権利だからな。……さっさと帰って、あのクソ貴族どもに契約完了の請求書を叩きつけてやるか」
夕日に照らされる王都の空の下、奇跡を起こした張本人たちは、誰にも見送られることなく、極めて涼しい顔で現場を後にするのだった。




